第七話・断頭台
アニタは再び氷の荒野にいた。
少女は両手で耳を塞ぎ、大粒の涙をこぼす。硬い物が地面を転がっていった。
その合間を歩いてくる者がいた。
相変わらずよく見えない姿で、ルシファーはしゃがみ込んだ。
「ごめんね。君を悲しませたかったわけじゃないんだ」
申し訳なさそうに彼は言葉を続ける。
「ただ、気持ちは押さえ込んでも消えるわけじゃなくて、溜まっていってしまうんだよ。ミカエル」
どこか寂しそうな声を耳にして、少女はするりと両手を下ろした。
「違います」
「え?」
「わたしは、アニタです」
その呟きにルシファーは沈黙した。どうやら驚いているようだ。
「……わたしの魂が誰だったとしても、今のわたしとは違う方なんですよ」
彼は静かに息を飲んだ。
目の前の少女を初めて一個人として認識したのだ。
呆気に取られているその手を取り、アニタは深く息を吸い込んだ。
「わたしは人間を怒り、憎み、嫌悪しています。母を喪った日からずっと。それは事実です。でも、信じるって決めてるんです」
「……何を?」
彼女はゆっくりと微笑んだ。
「わたしだけの秘密」
それはルシファーが知る彼女とは、眼前の魂に宿る片割れとは、似ても似つかぬものであった。
ぱちりと目が開く。
アニタは知らない寝台に横になっていた。
脇の椅子にではシオンが船を漕いでいる。よく見ればわずかに涎を垂らしていた。
(ここまで運んでくれたのかな)
申し訳なさを感じながら、少女は少年を見上げる。
どうやら彼はすっかり眠ってしまっているらしい。
(……ちょっとだけ)
こそっと手を伸ばすと、簡単に彼の片手を握ることができた。
両手で包み込みながら優しく擦り寄る。
彼の体温も、優しさも、屈託のない笑顔も、本人にとっては至極当たり前の日常。
その当たり前にどれほど支えられているか、いつか伝えられるだろうか。
「ぅぅ……」
小さな呻き声に慌てて彼から離れる。
しばし瞬いてから、シオンは寝台にいるアニタと目を合わせた。
「はよ……」
「お、おはよう」
照れ臭そうにしている少女に、少年は寝ぼけ眼で首を傾げた。
夕食後、一行はニンファの泊まっている高級宿に招かれた。
腐肉兵について説明したいということだった。
事情を聞いたシオンは、絶望の悪魔の言っていたことがようやく腹に落ちた。
混乱を避けるため口止めを受けて、三人が去ろうとした時、若き七選帝侯は口元だけの微笑みを浮かべた。
「S・ユグォン」
立ち上がろうとしていたシオンが固まる。オリバーとアニタは不思議そうに顔を見合わせた。
「合ってるみたいですね。貴方がラジオ局に提供した情報の写しを先ほど私も頂きましたわ」
「エッシェンホルスト御当主様に知られているとは大変光栄です」
「もう敬語はいりませんよ。人払いはしてあります」
「……要件は?」
「情報を出し切っていませんね?」
隠し事は許さないと、少女は完璧に計算された笑みを浮かべた。
「私に売っていただけないかしら」
彼女の要望はまだ公表されていないアルベルトの論文だった。その対価として順当以上の額が提示された。
「一つ、注文をつけてもいいか?」
「勿論」
「俺は全てを国営図書館に寄贈する予定だった。その上で障壁になられては困る」
「ああ問題無いわね。私は一早く知りたいだけ。それに」
少女は一口紅茶を啜った。
「国営図書館は代々うちの管轄だもの」
少年はバンダナを下げ、不満そうに頰を膨らませた。
「それにしても、良く俺だってわかったな。学徒として顔を出したことはねぇのに」
「一度見かけたのよ。今代の皇帝の即位式で、保護者に連れられていたでしょう」
「そん時か……」
「この後のご予定はあるの?」
「おん、その師匠に会いに行く予定だ。ホイストンの港を使う予定だったんだが、今の状況だと難しいな」
「そうね、隣の領邦に変更をお勧めするわ」
ニンファは空になった紅茶のカップを置く。
「ちょうどよかった。バゼット様に挨拶しておきたかったのよ。同行しても?」
「んー、俺はかまわねぇけど……」
ちらりと仲間の方を確認する。二人は美味な食事を存分に与えられて上機嫌で頷いた。
「いいぞ!」
「それは良かった」
華奢な指先を重ねて、ニンファは不敵に微笑んだ。
港町へ向かう途中、彼らは更なる予定変更を余儀なくされた。
山道で落石事故が発生したのだ。
迂回路を進むと大きな街に到着した。
そこで一泊することになり、馬車を降りて散策していると、やけにざわめく集団を見つけた。
「なんだ?」
少年がざわめきをかき分けて進むと、それは見えてきた。
斜めの刃の断頭台。そして、首が乗せられた台と、木の看板。
肝心の首はやけに若い青年だった。
ニンファは看板を見やり、小声で文章を読み上げる。
「八年前に死刑判決を受けた戦争犯罪人……そう、ここ処刑場がある街だったのね」
遺体への侮辱行為は法で禁じられている。
この青年の首も今日中には墓地に運ばれるだろう。
思わずアニタは台から目を逸らし、黒髪の少年の袖を引いた。
——不意に伝わる微かな違和感。
少女は幼馴染の顔色をうかがった。
シオンは哀れなほど青くなっていた。
一歩ずつ、ふらふらと近寄って、糸が切れたように膝から崩れ落ちる。
少年は何かを拒絶するように嘔吐した。
即座に抑えようとした手も意味をなさず、彼は汚れた指を虚空に伸ばした。
視界が激しく揺れる。
頭が急な痛みに襲われた。
「……兄、貴」
短く切られた緋色の髪が、やけに脳裏に焼き付いた。




