第四話 蚕が繋ぐ命の縁
寝息に合わせて上下する体が、華奢な手で優しく揺すられる。
「シオン、朝ごはんできたよ?」
そっと確かめる穏やかな声音。
シオンは小さな呻き声をあげ、甘えるように布団で体を包み込んだ。
「もぅ……」
アニタは肩を落としてから、一気に布団を奪い去った。
「ぬぁ!」
渋々開いた視界で少女がくすくすと笑っている。
こういう時だけ彼女は一切の容赦がない。
「おはようシオン!」
「おぁよぉ……」
「ちゃんと顔洗って来てね?」
「ぉん……」
寝ぼけ眼を擦って、少年は欠伸をこぼした。
肌に突き刺さるような、冷たい井戸水を顔に叩きつける。
山の緑に包まれていると、どこか初夏の空気を感じるが、地下水はまだまだ冷たい。
一度顔を洗っただけで、すっかり目が覚めてしまった。
いつもの赤いバンダナを巻きつけてから、シオンはやっと食卓に着く。
客人であるヴィーは一足先に朝食にありついていた。
トーストにミックスベリージャムを乗せ、じんわりと溶けたバターを一緒に頬張っている。
「遅かったのね。徹夜でもしたの?」
「ご名答……」
二人の会話を遮らないよう、アニタは静かに椀を置いた。
椀からは温かい湯気が立っている。
柔らかな鼻をくすぐる香りは、彼もよく知っているものだ。
「シチューか!」
「昨日のポトフの残りに、ホワイトソースを入れたの」
「すごい手際が良かったわ。アニタは本当に料理上手なのね」
「ううん……好きなだけでそんなに自信は無いです……」
「あら? こういう単純な料理ほど、作り手の腕が出るものよ」
「そうなんですか?」
初耳だったのか少女は首を傾げる。
その動きに合わせて前髪が流れ、彼女の青い宝石が垣間見えた。
食後の一休み。
甘めに作ったチャイティーの水面に、三人の笑顔が写っている。
桃髪の少女はこっそりと台所の本棚を覗いた。
(ああ、なるほどね)
そこにある料理本の全ての背に、おそらくは絵の具を固めて書かれたであろう、点字が印字されていた。
点字はかつて、軍の通信暗号等のために考案され、研究と改良の果てに、視覚障害者用の文字として使われるようになった。
華玉は文字を認識・読解できない。
点字で読書をするのは、とても自然なことだと言える。
目の前の少女の努力を思って、ヴィーはそっと目尻を下げた。
自身の研磨のために、努力を重ねる人は好ましい。
彼女は素直にそう思った。
不意に、ガラス窓をこつこつと叩くものがあった。
「あ、お師匠様からだ」
アニタが笑顔で窓を開けるとそこにいたのは、
「クルッポゥ」
一羽の鳩であった。
よく見れば、足首に細い筒が縛り付けてある。
「……お師匠様って?」
「俺の師匠兼アニタの養父」
「お義父さんのこと『お師匠様』って呼んでるの?」
「俺に合わせて呼んでたらそっちで慣れたんだと」
「なるほどね」
鳩は大人しく窓枠の上で与えられた麦をつついている。
少女は手紙の折り目をさすっていたが、ふと頭に疑問符を浮かべた。
手紙の冒頭に点字で『シオンの野郎に渡せ』と書いてあったからだ。
「ねぇお師匠様がシオンにって」
「おん?」
なかば放任状態の自分に対して、一体何を言うというのか。
シオンは疑り深い目で手紙を開く。
「……は?」
そこにはこう書かれていた。
『——アニタを連れて、たまには俺のとこに顔でも見せに来い。馬鹿弟子』
一度手紙を閉じ深呼吸をしてから、少年は再び読み進める。
色々と健康調査だの保護者としての務めだの、最もらしい理由が書かれているものの、どう考えても「なんか気になったから」以外の意図は無いようだ。
自分の師匠がそういう気分屋であることは、弟子のシオンもよく知っている。
どうやら急ぎの用ではなく、旅の道中で立ち寄れぐらいの指示であった。
「なんて書いてあったの?」
肩口から急に覗き込まれ、少年は一瞬びくついた。
アニタの髪が顔のすぐ横をかすめて、上品な甘い匂いがした。
「……あー、あのさ」
「うん?」
「アニタを、自分のところまで連れて来いって。師匠が」
前髪で隠れて見えないが、おそらく目を見開いたのだろう。
少女は両手の指先で震える唇を覆った。
「わ、わたし」
泣きそうなか細い声音が、彼女の小さな口から漏れる。
「本当に? わたし、二人と一緒に旅していいの?」
「そりゃあ、まぁ、保護者が頼んで来たことだし」
「いつ!? いつから!?」
「今日の昼には出るつもりだったぞ……」
「じゅ、準備してくる!」
歯切れの悪いシオンを気にするほど、少女は冷静では無かった。
時間制限付きではあるかもしれないが、恋い慕う少年に仲良くなれた少女と共に、わずかであれ同じ時間を共有できる。
彼の隣にようやくいけるかもしれないのだ。
突然舞い込んだ奇跡に興奮するばかりで、彼女は幼馴染が悩んでいるなど思いもしなかった。
アニタが荷造りのために台所を出て行った後、ヴィーはシオンに声をかけた。
「で、あんたはなんで苦い顔してるのよ」
「……そんな顔してるか?」
「大分ね」
「嫌なわけじゃねぇぞ。ただ……アニタはまだよくわかってないんだ」
「何を?」
「人の、悪意を」
少年が案じる理由を察して目を閉じる。
「……できる限りは手伝ってあげるから、ちゃんと守りなさいね」
「おん、わかってる」
シオンは指を組み、自分の薄い手の甲に爪を食い込ませる。
決意を抱いたその目は、獣のそれによく似ていた。
数十分ほど経った頃、ぱたぱたと足音が聞こえて来た。
カードゲームで時間を潰していた二人は顔をあげる。
「ごめんシオン、これで大丈夫か見てもらってもいい?」
そう言う彼女の手には、両手で抱え込める大きさのリュックサックがある。
できる限り最低限の手荷物に収めたのだろう。
しかし、両人の視線はそれよりも、彼女の髪型に向かっていた。
ヴィーが贈った布で目の周りを覆い、後ろでただ結ぶのではなく、ハーフアップをまとめるのに使っているらしい。
ゆったりとした黒い蝶々結びが銀髪と一緒に揺れた。
「えっと、変、だったかな?」
頰を赤く染めてはにかむアニタに、シオンは力強く叫んだ。
「キギッシェェェン!! そんなことないぞ! よく似合ってる!」
「うるさっ」
「あ、荷物これか?」
「うん。これで全部だよ」
リュックサックの中身を確認しながら、少女は小さな声で尋ねた。
「やっぱり、迷惑じゃないかな?」
「何を決めつけてるんだ? 俺はすっごく嬉しいぞ」
即座に返ってきた言葉に、彼女は思わずにやけた頰を押さえつける。
「よかったわね」
「はい。あ、ヴィーさん」
「うん?」
「ヴィーさんとも一緒に行けて嬉しいです」
あまりにも嬉しそうに言うものだから、ヴィーは照れ臭くなった。
ごまかすように彼女の頭を鷲づかみつつ撫でる。
「上手ねー」
「え? え??」
シオンが上着の前を閉めて、麻袋を持ち上げる。
「よし、そんじゃあ行くか」
「ええ」
ヴィーが振り向くと、一歩先を歩く二人のことを、立ち止まったアニタが見ていた。
彼女は口元に笑顔を浮かべ、玄関扉を指でそっと撫でる。
「いってくるね」
そう呟いて、恋する少女は彼らの元に駆け寄ってきた。
歓喜の裏に浮かんだ不安を押し殺すように。
三人は山を下りると、麓に広がる森の中を進んで行った。
ヴィーはアニタの足がもつか心配していたが、彼女は少し息が乱れただけだ。
考えてみれば、彼女はいつもの買い物で山道を歩いている。
ある程度は体力があって当然だろう。
「ここらで昼飯にしようか」
いい具合に開けた空間で、少年少女は荷物を下ろした。
シオンが料理用の鍋を取り出そうとした時、
「あ、あの!」
少女が風呂敷で包んだ何かを差し出してきた。
「……軽食、昨日の夜に準備してきたの、良かったら」
風呂敷の中にあったのは、笹の葉に包まれたおにぎりだった。
付け合わせの生姜の梅酢漬けも、これまた笹の袋に入れられている。
「あら、美味しそう」
「一人三個ずつありますよ」
ヴィーは少し悩んでから、ネギの混ぜご飯らしきものに手をつけた。
「いただきます」
口にした瞬間、ごま油の香りが鼻に抜けた。
塩気とネギの辛味がちょうどよい。
固めに炊かれたご飯が、口内でほろりとほどけていく。
桃髪の少女はすぐに次のおにぎりを頬張る。
そちらには甘く煮られたキノコが入っていた。
「とろっとしてて……それでも食感はしっかり残ってる。私これ気に入ったわ」
「本当ですか? よかったぁ。シオンはどう……ふふっ」
「ふぉ?」
いつの間に完食していたのか、彼の頰はぱんぱんに膨らんでいる。
アニタとヴィーはたまらず大きな笑い声をあげた。
腹ごなしも兼ねて、シオンは休憩地の周囲を散歩する。
「ここら辺は割と低木も多いんだな。お、桑の木がある」
手元の地図に書き込みながら歩いていると、どこからか誰かのすすり泣きが聞こえてきた。
「……怪我人か?」
目つきを細め、声がする方に向かえば、一人の少女が木を見上げている。
彼女は幹にしがみつき、そのままよじ登ろうとして、ずるずると滑り落ちてしまっていた。
「どうしたんだ?」
少年が優しく声をかけると、その少女は振り向いた。
顔を見る限り、年は十歳ほどだろうか。
褐色の肌は大陸の南側の血を引く特徴であり、様々な民族が入り混じる帝都でもよく見られる。
薄黄色の植物製の服からして、おそらくはこの森の住民なのであろう。
「ひぅ……」
「ああ、急にごめんな。声がしたからどうしたのかと」
「……ボール」
「おん?」
「お父さんが作ってくれたのに……」
木の上を見ると、草で作られたボールが枝に引っかかっていた。
彼女は気まずそうに服の裾を弄っている。
「よしっ。ちょっと待っててな」
シオンは明るく笑って木の幹に手をかけた。
木の表面の凹凸を利用し、するすると太い枝まで登っていく。
ボールにたどり着くと、手に取って木の上からそうっと落とした。
慣れた様子で枝から飛び降り着地する。
褐色の少女が笑顔で駆け寄ってきた。
「ありがとうお兄さん!」
「シオンだ。君は?」
「ニーシャ!」
「そうか。次は気をつけるんだぞニーシャ」
彼女を見送ってから、アニタとヴィーに合流すると、一行はまた森の中を歩き進んだ。
木々の間を縫いながら歩く彼らの頭上で、空が橙色に変わっていく。
夜の休憩地を探すシオンの目に、立ち並ぶ竹製の柵が写った。
「お、集落があるみたいだな」
「ラッキーだったわね」
「よそ者を泊めてくれるといいんだが……」
「そうね……」
柵の開けた場所には、背の高い褐色肌の男性が立っている。
正面の道には馬車が通った跡がしっかりと残っていた。
小さな村のようだが、頻繁に外部の人間が来ているのようだ。
「こんにちは、私達は旅の者です。村で一泊させていただきたいのですが」
シオンが敬語を使った途端、背後の二人は鳥肌が立った。
青年は少年の顔をじろじろと見てから口を開く。
「構わない。ああ、宿代はいらないぞ」
「え?」
「あなた方は我々に武器を向けなかった。もてなす理由はそれで十分だ」
その言葉を聞いて三人は肩の力を抜いた。
頭ごなしに断られる可能性もあったからだ。
「それに」
苦笑する男性の後ろから、ひょっこりと小さな頭が覗いた。
「俺の妹が世話になったみたいだしな」
「お兄さんやっほー」
「ニーシャ! 君の村だったのかぁ」
突如現れた少女は、シオンと親しげにハイタッチをしている。
『いや誰!?』
「え? ニーシャだぞ」
「です!」
「あ、ごめん。そういう意味じゃないの」
チャカモコ山の付近にあるこの村は、特定の領邦には含まれていない、言わば帝国の国有地であった。
村の名前は古い現地の言葉で「天糸の村」を意味する。
三人はニーシャとその兄に村を案内してもらうことになった。
アニタはどれから見れば良いのかわからず、慌ただしく頭を動かしている。
村の中心に差し掛かった時、やけに人の出入りの多いテントがあった。
「なあ、あのテントはなんだ? 随分と大きいが」
「あれか? あれは俺らの養蚕場だ」
「ほぅ。見てもいいか?」
「構わないぞ」
蚕。
蛾の一種であり、家畜化されているため野外には生息できない。
そのため祖先種とされるクワコ(野蚕)とは違い、家蚕と呼ばれている。
テント内では大量の幼虫が、最適に整えられた生育環境で、山盛りの桑の葉を食べている。
「圧巻だな……」
テントに入ってすぐに、ぱりぱりと咀嚼音が聞こえてきた。
白いむちむちとした体は無心に食事を続けている。
シオンは他の村人に質問しながら、手帳に養蚕について書き連ねていく。
すっかり取材に夢中なってしまった彼は放置して、ヴィーは貸してもらった空き小屋に荷物を運び入れ、アニタはニーシャによる蚕講座を受けていた。
「あのね、蚕の寿命はね四十五日から六十日で、あ! ここ! ここが眼状紋! 可愛いでしょー?」
「ニーシャちゃんは蚕が好きなのね」
「大好き!」
興奮による頰の紅潮が収まってから、少女は不思議そうに尋ねてきた。
「お姉さんはなんだか変わってるね?」
「そうなの?」
「普段来る商人の人とか、絹糸は綺麗って褒めるのに、蚕のことは気持ち悪いって言うもの。ニーシャがこうやって喋っても……『無理して案内しなくていいんだよ。女の子なんだから』なんて言われるよ」
「え、えっと?」
アニタには全く訳がわからなかった。
女の子だからなんだというのか。
それが好きなものを好きと言う障害になるのはなぜか。
(というより、誰が見ても気持ち悪くない生き物なんて、この世界にいるのかな?)
——人間であっても欠点だらけで醜いというのに。
『お願い、です……その子には……娘には……手、を出さな、いで』
昔のことを思い出して、彼女はどこか自虐的に微笑む。
しかし即座にそれを打ち消して少女に向き合った。
「わたしはこういう虫って見るのは平気だけど、触るのは苦手だから、たくさんのことを知ってるニーシャちゃんはすごいと思うな」
「本当?」
「うん。本当」
ニーシャはぱあっと笑顔になり、アニタの手を握った。
「あのね、あっちのテントにはクワコがいるの。お姉さんには特別に見せてあげる!」
温かくも柔らかい感触に戸惑いながら、大人しく手を引かれていく。
おずおずと握り返した瞬間、アニタの中に愛おしさが溢れた。
(うん。大丈夫だ)
彼女は人間に絶望してはいない。
まだ、かろうじて。
村長の末娘であるニーシャは、鼻歌まじりに大皿を運んでいた。
中身は今日の客人用の夕食である。
川魚と芋が主な材料の汁物で、村ではほぼ毎日食べられている料理だ。
「ふんふふんふふーん」
彼女は大変機嫌が良かった。
「ふふふん……?」
それでも、異変に気がつかないほどのぼせ上がってはいなかった。
村の外れでこそこそ動く麻袋を手にした二人の男がいる。
「おじさん達、何してるの?」
思わずニーシャは彼らに声をかけた。
ビクついた男の手に、白い絹糸の束が見えた。
煮物の入った大皿が地面に落ち、鈍い音を立てる。
少女は走り去ろうとした男の麻袋を必死に掴んだ。
「か、返して! 返してよ!!」
少し先にいたもう一人が叫ぶ。
「おい! 早くしろ!」
「わぁってる!」
男の舌打ちの直後、
「え?」
少女にナイフの先端が向けられていた。
次いで、乾いた風切り音が響く。
しかしそれは、すぐに少女の叫びによってかき消された。
小屋の外で大勢の人々が行き来する気配がした。
日雇いの仕事を終えて休んでいた、シオンとヴィーが眉根を寄せる。
「外が騒がしいな?」
「何かあったのかしら」
「わたし聞いて来ますね」
アニタが外に出てみると、養蚕場のすぐ近くにシーツが広げられ、大人達が取り囲んでいた。
その中心にいたのは、彼女の知っている人物であった。
「ニーシャちゃん!?」
駆け寄れば、少女の片方の二の腕には痛々しい刺し傷がある。
母親らしき人物が、井戸から汲んできた水をしきりにかけている。
アニタは慌てて小屋に清潔な布を取りに行った。
ニーシャの兄が近くの村人に大声を上げる。
「医者はどうしたんだ!」
「医療品の買い出しで一週間前から帝都に行ってる! 今帰り途中としても、早馬で丸一日はかかるぞ!」
「こんな時に限ってなんで……」
「あ、あの!」
「アニタさん? どうし——」
「布を持ってきました。傷口の圧迫に使ってください」
いつになく真剣な表情で、彼女は白い布を差し出した。
その時、ニーシャの泣き声が彼女の耳に入る。
「……失礼します」
一瞬のためらいの後、アニタは布越しに、傷口を力一杯押さえつけた。
「ああああああああぁぁっやああああぁぁぁああああああ!!」
少女の目から涙が溢れるも、血は中々止まりそうに無い。
「誰か! 短い木の棒と、この布の切れ端で二の腕の付け根を縛って!」
彼女にあるのはあくまでも応急処置の知識だけ。
早く止血を——アニタの頭にあるのはそれだけだった。
「よーし……発見っと」
すっかり暗くなった森の中で、少年は不審な馬車を見下ろしている。
双眼鏡も無く、その上夜間だというのに、彼の目は獣道を走るそれを捉えた。
「よっと」
器用に枝を伝って、シオンは木々の間を飛ぶように進んで行く。
おそらくだが、村はヴィーとアニタがいれば問題無いだろう。
村人達も決して無力ではない。
ならば、自分は自分にできることをするべきだ。
そう考えながら、彼は走る速度をさらにあげた。
彼の表情には珍しく冷えきった呆れが滲んでいた。
すぐ横まで迫った馬車の後ろから、村人が馬に乗って追っている。
「おん……どっちも同じぐらい早いのか。それなら、馬車を止めるか」
黒曜石のナイフを鞘から抜いて、シオンは馬車に向かって跳躍する。
黒髪の少年が闇夜に舞う。
そのまま木製の天井にナイフを突きたてた。
振り落とされないように踏ん張っていると、不愉快な音を立ててナイフが食い込む。
彼はその勢いで前方の御者の隣に降り立った。
「どうも」
「なっ、てめぇどこから出やがった」
御者が喋り終える前に、掴みかかってきた腕をいなすようにして、草陰へと投げ飛ばす。
「うぐぇっ」
男が生きていることを確認して次の行動に移る。
馬車の内部にいた人々が異変に気がついた時には、もうシオンは馬にまたがっていた。
怯える馬をなだめつつ、馬車と繋がるロープを切る。
速度の落ちていく馬車を、槍を手にした村人達が包囲した。
その内の一人がシオンに頭を下げる。
「……おん、柄じゃねぇな。こういうの」
そんな言い訳をしながら、少年ははにかんだ。
一方その頃、
「ヴィーさん? どうしたんだ?」
ヴィーはニーシャの兄の袖を引き、村の中を巡回していた。
「……ニーシャが切られた箇所は即死するものでは無かったでしょ」
「言われてみれば……」
「だとしたら、彼女の治療に気を取らせて、脱出する時間を稼ぐことと、さらに盗む隙を作ることが可能になるわ」
不意に彼女の足が止まった。
その視線の先には、巡回の最後に当たる、絹糸の保存場の一つがある。
「当たりね」
そのすぐ近くには泥棒の足跡があった。
テントを開き中の照明に火をつける。
本人の希望で青年が先に中に入った。
中の様子を伺っていると、ヴィーの背後で棍棒が振り上げられた。
「ヴィーさん!」
間一髪で攻撃を避ける。
地面へ加わった衝撃から考えるに、直接受ければ致命傷だったろう。
相手は自分が出口側にいる余裕からか、舐め切った態度で口角を上げる。
その態度が少女の感情を逆撫でした。
男の腰にあるナイフに血が付いているのを見て、彼女の目つきがさらに鋭くなる。
「……この村の子供を刺したのはあなたなの?」
「あ? ああ……」
男は訝しげに目を細める。
ヴィーはその脇を走り抜けようとするも、すぐに棍棒の追撃があった。
これもギリギリで当たらなかったが、テントのすぐ外にあった植木鉢が犠牲となった。
しかし、それこそヴィーにとっての好機であった。
即座にその破片を拾い上げ、男の顔面めがけて投げつける。
彼女は固定の武器を持たない。
必要になった瞬間、その場にあった物を使う。
持ち前の応用力こそが最大の武器なのだ。
破片を防いだ隙を狙い、青年が松明を男の眼前で振り回す。
男は炎を避けて一歩退がったものの、それ以上は退がれなくなった。
ナイフの切っ先が——脇の下に食い込んでいた。
反射的に男性の肩が恐怖で震える。
それが自分の腰から盗まれた物だとわかったからだ。
その様子を笑顔で見つめながら、桃髪の少女は口を開く。
「切れ味はよく知っているでしょう? 個人的には大人しく捕まる方をお勧めするけど、どうかしら?」
一時間ほど経って、アニタはニーシャの腕の付け根を縛っていた布を一旦緩めた。
首の周りに当てていた濡れ布巾をこまめに取り替える。
ひやりとした感覚に、少女の意識がわずかに浮上した。
「おね、えさん?」
「うん。わたしはここにいるよ。もう大丈夫だからね」
じっとり汗の滲む頰を撫でると、幼い少女はふにゃりと笑った。
応急手当が無事に済んだことがわかって、銀髪の少女も安堵から微笑んだ。
次の日の夜。
本来はもう出発しているはずだったが、ニーシャの容体を心配して、三人はまだ村にいた。
村人に呼ばれて広間に赴くと、医者を連れた村長が待っていた。
見れば大半の村人が集まって座っている。
大きく咳払いをしてから、村長は話し始めた。
「私の末娘は、回復へと向かっている。まだ休養は必要だが。盗人の帝都の警備隊への引き渡しもすんだ。これも客人の協力のおかげに他ならぬ。皆の労いも兼ねて、これより……」
彼はよく通る声で叫んだ。
「祭りを開催する!!」
それに乗っかるように村人達が歓声をあげた。
もうすでに太鼓を叩いている者もいる。
木の円卓にシーツを被せ固定した素朴な舞台も、すぐに準備された。
「すごい情熱ね……」
「楽しそうだな!」
「あれ焼き石かな? あそこで料理してるみたいだね」
見物しに行くと、大きな焼き石の上で焼かれた挽き肉の塊に、果実を潰したソースがかけられていた。
挽き肉には芋と木の実が混ぜてあるようだ。
「美味そう! これなんの肉?」
「猪と鹿の合挽きだ。猪は山神の乗り物だから、祭りの時以外は食べられないのさ」
「ふぉぉぉぉ!」
「こっちは……バナナ?」
「そうよ。これに砂糖をふりかけて焼くの。これも祝いの日だけの特別な物ね。帝都まで行かないと買えないから」
「絶対美味しいやつじゃないの」
「遠慮しないで、たくさん食べてね」
料理を大きな葉に乗せてもらい、三人は木の匙で熱々の料理を堪能した。
冷たい水を飲み下していると、ニーシャの兄が声をかけてきた。
「アニタさんも舞台で踊ったらどうです?」
「わ、わたしですか?」
「おお、いいじゃん。行ってきたら?」
「シオンまで……」
結局少女は強引に舞台へと連れて行かれてしまった。
「……大丈夫かしら」
「まあ、多分平気だろ」
心配するヴィーの隣で、シオンはどこか誇らしげだ。
緊張しているアニタのためか、太鼓のリズムがゆっくりになる。
すると、わずかにではあるが彼女の四肢が動き始めた。
最初はリズムに合わせて指と足先が流れ、段々動きが大きくなっていく。
緩やかに艶のある角度で静止したかと思うと、次の瞬間には体全体が力強く揺れる。
月光と松明の灯りを、銀髪の波が反射する。
微笑なのか泣き顔なのかわからない曖昧な表情が、ますます観客の視線を引きつけた。
呆気に取られるヴィーに、シオンはこっそりと囁いた。
「彼らは文字が使えない。だから、自分達の神話や歴史を、踊りや歌に託したんだ」
彼らと濁した部分が華玉であることはすぐにわかった。
「それは絵ではダメだったの?」
「おん。まだ解明されてないが、絵という表現方法は彼らの間に無かったらしい」
ヴィーが舞台に顔を向けると、アニタが髪に巻きつけていた布の端を掴んで、別の踊りを始めていた。
先刻のものより足の動きが早く、彼女がくるくる回る度に、細い足首と張りのあるふくらはぎが覗く。
「すごく、綺麗ね」
「だな。残念なことにもうあの物語を読み取れる奴はいねぇが」
「物語ねぇ」
ゆっくりと両目を閉じ、ヴィーは想像する。
銀髪と宝石の目を持つ彼らもかつて、こうして舞台上の踊り子に拍手を送ったのだろうか。
目を開けたその時、彼女の視界に、あったかもしれない過去が写った。
——簡素な舞台の上で、きらびやかな衣装の男女が、共に踊り笑いあっている。
——観衆はある者は笛で、ある者は弦で、ある者は自分の声と体で音楽を奏でる。
——そこにいる者は皆、語り紡がれる神話に目を輝かせていた。
ヴィーが瞬きをした途端、その光景は霧散する。
「……ただの、空想か。って、ちょ、シオン?」
気がつけば隣の席は空っぽになっている。
周りを見渡すと、太鼓の奏者に混じって完璧な演奏を披露していた。
「ひゃっほぉう!」
「上手いな兄ちゃん!」
「なじむの早っ……」
楽しい祭りもいずれ終わりが来る。
村の出入り口で村長に別れの挨拶をしていると、毛布に包まれ兄に抱きかかえられたニーシャがやってきた。
別れの言葉の代わりに、三人の頰と自分の頰を順々にくっつける。
それは遠くに行ってしまう友の幸福を祈るまじないだった。
一度こちらに手を振って、先へと進んで行く彼らを見て、少女は口を開く。
「なんで、旅をしてるのかな?」
兄は首を傾げる妹に微笑み、彼女の小さい頭を撫でた。
「ニーシャが外に行ったら、あの人達が見たいと思ったものが、わかるかもしれないぞ」
「お外……」
「さ、もう帰ろう。まだまだ体を休めないとな」
「うん!」
兄が自分を抱えて村の方へ歩き出しても、少女は遠くに消えた彼らを思っていた。
当世の人々は誰も知らない。
この幼い少女がそう遠くない未来に、蚕のタンパク質合成メカニズムを解明し医療用タンパク質の開発を進めて、人用のワクチンを実用化するなんて思いもしない。
彼女は将来、帝国で蔓延する感染症を治療し、およそ五十万人の命を救うこととなるのだが、それはまだ先の話である。
きせずして未来の救世主を救った彼らは、振り向くことなく歩みを続ける。
その目には次なる目的地の石垣と、大きな扉が見えていた。
硬く閉じられていたそれの前で一行は立ち止まる。
番人がこちらを一瞥し、小さな角笛を鳴らす。
よく通る低い音に合わせて、少しづつ扉が開き始めた。




