第三話・瑠璃色と双頭の蛇
重たい沈黙の元、三人分の足音だけがやけによく響く。
シオンは自らの両手首を拘束する、輪っか状の文様を見下ろした。
白い光のようなそれは、華玉の男性がつけてきたものだ。
(……こんなに細いのに、指一本動かせねぇ)
無害を示すために、少年も進んで両手を差し出した。
(それにしても、ここが、地獄?)
踏みしめた木製の橋が揺れる。
橋で繋がれた球状の建物がいくつも浮かんでいた。
真下には漆黒の大穴が覗いている。
表層を漂う亡霊の悲鳴が、シオンの皮膚をかき分けるように、容赦なく潜り込んでくる。
怨嗟と後悔、憎悪と憤怒の渦に飲まれそうになった時、彼の肩を誰かが叩いた。
「あ……」
「大丈夫? ふらついてたけど」
「はい、平気です。ありがとうございます」
煉獄にいた死者の魂は、ここまでの主張が無かった。
その違いに驚きつつも、否応なしに少年は理解した。
ここは紛れもなく、古今東西唱えられている地獄なのだ。
「——ルイジュ」
ふと、男性が彼女に声をかける。
その表情は真剣そのもので、イエローダイアモンドの瞳を細めて、彼は薄く唇を開いた。
『早々に記憶を消し、地上に送り返すべきだ』
鉱石の擦れ合うような音がこぼれる。
華玉同士だけが使える会話方法だ。
『それは私達の判断できることじゃない。支部長に……最低でも副支部長に確認を取るべきね』
『どのみちこいつの記憶は消されるだろう。手間は省いた方がいい』
『わかんないよ? 事実に限りなく近い、死後の世界を広めたロワ派? だって、解釈で分裂していった。一人や二人がここの存在をバラしたところで、私達の仕事が変わるわけでもない』
『確かに知られてはいけないというのは、暗黙の了解に過ぎぬが……』
『ガラン、やけにこの坊やを気にするね。何? 私の好みの容姿だから?』
からかいを込めた笑いに、男性は耳まで赤く染めた。
「違うッ!! それだと揺籠から墓場まで全ての二足歩行に嫉妬する羽目になるだろうが!!」
「さすがに揺籠は言い過ぎよー?」
急に声を張り上げた男に、シオンは両肩を跳ね上げる。
ガランはその様子を睨みつけから、一人でどんどん進んでいってしまった。
「びっくりしたかな」
「ま、まぁ」
「筋肉バカには後で言っておくね。ほら、見えてきた」
指で示された先に、ひときわ大きな苔むした球体があった。
近くに寄るとその巨大さがよくわかる。
片手で鉄の扉を開き、ルイジュは口角を吊り上げた。
「さ、この中にいる方々に事情を説明しておいで。取って食われは滅多にしないから大丈夫」
「それたまにはあるってことじゃ」
「ほらさっさと入る。じゃあね未来の息子!」
「痛!」
少年は勢いよく背中を叩かれ、転びかけながら室内に足を踏み入れた。
振り向きざまに、不満げな男と嬉しそうな女の顔が見えた。
シオンが辺りを見渡すと、やけに目立つ物体に目が止まる。
シャンデリアのように天井からぶら下がった、美しい天蓋付きの寝台。
カーテンの隙間から、横たわる何かが蠢く様子がわかる。
『ウ〜ン』
それは幼い双子であった。
しかしとても人間には見えない。
蛇の頭と尾がそのまま人の上半身になったような生物だ。
それぞれの手も、片方は水かきが、片方はサイのような蹄がある。
「アれ」「だれー?」
眠たそうに目をこすりながら彼らは続けた。
「なにか、オはなしなのです?」
「ねむケざましに、キいてやる」
「あ、そ、そうです。俺はシオンと言います」
慌てて頭を下げると、双子は寝台の上から微笑んだ。
「じごくしぶに、よウこそなのです」
「われわれはココのカんりにん」
——ベヒモスとヴァイアサンである。
そう名乗った二人は、薄暗い寝台から少年に手を伸ばす。
「むぇ」
シオンは両側から頰を押し込まれた。
ぐるぐる回したりと散々弄んで、双子は顔を見合わせる。
不思議そうに首を傾けたかと思うと、唐突に大あくびをこぼした。
そのままぐらりと床に落ちそうになる。
「危ねぇっ!」
即座に少年が受け止めたが、二人は気にする様子はなく、こくりこくりと船を漕いでいる。
シオンは双子を慎重に抱き上げた。
(二人も……これぐらいの歳だったな)
彼の脳裏に、妹と弟の姿がよぎる。
胸の辺りがちくりと痛んだ。
何事かとシオンが訝しんでいると、扉の開く音が響き渡った。
同時に肉汁の香りが鼻先をくすぐる。
「あらぁ〜! 面倒見ててくれたの? 助かるわぁ〜」
底抜けに明るい声に双子が顔を上げた。
「じず!」「じじゅー」
「はぁい、お二人さん。お昼ご飯のお時間よ」
突然現れた男性はヒールを鳴らしながら、フードカバーを掲げる。
「貴方も食べていきなさい? 量はたっぷりあるから……って、あら?」
ラピスラズリの瞳を見開き、副支部長・ジズは小首を傾げた。
数分後、シオンは切り株に腰掛けていた。
眼前には巨大なキノコが生え、その上に温かな食卓が広がる。
焼きたてのハンバーグに、トライフル、オニオンチーズトーストが並んでいる。
ちらりと視線を横にやれば、揃いのよだれ掛けをつけられた双子が、まだかまだかと先割れスプーンを握りしめていた。
「本当にごめんなさいねぇ? 地獄の探査システムの不調が原因よ。不調なんて初めて起きたわ……煉獄支部の方には、ちゃぁんとアタシが連絡してあるから! お詫びにたぁくさん食べていってちょうだい」
そう言いつつも、ジズはハンバーグに目玉焼きを乗せて、少年の前に差し出す。
「ありがとうございます。美味そう……」
「どういたしまして」
優しく微笑む片手間に、彼はクリーム塗れの双子を拭いている。
慣れた仕草に思わず感心しながら、シオンはハンバーグを切り分けた。
途端に熱々の肉汁が溢れる。
香ばしい焼き目に、薄い腹がくるくると鳴る。
口の中で噛み締めると、シナモンの香りが広がった。
不意に、黒髪の少年はかつてのことを思い浮かべる。
母は素朴な料理を好んだが、とある肉団子のスープだけ、少年の父から教わったというそれだけは、複雑な香辛料の風味だった。
最も、少年の父が残した本と一緒に、そのレシピも燃えてしまった。
(……頑張って、再現してみようかな)
それでもまるっきり同じ物は、もう食べられないのだろう。
そう思うと、また彼の胸が痛んだ。
(こんなに引きずってたのか、俺)
見えてなかっただけの傷痕を、ようやく少年は受け止めた。
それが癒えるのは、まだまだこれからである。
シオンが自分の食べた分を片付けていると、背後で泣き声が響き渡る。
「ど、どうした?」
「あらぁ」
見やれば、最後のイチゴを取り合って、双子が互いを叩き合っている。
元の腕力が弱いのか、どちらも全く痛そうではない。
「昔はもっと大人だったんだけどねぇ。まぁ、元気が良いのは素敵なことよ」
「昔、ですか?」
「ええそう。今のあの子達は、言うなら弱体化した状態だもの」
数秒思案して、少年はジズを見上げた。
「弱体化って、なんでですか」
瑠璃色がまっすぐにシオンを射抜く。
怯みそうになる圧に、少年は真っ向から見返した。
「無理に聞く気はありません。どうしても、気になってしまって」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
一手でも行動を間違えたら、彼は自分の知る事実を伝えはしない。
少年にはそんな確信があった。
双子の喧嘩が静まり始めた頃、ジズはため息交じりに口を開いた。
「あの子達はね、ある目的のために生み出されたの」
淡々と彼は続ける。
目の前の黒髪の少年は、煉獄支部の客人。
それも孤独のアダムに会いにきた人物だ。
(それなら……いずれ知ることでしょうし、アタシが言っても順序が変わるだけね。これも因果かしら)
ゆったりと両腕を組んで、ジズは目を伏せる。
「その目的は『世界に終末をもたらすこと』。そしてそれは無事遂行され、彼らはその力の大部分を回収された」
「……え?」
「かつて一度、破棄された世界があるってことよ」
荒唐無稽なその言葉を受けて、黒髪の少年は黙り込んだ。
ある一点に至った瞬間、ハッとした表情で顔を上げる。
その目は好奇心で爛々と輝いていた。
それを見計らっていたかのように、男性は彼の背中を叩いた。
「さぁ! お帰りのお時間よっ!」
頭上から伸びた枝がシオンを包み込む。
籠のような形になったそれは、遥か頭上の黒雲へと登り始めた。
呆気にとられる少年に、双子を抱きかかえたジズが手を振った。
「アダムさんによろしくねぇ」
「ばーイ」「ばばーい」
「お、お邪魔しました!」
聞きたいことが溢れてやまない。
しかし別れてきた仲間達のことも気がかりだ。
シオンは黒い雲の渦、その先にあるだろう煉獄を見つめていた。
(シオン、遅いなぁ……ハヴへストさんもお仕事? でいなくなちゃったし)
アニタはすっかり冷めきった紅茶を啜った。
先ほどからオリバーは床に座って眠っている。
手持ちぶさたになってしまった少女の耳に、機械的で独特な足音が近寄ってきた。
「あらまあ」
そこに立っていたのは、羊の頭を持つ悪魔・憤怒のルフトゥであった。
「あ、ルフトゥさん。こんにちは」
安堵したようなアニタの声に、彼女もスカートの裾を持ち上げ、優雅に一礼する。
「こんにちは。一番最初の天使様」




