幕間 強欲との邂逅
「シオンー!」
銀髪の幼女が、裸足で絨毯の上を走っている。
身長から考えに十歳ほどだろうか。
本人は精一杯走っているのだが、側からは早歩きぐらいに見える。
検査衣の裾ををひるがえして、一番端にある扉の前で立ち止まった。
「シオン、けんこうしんだん? おわったよー」
彼女はノックもせずに勢いよく扉を開ける。
しかし部屋は殺風景で、お目当ての人物はいなかった。
「シオンがいにゃい!」
扉を開けた体制のまま、アニタは叫んだ。
「ゆ、ゆうかい!?」
お目当ての少年は、少し離れた大書庫にいた。
数万冊にも及ぶ書物が与える威圧感は、その部屋の呼び名にふさわしい。
彼は自分の師に命じられて、黙々とそこの掃除をしていた。
古今東西問わずかき集められたそれらは、所有者曰く「老後の道楽」に過ぎないそうだ。
「くそぅ……面倒なこと押しつけやがって……今度から影でししょーのこと『じじい』って呼んでやるからな」
労働の対価として、シオンは大書庫を我が物顔で歩き回る。
物色するような態度だが、この部屋の蔵書はほとんど読み終えている。
不意に、すぐ近くで一冊の本が床に落ちた。
まるで自ら落ちようとしたかのような不自然さだ。
数秒考えた後、少年は分厚いそれを手に取った。
「おん? この本題名がねぇな」
本棚に寄りかかって胡座をかき、少年はその本をめくり始める。
それは詩集のようだった。
内容は一貫しておらず、誰かの日記を盗み見るような、言いようのない気まずさに襲われる。
それでも手を止めることはなく、終盤に差し掛かった時、とある十行詩が目に写った。
何気なく文章を指でなぞりながら、シオンは口を開いた。
「誰が望むのだろう。善良な魂を」
他の部分に比べ、その詩の部分はインクが薄い。
「誰が愛すのだろう。愚かな大罪人を」
目を凝らしつつ慎重に読み続ける。
「比翼の鳥は息絶えて、連理の枝は枯れ落ちた。後戻りできる道はない。たとえ己を失っても……懐かしい声があなたを縛る」
最後の一行を読もうと、少年が息を吸った瞬間、周囲で風が吹き荒れた。
慌てて立ち上がり息を飲む。
いつの間にか幾何学模様で構成された円に囲まれていた。
「魔術、陣?」
悪魔が使うと言われるそれは、中央から走るように光りだす。
シオンが思わず後ずさりと、本棚に小さな背中がぶつかる。
ふと、そこで眼前に現れたものに気がついた。
もしかしたら魔術陣が発光した時には、すでにいたのかもしれない。
混乱する頭を持ち上げると、それと目があった。
「——十二の悪魔が一人。強欲のドゥジェン。ここに」
重々しい声が響く。
赤黒い肌に、歪に尖った耳、煙と化している下半身。
配色が通常と逆な白目と黒目が細まる。
そして何より、この不可思議な状況と名乗りの言葉。
起きたことを理解したにもかかわらず、シオンは一言も発することができない。
「さあ、マスター。あなたの願いを……ん?」
強欲の悪魔は訝しげに首を傾げる。
目の前にいる少年は、ぱくぱくと口を開閉させている。
それだけならば見慣れた反応だが、どうやら怯えているわけではないようだ。
むしろ好奇心に満ちた目をして、両の頰を紅潮させている。
(こりゃあ、珍しいパターンだな)
そう思いながら悪魔は縮れた白髪を掻いた。
「——特例召喚?」
「そうだ」
かぎ爪のついた指が左右に揺れる。
「悪魔と相性が良すぎる人間が召喚者だと、稀にこうやって必要な触媒や召喚詩の詠唱を省けることがある」
「それは……なんでだ?」
「召喚詩をノックだと思え。急な来訪者はまず警戒するが、来ることを知っていた親しい相手には、すぐに扉を開けたりするだろう」
「わかるような……わからねぇような。とりあえず、俺はめっちゃ得したってことだな!」
「その前向きさ。嫌いじゃないぜ」
笑った口から覗く歯列は、ギザギザと尖っていた。
ひとしきり髪だの腕だのを好きに触らせてから、悪魔は真剣な表情で少年に尋ねた。
「さて坊主、お前さんの願いはなんだ?」
「願い?」
そう一言呟くと、シオンは目を輝かせた。
強欲のことをまっすぐに見つめて、心の底からの笑顔で口を開く。
「ドゥジェンが今までに契約したマスターのことと、その周囲の情報を全部教えてくれ!」
「……はい?」
「あ、追加の代償いるか? 右手は利き手だから左手か……足りねぇなら片目とかかな」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。どうしてそれが願いなんだ?」
「おん?」
納得していない悪魔に対し、少年は無邪気な声を返した。
「だって、そうしたらこの世界で一番客観的な、人類に関する史料が手に入るだろ」
「……金や名誉や不老不死はいらないのか?」
「なにそれいらねぇ」
清々しいほどの断言。
困惑しきった様子の悪魔に彼は続ける。
「知れるなら、書けるなら、残せるなら、俺はそれがいい」
静かで迷いのない表情には、彼の年齢にそぐわない狂気があった。
それを見て、突然悪魔が大声で笑い出した。
笑われた少年は驚きで目を瞬かせる。
「参ったぜ坊主、随分と強欲じゃねぇか。特別だ。お前が俺の頼みを聞いてくれるなら、追加代償は無しにしてやろう」
「マジで!?」
「大マジだ」
悪魔は片手をシオンの前に差し出す。
シオンはその手のひらにちょこんと拳を乗せた。
「いや、そうじゃねぇよ。見てろ?」
何も無い彼の手の上で、赤い炎が舞い上がった。
「おお!」
「誰が望むのだろう。善良な魂を。誰が愛すのだろう。愚かな大罪人を」
彼は召喚詩の冒頭を口にする。
炎はそれに応えるかのごとく、少しずつ収縮しながらその色を変える。
赤から青そして紫。
ちょうど紫苑の花と同じ色になった瞬間に、炎は刃物の形に固定された。
「我が名は——強欲の悪魔・ドゥジェン」
炎は悪魔がそれを振りかざした途端、炎は金属のナイフそのものへと変貌した。
微細な装飾が入ったそれを軽く撫で、強欲は満足そうに微笑んだ。
「ほれ坊主、これをやろう」
「よっしゃ!」
少年はなんの躊躇いもなくナイフを受け取った。
「で、これ何?」
「……受けとる前に聞きなさい。これは他の悪魔と人間の契約に反応するナイフだ。簡単に言うと、人間と契約した悪魔が近くにいると光る」
「光る」
「ああ。めっちゃ光る」
「めっちゃ光る」
「そんで、肝心の契約を切り、その権利を横取りすることができるっていう代物だ」
「えっと、俺がその悪魔のマスターになるってこと?」
「そうだな。俺の頼みっていうのはな……」
強欲の悪魔は口角をはねあげた。
まるでシオンを挑発するかのように。
「今この世界に呼び出されてる悪魔を、全員帰してくれ。俺達の住処、煉獄に」
ナイフをいじる手を止め、少年はゆっくりと視線をあげる。
「……悪魔達が勝手に帰ればよくない?」
「マスターの合意が無いと帰れねぇんだよ」
「ふーん。別にやるのはいいけど、なんで帰したいんだ?」
「俺もたまには、十二人全員で茶でも飲みたいんでね」
「そっか!」
悪魔の告げた理由に、黒髪の少年は納得した様子で呟いた。
「離れ離れは、寂しいもんな」
自分の血一滴と交換に、前払いとしてもらった情報——悪魔曰く全体の半分——を少年は必死に記録する。
知らない論理や技術については、その都度素直に質問した。
そうした態度が気に入ったのか、強欲の悪魔も丁寧に教えていった。
「そういや、さっきはなんで詩の最初の方を喋ったんだ?」
「あれか? 俺達悪魔がこの世界で強い魔術を行使する際には、条件として『召喚詩の最初の四行』と『最後の一文を一人称で』唱えなきゃいけないんだ。めんどくさいがな」
「へー」
その時、部屋の外から声が聞こえてきた。
「シオンー? どーこー?」
「アニタか……今行くー!」
つい悪魔から目を離すと、ひどく穏やかな囁きが耳に入った。
「——頼んだぜ。坊主」
振り返れば、そこに彼の姿は無かった。
シオンは渡されたナイフの柄を握りしめてその場を立ち去る。
少年の顔には、隠しきれていない興奮が覗いている。
大書庫の重い扉が、仰々しい音を立てて閉まっていった。
きっとこれはどこにでもある昼下がり。
世界ではいつも通りの不条理の上で生命が増減し、当たり前のように営み、間違いながらすれ違っている。
けれどこの日、少年は悪魔との約束という理由を手にした。
たとえ側からは不公平に見えたとしても、この約束は両者が目と目を合わせ向き合って成された。
どこまでも自分勝手で強欲で、優しいからこそできた約束。
それこそが彼の一生をかけた旅の始まりだった。




