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第三話・彼の譲れない一番目


 孤独のアダムの意識がゆったりと浮上した。


 軽く首を鳴らす。黒の扉を通ったところまでは認識していた。

 見渡せばそこは煉獄にある悪魔の会議場だ。長机の周囲に十二脚の椅子が並んでいる。

 彼は今、自分用の石造りの椅子に腰掛けていた。


 ぴしりと端正な目元にヒビが入る。

 それを指先で押さえながら、アダムは固く目を閉じた。


 途端——彼の姿は変貌する。


 ヴィーの肉体を覆うように、マントが緩く巻きついていく。

 顔の部分はペストマスクで完全に隠され、手足の裾からは血のついた包帯の端が覗いた。

 頭の上に浮かんだ濡羽色のシルクハットを深くかぶり直す。

 いつの間にか背丈も伸び、ほっそりとした誰かがそこに座っていた。


「おや、お帰りですか? 我らが『父上』」


 声の方を見やると、下半身が煙と化した赤肌の男がいた。


「ドゥジェン。元気そうで何よりだ」


 淡白なようでいて、その言葉にはどこか隠しきれない情が滲んでいる。

 名前を呼ばれた強欲の悪魔はうやうやしく頭を下げた。


 机一つ分の距離を保ったまま彼らは会話を続ける。


「久方ぶりの地球はどうでした?」


「ああ、あまり変わりはないな。少しばかり、予定よりも早く寒冷化が進んでいるね」


 和やかな雰囲気を取り繕って、彼らは言葉を交わす。



 孤独の悪魔・アダムは、名実ともに悪魔の頭領であり煉獄の管理者。その敬称として他の悪魔から「父上」や「お父様」と呼ばれている。

 その立場ゆえに、彼らは互いに接し方を悩み続けていた。



 そっとカーテンにドアノブを近づける。何もないはずのそこにカチリとはまった。

 不協和音を奏でながら、彼は自室の扉を開ける。

 他の者達とは違って、彼の部屋の扉は神出鬼没。彼にしか開けることは叶わない。


 室内には古今東西の古びたガラクタが散らばっていて足の踏み場も無い。

 アダムは積み上がった瓦礫の上に座って、重々しいため息を吐いた。


 ふと、脳裏に明るく無邪気な笑い声が響く。


 それらは彼の主観でかつひどく偏った記憶であろう。

 なのにどうしてか、暖かい光に満たされる心地がする。


「……楽しかった」


 それこそ己の限界を忘れて、共に歩みたいと渇望するほどに。

 しかしそれはあってはならないことだ。


 アダムは創造主の忠実で謙虚で誠実な従僕に過ぎない。それ以上を望めるような存在ではないと、何よりも自分自身に強く言い聞かせる。

 そっと両手を持ち上げると、どす黒い血塗れの包帯が目に入った。

 とうの昔に肉体は塵芥となり、かつての姿は見る影も無いというのに、これだけは、この傷だけは罪を忘れるなと痛み続けている。

 それこそ依代の肉に入っている間ですら。


 沈んだ気分の中、彼はとある言葉を思い出した。


 それは自分を召喚した今代のマスター、エヴリン・アウレリウスとの、二人だけの秘密のやりとりだった。




     × × ×




「あたたかいのみものを、もってきます」


 そう言って彼女の部屋から一歩踏み出した時だった。

 枕元にあるジャスミンの花の向こうから、清廉とした声が聞こえた。


「ねぇ、私のわがままを聞いてくれる?」


 少女は無言で振り返る。


「あなたには私がいなくなった後も、あの人の娘であって欲しいの」


 あの人が誰のことかは聞かずともわかった。


「勿論、あなたがその体を保てる時まででいいわ。それまでは、別にずっと隣にいなくてもいいから、あの人の家族でいてあげて」


 この世界の召喚において、悪魔側には制約が多い。

 まず煉獄にいるときのようには自在に力を使うことはできない。その上、力の強い悪魔ほど弱体化される。


 故にこの状況を長く続けるのは困難だと、エヴリンにはあらかじめ伝えてあった。


「……了解した。マスター」


 ふっと微笑んで、彼女は虚空を眺める。


「ねぇヴィー……アダム、私と初めてあった日のことを覚えてるかしら」


「ああ」


 今求められているのは娘としての自分ではなく、従者としてのアダムであろう。それがわかって、彼は本来の口調で返答した。


「忘れるはずもない」




 その日は曇り空だった。


 病院の廊下で、レグアが目を閉じて祈っている。彼は固く固く両手を握りしめた。

 不意に、弱々しい幼子の産声が耳に入る。

 思わず立ち上がって、彼は今か今かと時間を持て余した。


 しばらくすると病室から暗い表情の医師が出て来た。

 その宣告はあまりに重いものだった。



 しとしとと雨が降り始める。

 エヴリンは寝台に横になって、窓の外をぼうっと眺めていた。妊娠祝いで実家から送られてきた、マリアアザミのペンダントを握りしめる。

 泣きはらしたせいか彼女の瞼はぽってりと腫れている。


 外で馬の嘶きがした。

 杖をついて強引に痛む体を起こし、病院の裏門に目をやった。


 小さな幌馬車に瓶の入った箱が積まれていく。

 彼女も無知ではない。遠目ながらそれらが何かはわかった。


『……赤ちゃんを、探さなきゃ』


 その後どうしたのかは彼女も覚えていない。

 気がつけば小さな塊を抱きかかえて、よろよろと病院の裏庭まで歩いていた。

 杖をついても立つことすらままならない。


 不意につまずき、手のひらが花壇のイバラに刺さった。

 生理的に涙が溢れる。


 重たい頭の中に、嫁いだ先で知った詩が浮かび上がった。


『比翼の、鳥は息絶えて……連理の枝は枯れ落ちた。後戻りできる道は、ない。たとえ己を失っても、懐かしい声が、あなたを縛る。その名は——孤独の悪魔・アダム』


 白く光る魔術陣が彼女を守るように囲う。

 強くなっていた雨粒が急に当たらなくなった。


 ゆっくりと視線を上げれば、長身の怪人が自分に傘を差し出している。


『——十二の悪魔が首魁。孤独のアダム。ここに』


 その声は心根が揺さぶられるような安堵を促した。

 悪魔はおもむろに指を鳴らし、わずかではあるが彼女から痛みと疲労を取り除いた。


『マスター、あなたの願いは?』


『……この子を』


 エヴリンは泣きじゃくりながらそれを口にした。

 あまりにも自分勝手で欲望まみれの、真っ直ぐな願いを。



『この子を、生き返らせてっ、ください……』




 記憶の渦から舞い戻り、少女はそっと両目を開く。

 目の前の寝台ではエヴリンが静かに寝息を立てていた。今日はもう疲れたのだろう。


(……ごめんよ。叶えられなくて)


 この肉体には魂が無かった。魂が死んでいない者を、生き返らせることはできない。

 ましてや力の大半が削がれている状態で使える魔術は高が知れている。


 悩んだアダムは一つの妥協案を提示した。


『その子の体を借りて、それらしく生きる様子を見せることはできる。仮初めの夢をわずかな間、見せることならば』と。


 自分の召喚主がそう長くないと、理解した上での提案だった。


「おやすみなさいエヴリン。あなたは私の知る中で二番目に素直で素敵な人だよ」


 優しく布団をかけ直して、今度こそ部屋を後にしようとした時、背後から声をかけられた。


「……一番目はくれないのね」


(レグア)じゃないからね」


 くすくすと笑う声が聞こえた。


「おやすみヴィー。良い夢を」




     × × ×




 彼女は孤独が久々に出会った人間らしい人間だった。


 それでも一番目は譲れないのだ。

 彼が彼である限り、絶対に欠けてはならない愛しい人がいる。


「色んな物を見て、たくさんの人の子に会った。君に伝えたら、きっと喜んでくれただろうね。会いたいよ……イヴ」


 アダムは一人、暗闇の中で膝を抱きかかえた。




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