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第十一話・魂と肉体と、そして性格


 アルベルトは気がつくと、彼女の名前を呼んでいた。


「——ルフトゥ」


「ええ、あなたのお側に」


 背後に現れた影を振り返ることなく、彼は言葉を続ける。


「庭に埋める。手伝ってくれ」


「了解ですマスター……アルベルト、私は優しくないから気にしないわ。堪えなくて良いのよ」


「……何の、話だ」


 次第にその声音はか細いものになる。

 腕に抱きとめていた子供の頰に、数滴の雫が落ちて伝った。



 憤怒の悪魔はコルセットを解く。

 腹に空いた穴から小さな黒い泡が溢れた。


「さ、穴を掘りなさい」


『ハーイ』『リョウカイ』『オソトダー』


 泡は破裂しながら歪な人型をとり、スコップ片手にざくざくと庭を掘った。

 アルベルトは一本一本枝を削って十字架を作っている。


 夕焼け空が辺りを包み込む頃には、広い庭には八つの墓が並んでいた。


「ルフトゥ、一つ聞きたい」


「はい?」


「心からの憤怒を知った今なら、君の力を借りて馬鹿げた望みを叶えられるか」


 陽光の名残で紅茶色の髪が照らされる。

 憤怒の悪魔は彼の光の無い瞳を見て、それはそれは喜んだ。



 元々が数奇な巡り合わせだった。


 惨劇の一日前、男が書斎で資料を整理している時、悪魔召喚に用いられる十行詩が目に入った。

 アルベルトはちょっとした好奇心でそれを口にした。

 触媒も無い上、最後まで読まなければ問題ないはずだと考えたのだ。


 だが、その気まぐれは大きな誤算を招いた。


『——十二の悪魔が一人。憤怒のルフトゥ。ここに』


 気がつけば、眼前には羊頭の女性が優雅に立ち、うやうやしく会釈をしている。

 魂と肉体の相性がかなり良かったのだろう。それこそ最初の二行を読むだけで喚び出されるという特例が起こる程度に。


『…………想定外だ』


 赤髪の男は首をひねる。


『悪魔召喚の申請もしていない……ちょうど明日は裁判院に行くからいいか』


 しかしそう呟く彼を目にして、悪魔は——失望を込めたため息を吐いた。

 男の中には、彼女の欲する怒りが無かった。


 彼には無意識に体を突き動かすような、激しい衝動が欠如していたのだ。



 とはいえ人は些細なきっかけで変わる。

 アルベルトは今確かに喪失に嘆き、世界の理不尽さに激怒している。

 彼女には、当たり前とも言えるその反応が嬉しくて仕方が無かった。


「ええ、ええ! 全身全霊をかけて実現させてみせますとも」


 今しがた宝物を失った者が、泣きたいくせに、怒鳴り散らしたいくせに、それを堪える愚行ほど、憤怒がやるせないことはない。

 そんな光景は一度見れば十分だ。


(これまでの積み重ねがあるとしても、たった一日で怒りを覚える者がいる……それならお父様も……)


 はっと頭を上げれば、不思議そうに小首を傾げている彼がいた。


「どうした」


「失礼、なんでもありません。さぁ、愚かな望みを叶えましょう」


「ああ」


 アルベルトは一度の深呼吸の後、極めて単純なそれを口に出した。


「彼らを助けたい。俺の過去に飛ばしてくれ」


 悪魔は基本マスターに絶対服従する。

 しかし彼らにも制約は多く、何よりも世界の機構に逆らうことは勧めないと召喚主に伝える義務がある。

 それでも、彼は口にせずにはいられなかったのだろう。


 憤怒の悪魔はどこまでも静かな声音で告げた。


「かしこまりました。敬愛すべきマスターよ、祝福あれ」


 その台詞を最後にアルベルトの意識は白濁した。



 もう一度目を開けた時、彼は固く冷たい椅子に座っていた。


 どうやら今朝の裁判院に戻ってきたようだった。

 周囲はざわめき、壇上には一人の裁判官、少し目線をずらせばクリスタンが何かをまくしたてている。

 網膜が焼き切れるような熱を感じ、アルベルトは殴りかかろうとする拳をどうにか抑えた。


 不意に名前を呼ばれた気がした。

 周りの反応を伺う限り、幻聴ではないらしい。

 立ち上がって初老の男の方を向く。

 最大限の軽蔑を込めて、


「馬鹿馬鹿しい……」


 後のことを考える冷静さは欠いていた。

 そんな余裕など今の彼には無かった。


「七選帝侯の席などいらない。どうとでもすればいい! 私はお前と同じ空気を吸っていると思うだけで吐き気がする!!」


 それは生まれてこの方出したこともない、荒々しい叫びであった。


 本当に時間が巻き戻されたなら、彼の豹変の理由が知られる日は来ないだろう。

 だとしても、アルベルトの中で、あの匂いも赤も冷たさも忘れられることはない。

 それが彼にとって、自分のできる唯一の贖罪だった。



 建物を飛び出した先、彼は浮遊感に襲われた。

 そのまま小型の気球機のような物に投げ込まれる。


「お疲れ様ですマスター。見た目よりも速度が出るのでお気をつけて」


「これは、君の魔術か?」


「いいえ、趣味の工作です。炎の渦の製作者に最短ルートを通る許可は得てきましたから、少ししたら館に到着します」


 彼女の言葉通り、信じられない速さで二人は屋敷の上空にたどり着いた。


 玄関扉と裏門の両方に見知らぬ人影がある。

 どちらもがたいが良い者ばかりだ。

 アルベルトは憤怒の片手を取って、裏門に降り立った。




 ——数分後。

 玄関扉の厳重な鍵は開きかけていた。


「なぁ、ガキには巨人もいるんだろ? どうすんだ?」


「心配すんな。巨人用の毒は持ってきてあるぜ」


 軽口を叩き合いながら男衆は武器の点検をしている。

 ピッキングの係が満足げな笑みを浮かべた瞬間、土を踏みしめる足音がした。

 一斉に身構えてそちらに向けば、裏側から歩いてきたらしき館の主人がいる。


「おいおい聞いてねえぞ。早すぎる」


「どうする?」


「仕方ねぇだろ。少し寝ててもらおうか」


 細身のひ弱そうな体を見て油断しているようだ。

 黙りこくるアルベルトの耳元で艶やかなソプラノが流れる。


『誰が望むのだろう。善良な魂を。誰が愛すのだろう。愚かな大罪人を。(われ)が名は憤怒の悪魔・ルフトゥ』


 燃え盛る怒りはやがて、その熱をも破壊し、冷え切った氷雪へと変貌する。

 その場にいる人々の視界は白に覆い隠された。


 彼の姿はやがて半人半馬の水晶へと変わった。

 蹄を鳴らし、穴の空いた右手を男達の後ろ側に向ける。


「——夕焼けを」


 暗い穴の奥から一本の線が走る。

 眩い光の線は男達の間を抜けて、遠く海面まで続いた。

 ピキパキッと硬質な音が鳴る。

 光に触れた木の幹が結晶化し、砕け散りながら倒れていく。


 狼藉者達は皆本能的に死を直感する。


 その様子を見下ろして、アルベルトは慈悲をかけた。


「去れ。金と命を天秤にかけろ。二度目は無い。裏の仲間を回収していけ」




 騒音に気づいたのか、しばらくすると玄関が開いた。


「あれパパ?」


「今日は遅くなるんじゃ無かったの?」


「おかえりなさい!」「夕ご飯が一緒に食べられるのだわ!」


「……パパ」


 機械の手を伸ばして、少年は、ジリアンは心配そうに声をかけた。


「寒いのか?」


 男は衝動的に子供達を抱きしめる。

 誰しもが目を白黒させた。

 なにせアルベルトがこうして接触してくるのは初めてのことだった。

 許可も同意もなく他人の体に触れてはいけないと、いつもそれだけは厳しく言っていたのに。


 どうして彼は急に自分達を抱き寄せ、無言で泣いているのか。

 それがわからないまま、家族はリビングへ戻った。



 時は進み、現代から七十年前のダーナー邸。


 孤児の保護を始めてから最後となる卒業生を見送って、アルベルトは重々しく椅子に座った。

 ふと顔を上げれば、対面の席で憤怒の悪魔が紅茶を注いでいる。


「一杯貰ってもいいか」


「勿論です」


 カップとソーサーが合わさり、かちゃっと音が鳴った。


「代償の回収、待たせてすまない」


「いいえ? 数年単位は一瞬ですからね」


 子供達を責任を持って送り出すまではと、時間遡行の追加代償を待ってもらっていたのだ。

 自分のカップを置いて、憤怒は小さなナイフを差し出した。


「髪を。できれば一束」


「なんだ、奇跡の代償だというのに、そんなものでいいのか」


「ええ、十分です」


 元々切るのが面倒で伸ばしていた長髪にナイフを食い込ませる。すぐに頭が軽くなった。

 憤怒は渡された髪の束を編み、紙に包んでしまう。


「遺伝子情報が欲しいだけですから」


「何をするんだ?」


「あら、子作りですよ」


「ぶふっ」


 机に飛んだ水滴を拭き、アルベルトは複雑な表情で切り出した。


「……なぜ」


「私は世界の仕組みに抗った。当然罰を受けるでしょう。その時、『憤怒』が空席にならないためです」


 そう語る彼女は愛おしげに包み紙を撫でる。



 男は少し経ってから最後の頼み事を口にした。


「そうだ。俺の死後に、この屋敷を閉じて保管することはできるか」


「可能ではあるけど、契約解除用の血液と、追加代償が必要ですね」


「構わない」


「了解。では屋敷の保存を行います。具体的にはいつまでですか?」


「うむ……」


 アルベルトは困ったように首を傾げた。


「そうだな。俺の悪評をどうとも思っていないが、知的好奇心の強い奴が来たら開けてやってくれ」


「難しいこと言いますねぇ」


 家の各隅に魔術陣を設置し終えたところで、憤怒の悪魔は血の入った試験官を受け取った。


「確かに。では続いて代償をいただきます。期間が未定であることと、複雑な魔術であることから——残りの寿命を」


「わかった」


「それと、もう一つ」


 悪魔が細い人差し指をすっと立てる。


「私がこれから産む子供の名前をつけてください」


「……難しいことを言うな」


 書斎から何冊も本を持ってきて、彼は小一時間悩み続けた。


 ようやく決まった頃にはすでに紅茶は空になっていた。



 しばらくするとリビングにはアルベルト一人だけが残された。

 玄関先の広間で、ぼんやりとケースが光る。

 魂を持たないはずの『こどもたち』が漂い始めたのだ。


 彼らはアルベルトの主張により、ここに置かれていた。


『忌むべきものでも、隠すべきものでも、落し子でもない』


 憤怒の悪魔が世界の時間軸そのものを操作した際、彼らは偶然にも影響を受けなかった。

 砂が擦れるような響きが、丁寧に、慎重に、確かな言葉を紡ぐ。



『だいすきなぱぱ、おやすみなさい』



 眠るように目を閉じた男の耳に、それが届くことは無かった。


 そうして白亜の屋敷から生者は消えた。




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