第五話・無謀者共
「『父上』の自室には、基本入ることはできません」
コツコツと靴を鳴らして、無垢なる悪魔は指先を振る。
彼女はどこか芝居がかった口調で続けた。
「しかし、何にも例外はあるというもの。非常時のため、彼の部屋に直通している場所があります」
くるりと服の裾をひるがえし、悪魔は両手を広げる。
「ようこそ。私の担当区域——煉獄の図書館塔へ」
そこは本棚で壁が敷き詰められ、見上げてもてっぺんがわからないほど積み上げられていた。
かかっている梯子さえ、本当に登れるのかと困惑する長さだ。
本に無関心なオリバーも、思わず呆気に取られている。
「す、すごいです」
「量はあるでしょうね。何せ、この星についての記録が全て所蔵されていますから」
どうでもよさそうに告げられた言葉に、黒髪の少年の片眉が上がる。
この星の全ての記録。
それがこの場に揃っていると悪魔は言う。
シオンはじっと本棚を眺めた。
「見ますか?」
ふと、背後から小声で尋ねられる。
予想外の近さに狼狽してから、少年は真剣な表情で返した。
「いや、やめておく」
「よろしいので? 決して無関係ではないと記憶しておりますが」
「そりゃあ、正しい記録が伝わるのが一番良い。それでも、当代を生きる人間が書いて残しすことで、どれだけ主観が混じっていても、むしろその主観が後代で批評されることに意味がある」
やはりあまり興味がないのか、無垢は「ふぅん」とそっぽを向いた。
数秒思案した後、彼女はシオンに声をかける。
「私、貴方嫌いなんですよね」
「え……え??」
「前よりはマシな顔になりましたが」
「お、ぉおん」
突然の宣言に、彼が少し傷ついていると、悪魔は珍しく笑みを消した。
「『父上』をどうするつもりですか?」
沈黙の中で、無垢の瞳に不安が滲んでいた。
三人は押し黙り、誰ともなく話し始める。
身を寄せ合って歩む間、彼らは一つの結論に達していた。
「もう一度会いたい、最初はそれだけでした……」
「別れの挨拶も一方的だったしね」
「でも考えたんだ」
黒髪の少年はまっすぐに悪魔を見つめる。
「また、旅に誘おうって」
「『父上』を連れ出すと?」
「断られるかもしれないけど、もう少しだけ、一緒に行きたいって言うつもりだ」
「……そうですか」
次の瞬間には、無垢なる悪魔の微笑みは戻っていた。
確かな寂しさを押し込めて、彼女は少年少女に言葉を吐いた。
「我々悪魔は、気がついたら煉獄にいました」
一つ一つ思い出してなぞるように続ける。
「姿があって、役割があって、家族がありました。家族としての実感は個々で違い……私は、実感がほぼありませんでした。漠然と、家族であった記録だけがある。手を繋いだ記憶はあるのに、その温度を覚えていない不可解さ」
数秒、言葉に詰まる。
少年達は静かに耳を傾けていた。
「それでも、それでも『父上』は、いつも一歩下がって我々を見守っていました。実感のない私も含めて。その眼差しは、きっと、愛情と呼ばれるものであったと思います」
不意に語気が強まる。
「でも、なぜ距離があるのか、私達にはわからない! ……かつては、父さんはもっと楽に笑っていたはずのに」
泣き出しそうな笑顔のまま、
「私は貴方達が嫌いだ。大嫌いだ。父さんがあんなに楽しそうに笑う記録は、煉獄ではついぞ見られなかった。だから、」
無垢なる悪魔は、アダムとイヴの長女は、とうの昔に諦めた願い事を口にした。
「……あの人をもっと、自由にしてあげて」
突然の指を打ち鳴らす音。
床の中央部が開き、暗い空洞が姿を見せる。
底の見えない穴は、よく見れば螺旋階段になっていた。
「この下が、『父上』の自室です。足元にはお気をつけて」
シオンとアニタが悪魔に声をかけようとした途端、二人の体が宙を浮いた。
「え」「ふぇ」
少年少女を両脇に抱えて、巨人の青年は穴の淵に足をかける。
「さっさと行くよ。僕が少し退屈してまで来たんだから、恨み言の一つは言わせてもらわないと」
そう言うが早いや、オリバーは階段を無視して飛び降りた。
点になった彼らを見下ろして、彼女はため息混じりに呟く。
「悪魔の当主を一時の気休めに誘う……それを無謀と貶すのも、勇敢と称賛するのも、きっと同じ事なのでしょうね」
気休めの一つさえ、彼にとって守る立場の「子」には、与えることができなかった。
そのことを自覚する度、無垢の胸元がじくりと痛んだ。
耳元を通り過ぎる風、下腹部が緊張で引き締まる。
少年が思わず目を閉じた後に、青年の言葉が届いた。
「見えたよ」
思わずシオンが目を見開く。
転がるガラクタと瓦礫の山、そして——そこに膝を抱えて座っている影。
孤独のアダムがマスクで覆われた顔を持ち上げた。




