第九話・あの日の炎に救済を
『これは、兄貴分に裏切られて置いていかれた弟分という、古今東西よく聞く話である』
地べたに座って、幼い少年が本をめくっていた。
丸い目を見開き、時折感嘆の声が口からこぼれる。
そんな彼の背中に向かって、小さな影が二つ飛びかかった。
『にぃにあそんで!』
「ぐぇっ」
重なる台詞と、重たい衝撃に振り向けば、そっくりな顔の男女が笑っている。
「こんの……やったなー!」
二人を追いかけ机の下で捕まえた時、玄関口から母親が入って来た。
彼女の屈強な腕に鹿が引きずられている。
「シオン、そろそろ、貿易隊が戻る。あいつを、迎えに、行ってやれ」
「おん」
「気をつけて、行くん、だぞ」
「わかってるって」
床に置きっぱなしだった本を拾い、彼はそれを本棚に戻した。
そして誰に向けてでもなく、ぽつりと呟く。
「ちょっと行ってくるぞ。父ちゃん」
母は優しく微笑んで、シオンの頭を撫でた。
村の狭い出入り口には、人々が集まっている。
人波をかき分け進むと、ちょうど目当ての人物が馬車から降りてきた。
「兄貴!」
少年の声に応えるかのように、細身の青年が手を振った。
片目を隠した緋色の前髪、青空に似た色の目。
青年・ロイエは気弱な笑みを浮かべている。
踏み出した彼の足元には、太い木の根が埋まっていた。
「あっ」
「お迎えありがと——ひゃんっ!」
(やっぱり転んだ……)
二人は手を繋ぎながら家路につく。
「兄貴は仕方ないなぁ、ほらそこ! 石があるぞ」
「ありがとうシオン……」
風に煽られて彼らは顔を上げた。
両側を崖に挟まれ、多種多様な樹木が連なる。
——ここはレーウェン領特別保護地区。
通称「大峡谷」である。
鹿肉の汁物を炊いた米にかけて、少年は一匙すくった。咀嚼している間に妹の頰を拭う。
緋色の髪を耳にかけて、彼の兄貴分は微笑んだ。
「シオンもほっぺたについてるよ」
「おん?」
「……ごちそうさま」
「お代わりは、良い、のか?」
「ええ。大丈夫」
そう言って、姉は膨らんだお腹を撫でる。シオンには実感が無いが、そこには赤ん坊がいるのだという。
彼女は近々、外の病院に行くことになっている。
「戻ったら部屋の模様替え手伝いなさいよ。ロイエ」
「もちろんだよ」
任せてと意気込む青年を、彼女は鼻で笑う。
「体力くらいしか取り得ないんだから。居候のくせに」
「姉貴! いじめちゃだめだ!」
「シオン……!」
「本当のこと言うと人は傷つくんだぞ!」
「シオン?」
狩猟採取民・ユグォン族の村は、二年に一度の祭の準備に追われている。
ロイエとシオンの二人は川で魚をとっていた。
「夕飯までに帰らないとな」
「そうだねぇ。網投げるよー」
「おん。今どく」
取り上げた罠から小魚を取り出し、黒髪の少年は訝しそうに目を細めた。
川はいつも通り流れていて魚も取れる。
しかし、ほんのわずかに、普段と違うような気がした。
赤毛の青年に呼びかけられて、すぐに少年の思考は霧散した。
今日の分の狩りを終え、彼らは森の中を進む。
村まであと少しと言うところで、シオンは頭を揺らし始めた。
「眠い……」
「おぶさろうか?」
こくこくと頷きながら少年は両手を伸ばす。ロイエは嬉しそうに彼を背負った。
彼らの付き合いは今年で二年になる。
その分増えた重みに、青年は思わず表情をほころばせた。
狩猟民、農耕民、漁業民の三民族が合同で行う儀礼。
厳かな起源こそあれ、当代となっては娯楽としての側面が強い。
ほぼ一日中、舞台で演劇が披露され、神々を模した人形が飾られる。
外から招かれる吟遊詩人もいる。
シオンもそれらを楽しみにしている一人だった。
「——今年は家にいろ」
赤い頰を膨らませ、黒髪の少年は俯いている。
「熱は下がった、が、まだ咳が出ている、だろう。寝て、なさい」
母の声音は厳しいが、シオンへの心配からくるものである。そのことは少年にも伝わっていた。
彼は黙って寝台に戻り毛布に包まる。
揺り椅子に座っていた姉は笑いをこらえた。
(拗ねてるのわかりやす……)
まだ幼い妹と弟は摘んできた花を彼の寝台に並べた。
いつの間に寝ていたのか、シオンが目を開けるともう夕方だった。
脇に座っていたロイエが、ほっとした様子で水を差し出す。
「あんがと」
「ゆっくり飲んでね」
「……今何やってる?」
「演目? 太陽神の浮気の話だよ」
「出たかったな。月神の従者役で」
「シオンすごく上手だものね。ぼくも見たかったよ」
「再来年に見られるぞ」
そう無邪気に返す少年に、青年は泣きそうに顔を歪めた。
「……うん」
口を濁しながら、ロイエは果物の砂糖煮を少年に食べさせた。
味付けの癖から、母親ではなく姉のレシピだとわかった。
冷たい塊を噛むと甘い汁が溢れる。嚥下すると暑くなっていた喉が少し冷やされた。
「うまい」
二人が笑顔で視線を交えた瞬間、広場から悲鳴が聞こえた。
「い、今の」
「シオンはここにいて。何かあったら、すぐに迎えに来るからね」
真剣な表情で、彼は寝室の扉を閉めていった。
少年は謎の疲労感と共に、意識が遠のくのがわかった。
重たい瞼をなんとか持ち上げる。
部屋の中はすっかり暗くなっており、異様に静かだった。
体を起こして足を地面に下ろすと、鋭い痛みが走った。
風邪による関節痛とは明らかに種類が違う。
シオンは強引に体を動かし扉を開けた。
なぜか扉の前には布が垂らしてあった。
玄関の方に足先を向けた瞬間——少年は己の目を疑った。
素足に何か、柔らかいものがぶつかる。
それは口から泡を吹いて倒れている弟だった。
ぎこちなく顔を上げれば、玄関の様子がはっきりと見えた。
横たわる母の体には、幾本の槍が突き刺さっている。
どこかで炎の爆ぜる音がする。
彼の日常はあまりにも簡単に奪われた。
少年は夜の森を走った。
背中には家中探して見つけた妹を背負っている。
幼い少女に外傷は無く、それなのにどんどん衰弱していった。
広場へ続く道は死体が連なり、とても通れる状態では無かった。
焦りに突き動かされて、シオンは外部に通じる隠し路を進む。
しかしその歩みは突然止まった。
道の向こうから振動が伝わってきたのだ。
(——馬だ!)
脇に隠れようとするも、木の根に足がもつれる。
妹を庇って、少年の顔が地面に擦りつけられる。
思わず呻く彼の前に、一人の騎兵が現れた。
黒い鎧に身を包んだそれは、手にしていた銃剣を馬上に残し、二人の前に降り立った。
警戒から睨みつけるシオンの口内に、何かがねじ込まれた。
慌てて騎兵の腕を掴むも、口と鼻を押さえられ、苦しさからそれを飲み込む。
少年のぼやけた視界で、兵士の手が妹に伸びる。
「やめ、ろ」
手を伸ばしたその時、あることに気がつく。
身体の激痛が多少、ほんのわずかに和らいでいた。呼吸も安定してきている。
(……毒じゃねぇのか?)
少年が退くと、騎兵は小瓶から錠剤を取り出し、少女の体を持ち上げた。
しかし数秒固まってから、男は彼女を地面に横たわらせた。
「なっ、なんで」
彼は何も言わず、目の前の少女の瞼を震える指で下ろす。
それが疑問の答えだった。
少年が消えてからしばらくして、別の騎兵達が笑いながらやってきた。
「お、やっぱ逃げてきたのがいたか。他には?」
黒い兵士は黙ったまま、首を横に振った。
シオンは村を見下ろす丘に立っていた。
体から離れたばかりの魂が、悲痛な怨嗟を叫ぶ。
飲み込まれそうな感情の渦に、少年はきつく耳を塞いだ。
谷は燃えていた。森に火が放たれたらしい。
その炎の縁に、黒い鎧に身を包んだ、緋色の髪の青年がいた。
死体の海に膝をついて、同じように武装した集団に捕らえられている。
血で汚れた彼のことを満月が照らす。
隠し路まで知っている外の人間は一人だけである。
それを理解することを、少年の本能は拒絶した。
——数ヶ月後。
宮殿の応接間で、大柄な男が眉根を寄せていた。
現皇帝にして歴戦の猛者、バゼット・レーウェンである。
対面してソファーに座っているのは、最近提唱された精神学の第一人者だ。
「人が大きなショックに直面した時、回復していく段階があります。これは肉体の怪我と変わりません」
「それでいうと……あいつは?」
「極めて『不安定』と言わざるを得ません。一時的に平穏を取り繕っている状態がずっと続いている、と言うべきかと」
学者は顔をしかめて続ける。
「心の傷というものは、ようやく研究され始めた段階です。現在立証された治療方法が、必ずしも彼に合っているとは限りません……」
バゼットは庭で花壇の水やりをしている少年を見やった。
「大峡谷」での捜索で唯一見つかった生き残り。
老父と目が合い、シオンは不思議そうに首を傾げた。
黒髪の少年はある日、大書庫の階段に腰掛けて、読書をしていた。
悲劇の脚本を読みながら、少年は去年の出来事を思い浮かべた。
しかし、登場人物が言うように「悲しく」はならない。ただ虚無感だけが胸に広がる。
読む物を変えようと本棚に近寄る。
ふと今年発行された帝国史の本を手に取った。
『帝歴八六四年・大峡谷における民族虐殺』
一行。
そのたった一行を、彼は見つめ続けた。
大勢の記者が来て、自分の師に追い返されるのを見た。
世の中は事件を起こしたアン派の一集団を糾弾し、一人生き残った子供に同情と関心を寄せた。
帝国中で多くの人が怒り嘆いている。
けれど、それを知れば知るほど、少年は奥底が冷え切る気分がした。
本を持って立っていると、背後から誰かの足音が聞こえた。
「シオン! 夕ごはんだって」
銀髪の少女はそう言って笑っていた。
「おん、わかったぞ」
「……元気ない?」
「ん? そんなことないって、ほら」
明るく見えるよう持ち上げた頰を、小さな両手で挟まれる。
アニタは悲しそうに目尻を下げた。
「わたしに言えないこと?」
シオンは押し黙ってから、恐る恐る口を開いた。
「わからねぇんだ」
「わからなきゃいけないことなの?」
「多分、そうしないと……もっと色んなことがわかんなくなる。そんな気がするんだ」
無感動な顔で彼は続けた。
「でも、上手く言葉にできねぇ」
少女は彼の本心を聞いて、肩の力を抜き、穏やかに微笑んだ。
「じゃあ書けばいいよ」
「え?」
「書いて、書き直して、嫌なら捨てて、そうやって探せば見つかるかも知れないよ?」
少女は花が咲くそうな笑顔を浮かべた。
「だってシオンは読めるし書けるんでしょう? シオンが今悩んで考えたことは、いつかのシオンの助けになるかもしれないし、他のだれかも救えるかもなんだよ! それってすごいことだよね」
そう両手を広げる彼女が、天窓の光に切り取られて、あまりにも神聖な存在に思えた。
そうだ。
少年にとって、この少女に出会えたことこそが、喪失の先に取り返した喜びであった。
シオンは気がつけば、自然と口角を上げていた。
「……ありがとう」
少女は——今にも泣きそうな顔で笑っていた。
「ああ、やっと、やっと君が気づいてくれた」
記憶の懐古が終わり、少年は暗闇に包まれる。
大きな獣の足音がする。
『愛し子よ、起きたかえ』
少年は夜の草原に横たわっていた。一頭の狼が彼を見下ろしている。
黒狼は額にある一つ目を開いて、にたりと口元を吊り上げた。
『気絶してさらに寝るとは、器用だことだ』
少年は冷静に体勢を起こし、彼女に頭を下げた。
「失礼致しました。マナグワチ様」
『許す。楽にせよ』
その言葉に甘えて姿勢を崩す。
眼前の狼は、ユグォン族が信仰していた月神そのものだ。
(神というには、随分と感情豊かだけどな)
『神などと、人が勝手に言ったこと。しかしそう妾に縋る愛し子達は、嫌いではなかったよ』
(……心読まれた)
彼女とシオンの関係は、言ってしまえば主従である。
少年は物心ついた時から、毎夜夢で彼女に会った。
それを知った大人達の喜びようは凄まじかった。
神と「対話」できる子が生まれたのは久しいことだったらしい。
彼女は自身を「想像の残滓」だと名乗り、夢でシオンをからかって遊ぶ以上のことは何もなかった。
『懐かしいねぇ。小さいお前も愛いかったよ』
甘やかな優しい声音に油断してはいけない。
相手は彼の願いの代償に、死後まで続く所有痕を残したのだから。
事件の後も、夢は変わらず見た。
その中で幼い少年は願った。
本来、彼の民族は成人すると名前にちなんだ刺青を入れる。昨今では植物の汁で描くだけが多い。
その成人の印の代わりに——
『あの日までの日常と、我らの結末を忘れないよう。刻んでくださいまし』
のうのうと一人だけ生き残った自分にできるのは、もうそれしかないと思ったのだ。
狼は優雅に笑いながら、彼の背中に渦巻く炎と、それから逃れる紫苑の花を刻み込んだ。
ふと、神は楽しそうにふかふかの尻尾を振った。
『ほれ、可愛らしい雪華がお待ちだよ』
シオンが背後を振り返れば、銀髪の幼女が立っていた。
「な、なんで」
草をかき分け駆け寄ると、少女は誰かを押し出した。
そこには小さな真っ黒の子供がいた。
文字通り黒一色で覆われて姿がわからない。
けれど少年はそれが誰か理解した。
「ここ……夢じゃねぇ……」
『妾は夢とは言ってないぞ』
悪戯好きの神をじと目で見やってから、シオンはため息を吐いた。
びくっと怯えた誰かを抱きしめる。
彼がとても臆病者であることは、痛いほど知っている。
「大丈夫だ」
きつく、きつく目を細めた。
「もう、無視しねぇから」
ちゃんと受け止めると、そう誓った途端、真っ黒な表面がひび割れた。
破片が落ちるたびに、不格好な泣き声が大きくなる。
抑え込まれたその下で、幼い自分はずっと泣いていた。
置いていかれたことが悲しかった。
独りぼっちになって寂しかった。
どうしようもなく許せなかった。
「でも、それでも」
兄貴分を絶対に許せないことも、彼と過ごした日々を愛していることも、どちらも矛盾せず共にあった。
「自分の気持ちぐらい、素直に認めてやればよかったんだ」
そう吐き出したのを最後に、彼の眠りは終わった。
誰かに名前を呼ばれたような気がした。
瞼を持ち上げ、少年は固まる。
「あ、お、起きた?」
頰を赤くしてアニタが呟く。
シオンは寝台に座り、無自覚で彼女を抱き寄せていた。
「ご、ごっめ、ほんとごめん!」
焦って後退り、彼は盛大に頭をぶつける。中々の大きな音に、廊下にいたオリバーとエラムが覗き込んでくる。
シオンは頭を摩り、思わず息を凝らした。
一瞬、呆れ顔のヴィーがそこにいた気がしたのだ。
(そうだ。あいつは……今いねぇんだ)
ちくりと胸が痛む。
「シオン……」
「おん? どうした?」
少女が驚いた先を見ると、自分の膝が写った。服に斑模様が広がっていく。
ようやくシオンは、自分が泣いていることに気がついた。
「あれ……なんで、なんでだろ」
戸惑いながら目元をこする。
不意に柔らかなタオルが押し当てられた。
少女の細い手で背中をさすられる。
それだけのことで、溢れ出る雫は、しばらく止まりそうになかった。




