第二話・怠惰無くしては生きられぬ
はためく髪が上空に向かって伸びる。
落下という現状を飲み込んだ時には、真下に地面が見えていた。
巨人族の青年は即座に、少年少女を両脇に抱きかかえる。
(……この高さだと、流石に骨をやりそうだ)
珍しく彼が冷や汗を額に浮かべた瞬間——空間が歪んだ。
周囲の木の葉も、頰を撫でる風も、マントのひらめきも、全てが動きを止める。
ゆっくりと着地したところで、木の影にいた人物が口を開く。
「煉獄にようこそぉ。おチビさん達ぃ?」
その声を方を向いて、シオンは思わずその名前を呼んだ。
「ハヴヘスト……」
三つの目を細めて、偏見の悪魔は手を振っていた。
偏見の周囲には光の円盤が散らばっていた。
それらを指で操作しながら、彼女は楽しげに続ける。
「数日前にルワンおじ様からぁ、客人が来るって言われたのぉ。ドゥジェンおじ様が仕事中だからぁ、出迎えに来てあげたわけぇ」
「……おん? 傲慢とはさっき別れたばかりだぞ?」
少年の疑問に対し、偏見はくすくすと笑う。
「そっちと時間の流れ方が共通だと思ってたのぉ?」
嘲笑しながら、彼女は踵を打ち鳴らした。
突如、地面が黒々とした川となり、彼らは古びた船に乗せられていた。
「はぁい、私達のお城に四名様ご案内〜」
偏見が侵攻方向に手を振り下ろすと、船は流れに沿って進み始めた。
遠巻きに夜から生える、逆さまの居城が見える。
どうやら船の目的地はそこらしい。
川の両端に並ぶ木々の虚には、薄灰色の火の玉が収まっていた。
「な、なぁ、あれはなんだ?」
「え、あぁ『住民』ことぉ? ほらぁそっちのサバ……なんだっけ」
「サバルトーラ教か」
「そうそれぇ。そこでも言ってるでしょぉ、死後の魂の行き先について」
シオンは頭の中にこれまで習ったことを思い浮かべる。
サバルトーラの教義において、煉獄は小罪を犯した者が向かう、生前の罪を流して天国に行くための場所だ。
地獄と天国の狭間にあるとされている。
最も、一番古いと言われるロワ派でのみ使われる考え方だ。
そこで議論になったのが、かつての孤独の悪魔の発言である。
彼は『十二の悪魔は煉獄にいる』と告げた。
小罪を流すところに、なぜ大罪を司る悪魔がいるのか。
議論は進まず、最近では後年の誤植で、実際には『地獄』と述べたのではないかという説が重視されている。
しかし今、煉獄には死後の魂があり、同時に大罪の悪魔がいる。
黒髪の少年は頭を掻き、無垢なる悪魔に言われたことを思い出した。
『アダムとイヴの失楽園、カインとアベル、ノアの箱舟。これら聖典の伝承は実際に起こったことです』
彼女は言った。覚悟が証明できたなら、その時に教えると。
(……証明できるだろうか。それに)
シオンは顔を伏せ、拳を固く握り締める。
(会えるだろうか)
——旅の中で見た相棒の笑顔が、まだ瞼に焼き付いている。
やがて船は城の真下にたどり着いた。
促されるままに立ち上がると、ぐわりと視界が反転する。
気がつけば、少年少女は逆さまだった城門の前に立っていた。
偏見の悪魔が恭しく頭を下げ、じわじわと両開きの門が開く。
それに呼応するように、城門に文言が光り始めた。
『魂に染み付いた悪を滅せ。我らは魔を司り制す者』
偏見が淡々とした声で告げる。
「悪魔の住処にようこそ。数世紀ぶりの客人よ」
逆さまの城の内部に入ると、鉱石でできている床で足音が反響した。
手入れが行き届いており、壁にかけられた燭台も曇り一つない。
廊下を進む最中に、偏見の悪魔はいくつか補足をした。
「煉獄に来た客はねぇ、暇つぶ……知識交流してからぁ、記憶を消して帰すのが原則なのぉ」
「おーん、初代皇帝の時もそうしたのか?」
「ううん? 悪魔とか精霊の契約者はぁ、特例で口止めするだけよぉ」
内緒と言うように、彼女は唇に人差し指を当てる。
偏見に腕を組まれていたアニタが小首を傾げる。
「じゃあ、わたしは覚えてられないんですね……」
「え?」
悪魔は両目を見開いた。
残念そうな少女に、驚きを隠さぬまま密かに思う。
(……あなたに私達が敵うわけがないじゃない。それとも、知らないの?)
偏見が戸惑う様子を黒髪の少年はじっと見ていた。
しばらく進むと開けた空間に出た。
長机に十二脚の椅子。
悪魔の会議場に辿り着くと、偏見の悪魔は両手を広げた。
「今はみんな仕事中だけどぉ、ここ座ってて良いわよぉ」
「仕事……」
「気になるぅ? 教えてあげようかぁ」
思ってもない申し出に、シオンの喉仏が上下する。
しかし、彼の理性がそれを制止した。
「いや、ここまで来たんだ。無垢と、あいつに、孤独に聞きたい」
「ふぅん」
抑揚の無い相槌を打って、偏見はどこからかティーポットを持って来た。
その時、椅子を借りようとしたアニタが、足元の違和感に気がつく。
何やら冷たくぷにぷにした物を踏んでいる。
ゆっくりと机の下を覗けば、エイを縮めたようなスライムが震えていた。
「にゃっ! え? あ、ごめんなさい!」
慌てて持ち上げて長机に乗せる。
「あれぇ、メメおば様お仕事終わってたのぉ?」
手のひらで撫でながら、漏斗らしき器具をスライムに突き刺した。
『……あー……偏見ちゃんやほー』
くぐもった小さな声が響く。
シオンは慌てて手帳を取り出した。
考えてみれば一人だけ、まだ出会っていない悪魔がいる。
「メメおば様、お客様よぉ」
『んぇ……怠惰のぉヒーンクーメメン……よろ……ぐぅ』
「あ、寝たぁ」
その後、怠惰の悪魔をスケッチするシオンの元に、見知った顔が現れた。
片目を隠した少年は、不可解そうにその目を細めた。
「なんでいんの」
「クコア! 久しぶりだなぁ」
破壊の悪魔は自分の席に腰を下ろし、偏見の入れたお茶を受け取る。
「クコアさん、お元気ですか?」
「ん、まあまあ」
「俺は無視か?」
少しばかり落ち込んでから、シオンは悪魔達に問いかけた。
「そういえば、みんなはアダムのことをどう思ってるんだ」
人にとっての孤独のアダムは、あくまでも最初に召喚された悪魔に過ぎない。
偏見と破壊にとって、祖父であることは聞いているが、それをどう感じているかはわからない。
数秒の沈黙。
困り顔で二人は口を開いた。
「別に嫌いではないわぁ」
「尊敬はしてるが……」
『興味ない』
「お、おぉん」
寝ていると思っていた怠惰まで揃って、あまり頓着していないようだ。
「だってぇ、私達が知ってるのは煉獄の『お父様』だしぃ」
「親世代ほどは関わってないしな」
(……怠惰は親世代なのでは?)
下手に考え込んでも時間だけが過ぎてしまう。
少年は偏見の悪魔に声をかけた。
「少し辺りを歩いて良いか?」
「どうぞぉ? ご自由にぃ」
「よっしゃ。二人はどうする?」
「僕はここにいるよ」
「わたしも。シオン、勝手に扉開けたりしちゃだめだよ?」
「さすがにしないぞ!?」
シオンはせわしなく周囲を見渡す。
すぐに戻れるように、直進していくと、一つの石造りの門に突き当たった。
「おお! でかいなー」
ゆうに彼の三人分はあるだろうそれを見上げる。
ふと、何かが軋む音がした。
嫌な予感からその場を離れようとするも、判断が一拍遅かった。
門の間から植物の根が飛び出してくる。
「なっ」
ナイフを取る前に両手を、叫ぶ前に口を封じられる。
引きずり込まれる寸前、身を焼くような熱を感じた。
いつの間にか閉じていた瞼を持ち上げる。
ゆっくりと体を起こすと節々が痛んだ。
(ここは……)
シオンが周囲を確かめようとした時、顔の横を何かがかすめた。
目の前にあった岩が砕け散る。
「動くな」
少年はそろそろと両手を上げる。
不機嫌そうな言葉をかけた主は、すぐにその姿を見せた。
片手で鎖を引き、星球武器を回収すると、銀髪の男は首を傾げた。
「脱走者では無いな。お前、どうやってここに来た」
「……それは俺が聞きたいです」
「何?」
大柄な男性は眉根を寄せる。
不意に、軽やかな足音が背後からした。
「こーらー。あんまりいじめないの」
「しかし、いくら第一階層とはいえ、地獄に侵入者など」
こっそり振り返ったシオンは、そこにいるのがこれまた銀髪の女性だとわかった。
(まさか——華玉?)
彼女は黒眼鏡を持ち上げ、黒髪の少年を見下ろす。
宝石の女王と呼ばれる紅玉が煌めいた。
(あ……)
気がついた途端に、シオンは思わず口を開いていた。
「アニタの、母ちゃん?」
間の抜けた顔の少年に、一瞬驚いてから、ルビーの華玉は微笑んだ。




