幕間・灰色の星が終わった日(上)
——ねぇ、君の名前を教えてよ。
楽しげに口角を上げて、黒髪の少女は小石に耳をすませている。
ちろんという微かな音の後、か細い響きが聞こえた。
『ソレアイト』
「それあいとっていうんだね」
にこにこと笑っていると、同室の少女が眉を潜めた。
「またやってる。そんなのどこから拾ってきたのよ」
「え? なんか言った?」
「別に。あたし先行くから」
その宣言通り、彼女は扉を向こうに歩いて行った。
「……告げ口しないから優しいよね」
声をかけても、手のひらに転がる石は『ソレアイト』と繰り返す。
問いかけた鉱物から返事が来るようになったのは、少女が物心ついた時からのことだ。
最も、それぞれ決まった一語を繰り返すだけである。
皆できることだと思っていたが、どうやら違うらしい。
個人用の戸棚を開き、下着類をどかして、奥にはめてある板をずらす。
いくつかの石が転がるそこに、灰色の小石をそっと置いた。
「これでよしっ」
大人に見つかったら没収されてしまう。
なにせ、禁止区域の近くまで行って拾ってきたのだから。
もぞもぞと寝間着から白い服に着替える。
独特の模様が入った寝間着とは違って、白服は全て同じパターンである。
廊下に出ると、他の子供達とはちあった。
皆少女と同じ十歳ぐらいの見た目だ。
たわいもない世間話をしていると、不意に窓が目に入る。
円形に切り取られた空は、見慣れた灰色をしていた。
ここはフリートホープ。
十八に満たぬ子供達に、適切な教育を施すための施設である。
卒業するまでは、子供用の居住区以外に行くことはできない。
それが少女の常識だった。
『かつて、人類には宗教という概念が存在しました。今日からはその内の一神教について学びましょう』
柔らかな音声と共に、眼前には文字列が並んだ。
情報の濁流を、少女は一つ残らず把握した。
指を軽く動かすと、講義は次の段階へ移行する。
『資料の五番は当時の芸術作品の再現です。右は先ほど説明した聖人ですね。では、左にいる人物は何でしょう? 先月学習した鳥の翼が描かれています』
目の前に音声入力の指示が出たところで、映像はモノクロになった。
ゆっくりと頭を覆っていた機械が外される。
「お疲れ様。今日の血液検査も終わったよ」
「ありがとうございます」
言われるがままに椅子から立ち上がり、少女は自分の左腕を見た。
注射された跡に白いガーゼのような物が当ててある。
くぅっと小さなお腹が鳴った。
大人に一礼してから、結わえた黒髪を揺らして食堂へと向かう。
食料はいつも通り、ワンプレートで渡される。
ジェル状の水分と、黄色のペースト。そして程よく固い黒のブロック。
決まった席で子供達は歓談しながら食事を進めた。
全員が食べ終えたところで、大人がキューブ状のおやつを配り始めた。
「そういえば、これ成人地区では食べられないって本当ですか」
「本当だよ。若い子は低血糖になりやすいから、その対策で渡してるんだ」
返答に満足したのか、同室の彼女はそれを咀嚼する。
少女も口に放り込むと、カリコリとした食感とほのかな甘味が広がった。
ふと顔を上げると、二階のガラス張りの廊下から、数名の大人達が覗き込んでいた。
(……あの中にいるかな。お父さんとお母さん)
試しに手を振ってみると、顔は見えないが、誰かが振り返してくれた。
両親は成人地区におり、十八歳になるまでは直接会うことは叶わない。
そう少女は教わっている。
唯一の伝達手段は、紙の手紙だけだ。
再生紙もインクも学習の進み具合によって、貰えるかどうかが決まる。
少女の成績は不動の一番だった。
そのため毎週手紙を送ることが習慣にもなっていた。
消灯前、わずかな時間で父母に向けた文章を書く。
「えっと『以前、私の名前は曽祖母と同じと書いていましたが、何か意味はあるのでしょうか』……と。あ、あと『二人は食堂の二階に行ったことがありますか』かな」
言いたいことを書き終え、彼女が微笑んだ瞬間だった。
隣の寝台で何かが跳ねた。
「……え?」
びくびくと痙攣しながら、同室の少女はこみ上げた吐瀉物で苦しげに顔を歪めている。
慌てて体を触れて横向きにすると、か細い呼吸音がこぼれた。
しかし痙攣は止まず、少女は即座に廊下へ飛び出した。
フリートホープでは、居住区にいる大人の位置は決まっている。
目の前に巡回中の大人が見えた。
思わずその手を引いて行くと——彼女の姿が消えていた。
戸惑う黒髪の少女に、大人は優しく声をかける。
「医療班が回収したんだよ。君ももう寝なさい」
不意に、その大人は戸棚に置かれた手紙に気がつく。
「これ、ご両親にかな。送っておくね」
小さくお礼を口にして、少女は寝台に潜る。
手紙は彼女の親に届くことは無かった。
翌朝、いつも通りの食事と講義。
ただ同室の寝台は空っぽのままだ。
少女はそれにどこか不安を感じていた。
十八になって居住区から出る人はいても、昨晩のように妙な動きをする人間は初めて見た。
あれが一体何を示すのか、彼女は知らないのだ。
午後の講義が終わった頃、ピコンと音を立てて、一通の連絡が来た。
「確認」
『ご両親からです。表示します』
綺麗な文字で書かれた文面が広がる。
慎重に少しずつ読んでいくと、自分の名前の由来が書いてあった。
知ったところでどうしようもないが、ほんの少し気になったのだ。
そっと文章を撫でたい衝動にかられる。
しかし椅子に固定され、指先しか使えないため、触れることはできない。
それがちょっとだけ残念だった。
ある日のことだった。
廊下で灰色の空を見上げていると、大人に声をかけられた。
(何かあったのかな)
招集された先は、少女の想像を超えていた。
目の前にあるのは禁止区域と居住区を隔てる扉。
これから、その鉄の扉が開かれようとしている。
案内された先は、禁止区域。
子供は出られない外の調査や、学習プログラム等の設定を行っている場所だ。
厳重な防護服を着た大人が、ゆっくりと口を開いた。
「君たちは、これからこの『銀の繭』に入ります」
そう言って、銀色の丸い機械を指差す。
見たこともないそれを観察していると、少女はとあることに気がついた。
(あれ……同室のあの子がいない)
明らかに子供達の数が減っている。
それが指摘されることはなく、一人、また一人と『繭』に入っていく。
すぐに黒髪の少女の番が来た。
緊張しながら中に入り、口に機械の覆いを付ける。
冷たい煙が充満し、次第に彼女の思考は止まった。
透明な液体が子供達を包んでいく。
『銀の繭』は粛々と彼らを眠りに誘った。
耳元で蒸気が吹き出す音がする。
じわり——少女の瞼が持ち上がった。
『繭』の脇が徐々に開いて、ぬるい外気が肌に触れた。
(……? さっき入ったばっかりなのに)
やけに重たい体を持ち上げ、地面に足をつける。
瞬間、がくりと膝から力が抜けた。
「——ぁ……ぇ」
口から出たのは掠れた母音。
その違和感に気付く前に、少女は辺りを見渡した。
へたり込んだ先の床は薄汚れていて、他の『繭』はどれも静まり返っている。
そして何より、大人の姿がどこにも無かった。




