第十二話・私兵団一家の休息
淡い空色を揺らしながら、ニンファ・エッシェンホルストは帝都付近にある別邸に戻った。
赤茶の煉瓦を茨が覆っている彼女の私邸だ。
扉をくぐった少女に副団長が歩み寄る。
「あの若い歴史家達はどうしました?」
「アウレリウス領で調べ物をしてから、こちらで合流し、正式に契約を交わすことになったわ」
「了解しました……例の御方は?」
「元気そうよ。本当に七十超えてるのかしらあの人」
ため息を吐いて、ニンファは数週間前の出来事を追想した。
×××
小島にひっそりと佇む館。
高級なソファーに体を沈め、その人物は口角を吊り上げる。
「そんなにかしこまんなって。俺ァただの隠居じじいだぜ?」
「無茶なことを仰らないでください……」
少女が下げていた頭をあげると、一人の老夫と目が合う。
先代皇帝バゼット・レーウェン。
白髪混じりの淡い金髪に、灰とも銀とも暗紫とも取れる瞳。左目には鋭い傷跡が走っている。
圧倒的な武功を持ってして、真に帝国を平定した生ける伝説だ。
その武力と人気を畏れられ、一線を退いた現在もなお、外国との境界における一切の活動を禁止されている。
(そんな人をいざ前にして、緊張しない方が無理よ!)
「本当に気にしなくていいぞ、ニンファ」
「シオン? どこ行ってたのよ……って」
「猫飼い始めたのか師匠」
「みゃー」
「おう。去年拾った」
「ね、ねこちゃ」
ニンファは恐る恐る毛玉に手を伸ばす。
人に慣れた黒縁の猫は、自分の背中を差し出した。
「……ふわふわ」
両目を輝かせる少女を見て、バゼットは喉の奥から笑い声をこぼした。
「かわいーだろそいつ。容赦ねェけどな。保護した時は暴れた暴れた。これそん時のな」
そう言って彼は左目の傷を指差す。
「えっ、それですか」
「こんなおチビにやられたのが嬉しくてよォ、組織の修復を止めてこれだけ残してんだ」
(傷ってそうやって取捨選択できるものなの?)
しばし三人が向かい合って話していると、突然リビングの扉が開かれた。
「お師匠様! オリバーさんとエラムさんにおうちをご案内しました」
「お、美人さんが増えたなァ、おいでアニタ」
「はい!」
銀髪の少女はソファーの隙間に収まる。
優しくその頭を撫でて、バゼットは穏やかに微笑んだ。
「旅はどうだ? 楽しいか?」
「とっっても!」
「はっは、そりゃあ重畳。お前はどうだい?」
「俺? そりゃ自分の夢だし……色々あったけど、外に出て良かった」
どこか照れ臭そうな少年の頭上に影が迫る。
師は弟子の頭をかき回して、満足そうに笑った。
彼らの様子を見ながら、ニンファは——ほんの少しだけ羨ましく思った。
別れの時刻が迫り、黒髪の少年は切り出した。
「師匠、いや先代皇帝陛下。お聞きしたことがあります」
「……答えるかどうかは、内容次第だなァ」
「生者が煉獄に行った例をご存知ですか」
部屋から出ようとしていた少年少女は足を止める。
バゼットはゆっくりと瞬いた。
「古今東西、冥界下りの神話は山程あるが……実例と来たか」
時計の針の音がやけに響いていた。
シオンの顔をまっすぐに見返して、老兵は告げた。
「——あるぜ」
「! それは」
「でも秘密だ。俺も偶然知っただけ、そんな大層な話じゃねェ」
彼はごつごつとした指を一本立てる。
「一番最初に戻れ。お前ならすぐに気がつく」
×××
その後、少年は船でじっと考え込んでいたと思えば、ニンファの馬車の誘いを断った。
何やら目を光らせていたが、後ろで仲間達が苦笑していたのが印象的だった。
きっと彼らにとってはいつものことなのだろう。
「そういえばニンファ様、教会建設の件ですが」
副団長の言葉に相槌を打とうとした瞬間、花瓶が砕ける音がした。
少女はすぐさま駆け出す。
(まさか……)
応接間に足を踏み入れれば、唾を飛ばしながら叫ぶ男性がいた。
「ここも元は私の物だ! 勝手に来て何が悪い!」
「し、しかし」
「使用人風情が許可無く口を聞くな!!」
執事の青年に杖が振り下ろされる。すでに彼の頰は赤く腫れていた。
「お父様!」
両目を鋭く細め、ニンファは冷え切った声音を吐いた。
「貴族の風上にも置けない行いは、即刻おやめください」
「お前か……」
男の口から舌打ちが漏れる。
不意に少女の肩がそっと押されて、私兵団の団長・ラナンが前に割り入った。
自分よりも屈強な者が現れ、父親はわずかに怯む。
その隙にメイド長が執事を抱えて部屋を出て行った。
ニンファはほっと胸を撫で下ろす。
男は懲りずに下卑た笑みを浮かべた。
「私が気まぐれで買った男娼が、今や兵団長とはな。随分と楽しんだらしい」
(……よく実の娘にそんなことを言えるなこの人は)
「しかし、またさらにあの淫売女に似たものだ。全くもって汚らわしい」
(その淫売に見限られたのは自分でしょう。いや……私もか)
彼女の母は父に愛想を尽かし、屋敷の執事と駆け落ちをした。
幼いニンファと目が合っても、あの人は足を止めなかった。
ふと、父の苦しげな声がこぼれた。
落ちていた視線を持ち上げると、青年が男の首に手をかけていた。
少しずつその体が持ち上がる。
「ラナン、下ろしなさい」
「……」
「下ろすの」
「……了解」
粗雑に床へ落とす。
咳き込む男を見下ろして、少女は穏やかに呟いた。
「これに貴方が構う価値は無いわ。行きましょう」
廊下に出て団員に声をかける。
「馬車で本邸まで送って頂戴。抜け出さないよう、数名監視につけて」
「はッ」
「気をつけてね」
額の汗を拭って、ニンファは自室へと歩く。
その脇にラナンが追従する。
少女は気まずそうに口を開いた。
「ごめんなさい」
「何がですか」
「その、父が言ったことよ」
「ああ……謝られても困ります」
「そうよね……」
青年は元奴隷だった。
生まれつき見目が良く、両親は喜んで彼を奴隷商人に売ったそうだ。
十かそこらでエッシェンホルスト家に買われ、ニンファによって奴隷身分から解放された。
好きに生きるよう伝えたが、彼は少女に忠誠を誓い、若くして一兵団を設立してみせた。
感謝するばかりで、彼女には彼に渡せるものがない。
そのことを気にしながら、廊下の途中で別れた。
最も肝心のラナンは、
(どさくさに紛れてお嬢様のと、とと、とな、隣を歩いちゃった)
無表情のままひどく動揺していた。
青年は恵まれた容姿以外に、生まれつき持っているものがある。
それは俗に言う、前世の記憶というものだ。
実感を伴う記憶というよりは記録に近い。
かつて彼は「アベル」という青年で、「カイン」という兄弟がいた。
ラナン自身にも兄はいたらしいが、赤毛が原因で親が捨てたため、出会う機会は無かった。
「カイン」であった人に会えるのを少しばかり楽しみにしていたが、どうやらあちらには記憶が無いようだった。
(残念だが、覚えてる方が少数派だろうし……あの時のお嬢様はしゃいでて可愛かったなぁー。あ、ダメ、墓用意しなきゃ……心臓が)
ニンファという生きる理由がある以上、「アベル」だった自分に正直そこまで興味はない。
どこまでも優しく平凡な記録を見て、嫉妬したことは否定しない。
その記憶がなければ、かつての幸福を知らなければ、比較して辛くなることもなかっただろう。
しかし今の青年には、家族の実感を教えてくれた人達がいる。
私兵団専用の給湯室で、黒髪の少女が楽しげに鼻を鳴らしていた。
「まーだー?」
「もうちょい待ってろ……って一人増えてるし」
特攻隊長・グレンの隣に座り、金髪の青年も机をぺしぺしと叩く。
「団長も昼飯食べるか?」
「ん。団長違う」
「はいはい仕事外だからラナンな」
義足を軋ませて、副団長・ユーゴは苦笑した。
彼は年上だがラナンの最初にできた部下である。
「カルボナーラで良いか」
食料庫から豚肉の塩漬けを取り出して切っておく。
卵を割ってチーズをすり下ろし、塩を入れてよく混ぜる。
鍋でパスタを茹でて、豚肉を炒めたところに茹で汁を加える。
「よし、パスタ入れてっと」
火を止めてから卵とチーズを混ぜ合わせれば完成だ。
「ほれ、チーズの追加は要らねーよな」
『わーい』
はしゃぎながら彼らはフォークを回した。幼女はスプーンも一緒だ。
舌の上で豚の脂とチーズの風味が広がる。
ふと見れば、少女の口周りがソースまみれになっていた。
「グレン。拭くぞ」
「ん〜」
「お前ら仲良いな」
「まあ、そうだな」
ラナンはわずかに照れ臭そうに微笑む。
「グレンは戸籍上、ユーゴとシアさんの娘。つまり実質俺の妹だ」
「いつうちの戸籍に入った??」
「おきゃわぃ!」
「はいはい」
「——『はい』は一回ですよ、ユーゴ」
声をかけた方には、エッシェンホルスト家メイド長、ホルテンシアが立っていた。
眼鏡を押し上げて、彼女は甘やかに微笑む。
「シアさん」
「ままー!」
「昼休憩中ですが、教会建設の件でアン派最高司祭様がお越しです。洗い物は私がしておきますから、お三方はお嬢様の警備へ」
「まじか」
三人は慌ただしく立ち上がり、各々動物の紋章が付いた上着に袖を通した。
不意に副団長が振り返る。
「シア、今日は俺の方が先に帰るよな? 夕飯何が良い?」
「そうですね。ホットサンドが食べたいです」
「了解。じゃあ後で」
「ええ、また後で」
簡素な挨拶を交わし、夫妻は仕事に戻った。




