幕間・灰色の星が終わった日(下)
一時間ほど発声練習を繰り返し、多少かすれはするが喋れるようになった。
少女はよろめきながらも立ち上がる。
ふと、他の繭が目に入った。
外から慎重に触れると、無機質な冷たさが伝わった。
「……大人はどこに行ったの?」
改めて周囲を見渡すが、薄暗い部屋には壊れた機材が散らばっているだけだ。
戸惑いながら居住区に繋がる扉に触れる。
しかし、固く閉ざされていて開きそうにない。
(どうしよう)
不意に、風が隙間を通って音を立てた。
隙間風など経験がない少女の肩が跳ねる。
恐る恐るそちらを向くと、目立たない色の扉が、わずかに開いていた。
少し伸びた黒髪を揺らして、彼女はドアノブに手をかける。
それを咎める存在は、今この場には一人もいない。
扉を抜けた先には、廊下と大きな窓があった。
窓ガラスは粉々に割れて、床には破片と小石が散乱していた。
「すごい。これ、外に出れちゃうんじゃ」
思わず興奮した様子で足を踏み出し、ふと思う。
——鉱物の声が聞こえない。
少女は動揺しながら、窓の外の地面に触れた。
ざらりとした砂の感触が指を包む。
数日前には苔むした岩があったはずのに、視界は灰色の空と砂で埋まっている。
理性ではなく、生き物としての本能が告げる。
ここでは長くは生きられない。
この星はもう、死んでいると。
ふらふらと黒い染みのある汚れた廊下を進む。
なぜ自分だけがこの状況の中、『銀の繭』から出されたのか。
少女が思考を放棄しようとしたその時だった。
『行こう』
「……え?」
『行こう』
「っ!」
聞き慣れた、人とは違う鉱石の声音。
慌てて走り出した足はもつれ、期待を押し殺すように下唇を噛んだ。
たどり着いた禁止区域の再奥で、それは彼女を待っていた。
『行こう』
老若男女を混ぜた響きは、少女の身長よりも大きな宝石から鳴っている。
虹色のそれは門のような機械にはまっていた。
「何これ。ここだけ電気が通ってるの?」
戸惑いつつも、点滅を繰り返す機器に触れる。
普段使っている学習用の物と違って、操作する部分が圧倒的に多い。
授業で習ったコンピューターと呼ばれる物だ。
不意に、少女は肘で何かを押してしまった。
(しまっ)
モニターが点滅し、所々欠けた文章が表示される。
近くにあった段差を踏み台に、彼女はそれを読み始めた。
『これは個人的な記録だ。特定の操作でしか読めないようにし■おく。
我々の暮らす惑星は、かつては「■■」と呼ばれていたそうだ。
しかしとある毒素によっ■、我々の先祖の生息地が絞られ始めた。
やがて技術は徐々に衰■し、住める場所を転々としていた集団が、過去の文明の跡地を発見した。
その集団こそ、我々の■つ前の世代である。
彼らはその■■を整え、そこを人類最期の場所と決めて、定住することにした。
定住地の名は『フリートホープ』。
古■技術を読み解く中で、休眠機器である『銀の繭』の使い方がわかった。
また、並行世界を移■■るために作られた『門』の存在が明らかになった。
今よりも生きるための心配が少ない世界に、我々は行けるかもしれない。
子供達の経過は順調だ。
このままこの場所で生きるにせよ、『門』で別時空に転送するにせよ、肉体の適応能力を極限まで上げる必要がある。
なかば強引な薬物投与には反対者もいたが、必要■手段だったと俺は思う。
現に彼らは現状の星でも暮らせる体になった。
子供達を『銀の繭』で休眠させた。
彼らは後■に続く大切な存在だ。
そのために彼らの親を含む志願者達は、貴重な食料としてその身を『フリートホープ』の合成■■に任せたのだから。
『門』の解析は明日には終わるだろう。
今日、ついに発狂した者が出た。
己はまず助からない。『繭』の子供達もいずれは死ぬと言って、『繭』■動力源に押し入ろうとしている。
残念だが場合によっ■■、力ずくで止めなくてはいけない』
日記の文章はそこで終わっている。
少女は書かれていることをただ受け止めた。
そして気づいてしまった。
廊下の汚れや、動かない『繭』の違和感。
何よりも、理性がわざと無視をしていた——辺り一面に転がっている干からびた人間の姿に。
「……」
段差だと思って踏んでいたのは、白い服を着た男の死体だった。
ゆっくりと降りて、彼女は呟いた。
「そっか、手紙、読まれてなかったんだ」
きっといつもの食事の中には、自分の父母もいたはずだ。
少女はそっと腹を撫でる。
知らないだけで、ずっとこの身と共にあった。
試しに自分自身を抱きしめてみるも、腕は一人分の温もりしか無かった。
男性の脇に転がっていた銃を、手慰みに分解する。
過去の戦争や自衛で使われていたのだと教わった。
その時なぜ詳細な構造まで習うのかわからなかったが、教える相手が死ぬ前に全てを継承しようとしたのだろう。
分解と再構築を終えて、少女は一人考える。
これからどうするべきか。
周囲の劣化具合からすると、最低でも休眠から十数年は経っている。
食料や水の調達方法はわからず、先ほどまでついていた電気は消えかかっていた。
『——行こう』
ふと、彼女は一つ思いついた。
「君、それもしかして名前じゃないの?」
返事はなく言葉だけが繰り返される。
巨大なこの機械が、日記にあった『門』らしい。
「どうして、使われなかったのかな」
発狂者との殺し合いになったか、毒素が防げなかったのか、色々と考えられるところだが、少女は『門』に近寄った。
複雑な紋様の鍵穴には、すでに鍵が刺さっている。
彼女の知る物の五倍はありそうだが、どうにか動かせそうだった。
(これを回したら、ここじゃないどこかに行ける?)
しばし逡巡した後、幼い手は冷たい鍵を握った。
『行こう。最後の人の子よ』
扉の先には渦があった。
指の先から少しずつ、分解されながら飲み込まれていく。
一瞬息を飲んでから、少女は自ら飛び込んだ。
瞼がぴくりと蠢く。
慎重に開いた先には、透き通るような青が広がっていた。
「あ……」
渦はぐんぐんと遠ざかって閉じていく。
そこで自分が落下していることを知った。
不意に、ふわふわした白い物が動いているのが見えた。
(あれ、習ったことある)
視界を覆い尽くしているのは、彼女の知らない空。
美しい光景が、じわりとぼやける。
(そうだ。もう、どこにもない)
友と眺めた灰色の空は、渦の向こうに消えた。
自分で捨てた故郷を思って、少女は涙をいくつもこぼした。
作られたものであっても、それは彼女にとって、確かにあった日常なのだ。
近く地面に覚悟を決めた時、ふわりと何かが少女を受け止める。
空気抵抗とは違うそれに、彼女は慣れ親しんだ機械的な感触を覚えた。
見えない何かはそのまま、黒髪の少女を草原に下ろす。
呆気に取られていると、複数人の足音が聞こえてきた。
「あ、兄さん、父さん、こっちにいたよ」
二人の青年が草をかき分けて近寄ってくる。
純朴そうな人と目つきの悪い人。
どこか浮ついた気分で黙っていれば、二人はその場に膝を下ろした。
「こんにちは。僕らね、君を迎えに来たんだ」
「誘拐犯の台詞だな」
ぶっきらぼうにそう言って、赤毛の青年は水筒の水で布を濡らす。
「ん」
「……えっと」
「冷やしとけ。腫れるぞ」
言われるがままに布を瞼に当てた。
そんなにわかりやすい顔だったかと思っていると、もう一人分の声が聞こえた。
「はぁ、ふ、二人共早いな……父さん足が痛いよ」
そろそろと布をずらした瞬間、優しげな表情の男性と目があった。
(大人だ)
少女が困惑したのがわかったのか、彼は穏やかに微笑み、目線を合わすために膝を折る。
「僕はアダム。そこの二人はカインとアベル。君の名前を聞かせてくれるかな」
少し考えてから、彼女は唇を開いた。
「——青空」




