第四話・自分に厳しいサファイア
石造りの門は、乱雑に少年を吐き出した。
受け身を取って転がったシオンに、大きな人影が覆いかぶさる。
「お、オリバー! どうしたんだこんなところで」
「散歩」
しゃがみ込んで見下ろしながら、彼は肩をすくめた。
隠す気もない退屈そうな顔に、思わず少年はにっと口角を上げた。
「なんか、表情増えたな?」
「……早く起きなよ」
「そうだった」
立ち上がったシオンの脇で、オリバーは自分の両頬を揉んだ。
数分ほど消えていた少年の匂いが戻ってきて、念のため探しに来たのだが、まさか習慣化していた微笑みが消えているとは思わなかった。
不思議がる青年に、ふとシオンが問いかける。
「アニタは長机のところか?」
「ううん。エラムと一緒に、羊頭の悪魔について行った」
シオンが煉獄に戻る直前のこと。
「一番最初の天使様、いえ最後のというべきだったかしら?」
憤怒の悪魔は静かに微笑んでいた。
アニタの額に冷や汗が滲んだ。
震える手を包み込んで、少女は悪魔に声をかける。
「少し、お話しできますか」
「ええ勿論。よろしければ私の自室で……何もしませんよ、心配なさらずとも」
憤怒がそう言って見つめる先には、いつの間にか起きていたオリバーが座っている。
警戒を緩めない彼の肩で、炎の精霊が伸びをした。
「しんぱいなラ、ついてこうカ?」
悪魔と青年を交互に見つめて、銀髪の少女はしっかりと頷く。
「エラムさんがよろしければ、お願いします」
「ほいやっサ」
納得したのか、オリバーは両目をつむった。
憤怒に手を引かれながら、彼女の部屋に足を踏み入れる。
灰色の天井、ソファーと丸テーブル、驚くほど簡素な空間だ。
「さて、お聞きしましょうか」
促されるままに隣に座って、アニタは恐る恐る口を開いた。
「先ほど言っていた天使って……ミカエル、さんのことですよね」
「ああ、ご存知でしたか。そうですよ」
(やっぱり、ルフトゥさんだったんだ)
確信を胸に抱き、彼女は沈黙の中で追想した。
それは、研究所に保護されていた時まで遡る。
少女がまだ柔らかな寝台に慣れてなかった頃。
見回りの人に挨拶をして、ゆっくりと睡魔に包まれる。
彼女はその日夢を見た。
徐々に体が持ち上がり、どんどん地面が遠ざかる。
やがて雲も超え、青い球を見下ろす場所にたどり着いた。
(あれは星。わたしやシオンがいるところ)
そう直感した次の瞬間、青い星は影に覆われた。
穏やかに微笑む鉄の処女が、その胎内に球体を飲み込む。
暗闇の中で誰かが囁いた。
「——君の力だよ」
気がつけば中性的な銀髪の青年が立っていた。
彼はどこか誇らしげに続けた。
「『暴走』と呼ばれる現象がある。あれは正しくは華玉の『宣言』だ。この星を、ひいてはそこに生きる種を、断罪するという表明。それによって、肉体から抜け出す前に力を使える」
「う、うぅん?」
「あ、ごめんね。難しかったかな」
小さく咳払いをして、青年は再度話し始める。
「君が人やこの世界を『許さない』と怒る時——この世界は終わる。君にはその力と権限があるんだ」
そう言いながら彼は、小ぶりな木槌を差し出した。
「全員意見が一致した段階で、世界の破棄は行われる。君が最後の一人だ。今すぐ『宣言』するなら、これを取るといい」
嬉しそうな彼を見つめ、少女はじっと考える。
この木槌を受け取ったら、今見ている光景が実現するのだろうか。
太陽の光が遮られた星を見下ろす。
地表では少しずつ着実に熱が失われていた。
(……シオンはさむいのきらい)
冬の日、鼻先と耳を赤くして震えていた幼馴染。
幼い彼女に難しいことはわからない。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
(シオンにきらわれるのは、やだなぁ)
自分を「嫌い」だと言う少年を考えて、少女は嗚咽と共に涙をこぼした。
成長するにつれて、自分が背負っているものを理解した。
どうしても拭えない人間への嫌悪。
これを表に出したらこの星は終わる。
熱を奪われ、生命を奪われ、星自体も破壊されるだろう。
だから、アニタは衝動を抑え込むことにした。
全ては大切な者の側にいるために。
紅茶を啜る憤怒に、銀髪の少女は切り出す。
「ルフトゥさんと華玉の関係はなんですか? それは息子さんの片目が宝石なことと、何か繋がりがあるんですか?」
興奮から頰を赤くして、彼女は返事を待った。
「昔、私が作った何個体かが、地上で同種を増やした。それだけです」
ゆっくりと羊の口が動く。
「——力の使い方を知りたいのですね」
「っ! ……はい」
「北島ではマスターの願いを優先し、どうも時間が足りませんでしたが、ここでなら問題ありません」
そっと少女の頭を撫でて、憤怒の悪魔は呟いた。
「貴女の望む形で、力を使えるよう、教えて差し上げます」
アニタが返答する前に、背中に激痛が走った。
思わずソファーから床に倒れ込むと、ずるりと言う音を最後に、痛みが引いていった。
「ただし私は何もしません。教師役をするべきなのは彼女です」
「彼、女?」
「ええ。私が最初に作った、最も強固な破壊者……ミカエル。正確には、魂の奥底で眠っていた彼女の自我です」
少女が顔を上げた先に、一人の女性が立っていた。
独特な白い甲冑を身につけた彼女、ミカエルは無言でアニタに歩み寄る。
戸惑う少女の足元に、銀色の剣が投げられた。
白い甲冑を軋ませ、その天使は口を開く。
「取れ」
淡々とした声に言われるがまま、アニタは簡素な柄に手を伸ばした。
刹那——腹の奥で熱が煮えたぎる。
その熱には覚えがあった。
この世に生まれ落ちた時から共にある、己の根底にあるどうしようもない怒りだ。
「過度な言葉は不要」
機械的な輪に囲まれ、彼女の瞳は伺えない。
しかし、先ほどの一言よりは、肉声に温度が滲んでいた。
「まずは、お前の全力を見せろ」
感情の高ぶりを示すように、硬質な籠手に光が走った。
ミカエルが構えた直後、うつむいていた少女が顔を上げる。
蒼玉の兜が顕現した。
「おーん、これ入って良いのかわかんねぇな」
「待つしかないでしょ」
憤怒の部屋の脇で、シオンはあぐらをかいていた。
ここまで案内したオリバーは、適当に相槌を打っている。
暇を持て余した結果、青年の灰髪は着々と三つ編みにされ始めた。
一方その室内では、悪魔が肩をすくめていた。
(はしゃいでますねぇ)
頭上を弾丸が飛び交い、拳と拳の間に火花が散る。
ミカエルと手が合わさった瞬間、少女は背後に飛び退いた。
そのまま突き通す前に、握り込まれて骨が折れると直感が告げた。
腕力差は歴然。
アニタは一定の距離を保って射撃を繰り返す。
当てるためではなく、近寄らせないための弾幕。
その雨の中を、最初の華玉は平然と歩いた。
泳ぐような滑らかさで、一歩、一歩、少女に近づく。
弾は当たらず、彼女を避けて壁に穴を開けていった。
本のページをめくりながら、憤怒の悪魔と精霊王は目を細める。
「……あれは、わざとですね」
「あいかわらずだネ」
ミカエルの力量であれば、一つ残らず叩き落とせる。
しかし、彼女は動作の選択肢を増やすため、あえて無駄な動きを避けている。
最低限、全ての弾の軌道を把握し、当たらない位置にずれながら進んでいた。
そもそもだ。
短機関銃を二丁抱えているアニタに対し、彼女はまだ自分の武器を出していない。
(この程度なら、武器は不要と言うわけですか)
あと一メートルというところで、ミカエルは一気に距離を詰め——少女の片手首に手刀がめり込む。
足を狙っていた拳銃が床に落下した。
ヒビが入った手をかばいもせず、アニタは兜で覆われた頭をかち合わせた。
ぐわんと女性の体がよろめく。
少女は銃を構え直し、ふと、迫る影を知覚した。
上体をひねったミカエルの足先が、こめかみに触れたその時、勝敗が決した。
体を包む浮遊感。
少女は照明に激突した。
砕け散ったガラスに紛れて、サファイアの兜が消えていく。
「ぅっ……」
呻くアニタに、白い手が差し出される。
彼女は薄眼を開けて、無表情のミカエルを見上げた。
恐る恐る、左手を重ねると、そっと体を起こされた。
悪魔は読み終わった本を閉じ、二人に声をかける。
「回復の準備はしておくから、済んだら出てきてくださいね」
「了解」
無機質な返事を背に、憤怒は扉を開けた。
眼前に予想外な光景が広がる。
「ねぇ、今何本になってるのこれ」
「今六本目編んでるぞ!」
「あいっ!」
いつからいたのか、無垢なる悪魔まで混じって、廊下で歓談している。
気の抜ける雰囲気に、思わず憤怒の口からため息がこぼれる。
「いらしてたならノックしてくだされば良いものを」
「おっ、いやぁ、邪魔にならないか不安でな。話は終わったのか?」
「ええ」
悪魔の蜘蛛足がカチカチと鳴る。
「お風呂から上がれば、合流できますよ」
「おふっ!?」
「にぅー、あぃおおぶよーぁいゆー!」
突如として出現した浴槽に、ゆっくりと体を浸す。
「い、いたたっ」
「だいじょうブ?」
「な、なんとか」
ピリピリとした感覚と共に、手首の激痛が和らいでいく。
「おぉ……」
思わず関心しながら、アニタはこめかみにもお湯をかけた。
兜の隔たりがあったため骨に異常はないが、わかりやすくコブになっている。
(多分、手加減してもらってたんだよね)
初めての暴走時は意識が無かったはずだ。
しかし今回はうっすらと意識を保ち、一歩下がった感覚で己を見ていた。
甲冑を脱ぎ終わったのか、ミカエルが湯船に足を入れてきた。
長い横髪で胸元を隠し、腰回りにタオルを巻いて、彼女はじっとこちらを見つめている。
額を覆う機械の輪はそのままだ。
(タ、タオル巻くのそこなんだ)
緊張した面持ちで、アニタは声をかけた。
「あ、あの、ミカエルさん」
「『さん』は不要。私はお前」
「そ、そうでした」
「ミカちゃんと呼べ」
「ミカちゃ、え??」
「冗談だ」
無表情のまま、淡々と彼女は続ける。
「脆弱」
「はぅっ!」
「だが、見込みはある」
淡々と、ミカエルは続けた。
「最後、私が手を貸した時、お前は利き腕を預けなかった」
無自覚だった。
思い返せばそうかもしれないという程度だ。
「もし、出したのが利き腕だったら、どうしたんですか?」
「掴んで引き寄せて肋を五本折った」
「ひっ……」
「冗談だ。一本しか折らん」
「おるのはかわらないのネ」
湯船で体が温まってきた頃、天使はもう一度口を開いた。
「過去に、私と互角の人間がいた」
「……え?」
「そいつが言った。『常に最善の手を選ぶということは、行動を予測できるということだ』と…………夢の話だが」
「ゆ、夢」
ずいっとミカエルはアニタに近寄った。
「思考を止めるな。選択しろ。そのための回路は、私が開く」
慣れない手つきで頭を撫でられる。
少女の首の後ろに、一枚の翼の紋様が浮かんだ。
——精霊卿の石碑、波でできた巨木の根元、夢見の塔を巡れ。
——その時、お前は力を従えられる。
そう声が響くと、すでに最初の華玉の姿は無かった。
用意されていた服に着替え、アニタは外に出た。
「あ、あのお待たせしました」
「大丈夫ですよ」
ふと、シオンと目が合う。
時間だけならついさっき別れたばかりだが、二人は久々に会ったような気がした。
「キギッシェン。お疲れ」
「ありがとう」
「おりばーがかわいいことになってル!」
「不本意ながらね」
少年少女が揃ったのを合図に、動いたのは無垢なる悪魔だった。
ぱんっと柏手の音が響き渡る。
そちらを見れば、姿の変わった無垢が胡散臭い笑みを浮かべている。
「さてお客様、我らが『父上』の自室までご案内しましょう」
試すような微笑みで、悪魔は恭しく首を傾げる。
「——覚悟の準備はよろしいか?」
三人と一頭は、一瞬顔を見合わせて、力強く頷いた。




