第五話 噂話のその真意
『生きて、幸せになってちょうだい。どうかあなただけでも』
それが母の最後の言葉だった。
いや、もしかしたら伯母だったのかもしれないし、祖母だったのかもしれない。
物陰で一夜を明かした青年は、ぼんやりと曖昧な記憶を探る。
しかし自分の近親の女性だということ以外は、何も思い出せなかった。
(……そろそろ起きようかな)
青年が体を起こすと、肩の上で何かがもぞもぞ動いた。
黒いフードに隠されていてその姿形は見えないが、青年が撫でて落ち着かせてるのを見る限り、どうやら生き物のようだ。
彼は穏やかな微笑みを浮かべて、路地裏のさらに奥へ進んで行った。
顔を見るにまだ十代のようだが、それにしては背が高く、やけに落ち着いた雰囲気がある。
よく鍛えられた体であることは、服の上からでもわかった。
奥へ奥へと進むほど、建物が入り組んで日光が遮られていく。
ひっそりと行われている闇市が数カ所見受けられた。
妙に甘ったるい匂いのする商人達を無視して、青年は服の袖で口を覆う。
長い間こうした場所をねぐらにしていたせいで、それらが違法な物であることはすぐにわかった。
ようやく闇市を抜けると、領邦の中心街の一歩手前だった。
「進みすぎたね。別の道を行こうか」
ゆっくりとした優しげな声に対し、肩の上でまた何かが動いた。
ふと、青年は手配書の掲示板に目をとめた。
警備隊や国が指定する犯罪者以外にも、様々な人物の姿絵と賞金が貼られている。
その中の一つに凶悪な、もはや化け物のような顔があった。
賞金の額はゆうに、庶民が一生遊んで暮らせるほどのものだ。
雨に濡れてしまったのか、名前の部分がインクが掠れて読めない。
青年はその手配書を——呆れた表情で握りつぶした。
安い宿から町へと繰り出した一行は、小さな喫茶店に入った。
シオンは『ご自由に』と書かれた棚から新聞を抜き取る。
「ふむふむ?」
新聞の一面には『医療団体ファントム、ウィスタリアへ進出』という記事が載っていた。
ウィスタリアとは、帝国の土地の中でたった一つ存続している小国である。
「あら、思ったよりも重大なことが起きてるわね」
「ウィスタリア側が長らく嫌がってたんだよな」
隣の席から覗き込んできたヴィーと、お互いに距離を気にすることなく語り合う。
「五番の方〜」
「あ、はい!」
二人が記事を漁っている中、アニタは出来上がった料理を取りに行った。
アスパラガスとジャガイモのフリッターと、三人の飲み物が乗ったトレーを慎重に机の上に置く。
彼女の豊かな胸部と、艶やかな銀髪がわずかに揺れた。
カウンターと机を往復する数秒間でさえ、遠慮の無い視線が突き刺さり、彼女は気まずそうに席に着いた。
「カフェオレはシオンで、ブラックコーヒーがヴィーさんですよね……なんで嫌がるんですか?」
二人の前にグラスを差し出す。ちなみに彼女のはアンズジュースだ。
「ファントムって医療援助を行う民間の団体ですよね? どうしてそれが国に入るのを嫌がるんです?」
「おん……まあ、理由は色々あるんだけど」
カフェオレを半分ほど飲んでから、少年は卓上の砂糖を一匙足した。
彼がフォークでかき混ぜている間ヴィーが話を続ける。
「ファントムを構成してるのは全員帝国民で、ウィスタリアは帝国の支配に歯向かい続けた国だから、国内の抵抗が強かったのよ」
彼女はコーヒーもそこそこに、アスパラガスのフリッターを口に運んだ。
とりわけて美味なわけではないが、揚げたてで衣がさっくりしている。
中身の野菜も衣によって蒸された状態で、野菜の旨味が凝縮されていた。
「うわ、めっちゃ甘くなった」
「砂糖入れすぎだよシオン……抵抗、ですか」
「いくら優れた制度やシステムがあっても、それを利用する人の心や理解が追いつくかは別ってことね」
アニタは不思議そうに首を傾げて、ジュースをストローで啜る。
直後、予想以上の酸味に肩が跳ね、シオンのカフェオレを一口貰った。
少年の目的である悪魔探しを兼ねて、三人は町中を歩き回る。
彼は歩きながら商店の様子や、人々の微妙な訛りなどを記録した。
一休みがてら公園のベンチに座った時、銀髪の少女が首を傾げた。
「シオン。薄紫の方のナイフ、ちょっと光ってるよ?」
「おん?」
取り出してみると、確かに鈍く発光している。
「全然気がつかなったわ……」
「これぐらいだと鞘が光を遮るからなぁ。とりあえず、この付近にいるってのは確定だ。幸運だったな」
楽しそうな彼の言葉に、そのナイフについて知っているヴィーは苦笑し、何も知らないアニタはナイフをつつこうとしていた。
少年がナイフを鞘に戻すと、銀髪の少女は首を傾げた。
「ねぇシオン、何が近くにいるの?」
「俺の、会わなきゃいけねぇ取材先だ」
しばらくして、彼らは中心から少し外れた商店街に入った。
どうやらこの先は住宅地のようだ。
ちらほら家族連れの姿も見える。
一人の子供が桃髪の少女を見上げて手を振ってきた。
ヴィーも笑顔で控えめに手を振り返す。
しかし休日の午後であるというのに、人通りがやけに少ない。
「……なんか人少なくね?」
「本当ね。何か事件があったようには見えないけど」
疑問を抱きつつも、彼らは一軒の肉屋に立ち寄った。
人の良さそうな中年の男性店員が、ハキハキとした声で注文を受ける。
ヴィーとアニタはコロッケ、シオンは一人だけメンチカツを頼んだ。
格安の揚げ物を受け取って、少年少女は舌鼓を打つ。
昼食用にカツサンドを包んでもらっている間、店員と世間話に興じた。
「皆さんは観光目的で来られたんですか?」
「ええ、そうよ」
「でしたらここの通りよりも、領邦の北にある歓楽街がおすすめですよ」
「あらそうなの? もう少しここら辺をぶらつくつもりだったのだけど」
それを聞いた男性は、周りを見渡してから顔を寄せて呟いた。
「ここ最近、こう言っちゃあなんですが、頭のおかしい男がうろついてましてね。暴力事件とかはまだ起きて無いんですが……あまり観光客の方々に見ていただきたくは無くて」
苦笑する彼にお礼を言い、三人は肉屋から離れる。
シオンは紙袋を目線の高さまで持ち上げて生唾を飲んだ。
「揚げたてのカツサンド……」
「ダメよ」
「まだ何も言ってねぇって」
「どうせ『食べたい』でしょ?」
「ぐぬぅぅ」
「食べたくなる気持ちはわかるけど、カツが冷めるまで待ってね?」
その方がソースがよく染みると、優しい声音で少女がなだめる。
「おん」
少年が素直に頷いた瞬間、彼らの近くで怒号が響いた。
「ふざけるんじゃねぇぞ!!」
素早く身構えると、中肉中背の男性が、周囲に怒鳴り散らしている。
最初は喧嘩のように見えたものの、数秒後には彼が周囲に対して一方的に怒りをぶつけていることがわかった。
「お前ら寄ってたかって俺を悪者に仕立て上げやがって! それならこっちにだって考えがあるんだからな! 聞いてるのか犯罪者ども!!」
喚き立てる彼の白髪が揺れ、目は血走り、服装は薄汚れている。
それを取り巻く住民の中には、憐れみの目を向ける者もいた。
「……あの人のことかしら」
「だろうな」
シオンとヴィーは警戒しながら、冷静に観察を続ける。
その後ろで、アニタは男性の怒声に怯えて萎縮していた。
不意に、男は頭を抱えて地面に膝をついた。
苦しそうなすすり泣きにも似た呼吸音がこぼれる。
「おい大丈夫か?」
そっと差し伸べたシオンの手をはたき、男は虚ろな目で叫んだ。
「近寄るなこの悪魔っ!!」
節くれだった拳が少年にせまる。
喧騒が届いていないのか、穏やかな表情で青年が買い物をしている。
彼の顔を見上げた青果店の女性店員は頬を染め、リンゴを一個こっそりと袋に足した。
青年は口角を持ち上げてそれに答えた。
生まれ持った物の使い方は、己が一番よくわかっている。
買い物袋を片手に下げ、無意識の内に、気配と足音を消して歩く。
ふと肩の上で何かが蠢いた。
青年は商店街の通りに目をやる。
そこではちょうど、黒髪の少年に掴みかかった男が、弧を描くように投げ飛ばされているところだった。
一連の動作の滑らかさに素直に感嘆し、そしてすぐに興味を失った。
歩きながらリンゴを取り出して、軽く袖で拭いてかじりつく。
甘いなと思いはしたが、先ほどの店員の姿はすでに記憶に無かった。
一方、男は自分が投げられたことを理解すると、甲高い悲鳴をあげて住宅地の方へと走って行った。
重苦しい雰囲気を破ったのは、人々の控えめな囁きだった。
「スタンさん、どうしちゃったのかしらね」
「少し前はああじゃ無かったのに……」
同情と苛立ちが混ざった声が次々に重なり合う。
不思議なのは、この場にいる住人の誰もが、自分や近しい人が同じようになる可能性など一つも考慮していないことだ。
震えるアニタの背を撫でて落ち着かせながら、シオンはスタンの言葉を反芻していた。
ナイフを気にする余裕は無かったが、まだわずかに発光している。
「……色々と調べたいことができた」
真面目な表情で呟いた直後、彼の腹が元気よく鳴った。
「腹減ったな!」
「そ、そうだね」
「今はそれよりも! 不用意に近づいたことを反省しなさいバカ!」
「にぇ、しゅいましぇん」
むにっと少年の両頬を引っ張りながら、ヴィーはため息を吐いた。
カツサンドを咀嚼しつつ、三人は住宅地を進んでいく。
シャキシャキのキャベツがほど良い薬味になっていて、パンと豚肉そしてソースの染み込んだ衣の柔らかさが引き立てられている。
唐突にシオンが足を止めた。
「おん? なんだあれ」
視線の先には、住宅の柵に身を隠して、通りを眺めている背中がある。
「……怪しいわね」
「……怪しいです」
「俺ちょっと行ってくる」
無音で歩み寄り、慎重に相手の肩に手を置く。
「よぉ! 一体どうしたんだ?」
「うっひゃあっ!」
びくついた声をあげたのは、新聞配達員の少年だった。
「驚かせてごめんな。何してるんだ?」
「え、えっと、夕刊をあそこの……スタンさんのお宅に届けないとなんですけど……玄関の前に近寄るだけで、殴りかかってくるんですよ」
そう言って、少年は赤く腫れた頰をさする。
よく見れば唇の端が切れて血が滲んでいた。
「でもあの家が最後だから、届けないと帰れないし……」
「おーん、俺らが届けて来ようか?」
突然の申し出に、彼はぽかんと口を開けた。
「い、いいの?」
「良いぞ! ちょうど用があるからな」
嬉しそうに笑顔を浮かべて、配達員の少年は夕刊を取り出す、
シオンはそれを受け取ると、改めて目的地を眺めた。
住宅地の奥に場所にある二階建ての家。
それ自体は他の住宅とあまり変わらない。
経年劣化で曲がってしまったポストには『スタン』とペンキで書かれていた。
名字は使っていないか、ペンキが剥げたかのどちらかだろう。
黒髪の少年はひとまずそこに新聞を差し込んでおいた。
「呼び鈴が見当たらないわね……」
窓から中を確かめようとしたが、分厚いカーテンが締め切られていて見えない。
ふと、玄関をノックしていたシオンが声を張り上げた。
「なー、ヴィー! アニター!」
「ちょっと、あんまり大声出さないでよ……」
「なんか開いた!」
少年が示した先で、玄関扉の蝶番はきぃきぃと鳴いている。
「は、ま、待ちなさい。え? 何? またピッキングでもしたの?」
「いや手をかけたら普通に開いたんだって。俺何もしてねぇ」
「信じられるかっ!!」
日頃の行いはかくも重要である。
二人のやりとりを横目に、アニタは扉の脇から顔を覗かせた。
「ス、スタンさーん? ご在宅ですかー?」
返事は無い。
少女の言葉は内部で反響して消えていく。
三人は顔を見合わせ、恐る恐る足を踏み入れた。
他方——家の奥にある暗い寝室。
寝台の中で、家主の男が体を震わせている。
小声でしきりに何かを呟いているが内容は不明瞭だ。
「ねーぇ、パパぁ」
突如、気だるげな若い女性の声が響く。
それに対して家主の肩が跳ねる。
「お客様が来たみたいよぉ?」
ついで返答したのは中性的な声音だった。
「おや、本当かい? こんな一般廃棄物の巣に?」
「私嘘はつかないわぁ。一日に一回しかぁ」
「お前は正直者だね。ハヴヘスト」
「そうでしょぉ? もっと褒めてよパパぁ」
どうやら会話しているのは一組の親子であるらしい。
ハヴヘストと呼ばれた娘の方は、少し間延びした口調だ。
その後も姿の見えない二人の声が寝室を飛び交う。
その度にスタンは怯えるように視線を泳がせた。
「お客様は何人だい?」
「三人よぉ」
「それはそれは素晴らしい。ご馳走の用意をしないとね」
「もっと早くわかってたら録音盤買ってきたのにぃ」
くすくすと部屋中に響き渡る笑い声。
しかしそこに優しさや情愛は見受けられない。
平坦で無機質なのに温度を感じる矛盾に、思わずスタンは冷や汗をかいた。
「あなたのような一般廃棄物のところにも客人が来るのですね。見直してしまいましたよ——マスター」
「ひっ、ひぃぃぃ! く、来るな!」
男は寝台のシーツから抜け出して、部屋の隅へと這いずる。
それを追うように黒い影が彼の足首を掴む。
室内のわずかな光を奪って出現したそれは、やけに生々しい感触を男に伝えた。
「あぁんもぉ、逃げないでよマスタぁ。お楽しみはこれからよぉ?」
震える家主の顔は、気の毒なほど青ざめていた。
楽しそうに笑う娘とは違い、父の方は無言だった。
それでも何やら湧き上がる興奮をしずめようと耐えていることを、漏れ聞こえる吐息が示している。
「……ああ、ああきっと、今夜はとても楽しくなりますね」
狂った男の巣に入り込んだ子供達の背後で、不自然な風に押された玄関扉が、音を立てて閉まり始めた。




