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第二話・悪魔の爪痕



「そう怖がらなくてもいい」


 優しい声音で、男は少女の背中を押した。


「女のお前が当主を継ぐには必要なことなんだよ……わかってくれ。私はお前が心配なんだ」


「お父様……」


 彼女は不安そうに瞳を揺らしている。


 二人の前には布のかかった大きな鳥籠が鎮座していた。


「大丈夫。この私がついてるからね」


 そう微笑むと父親は視線を籠の方に移した。

 正確にはその中身に。


「破壊の悪魔に命じる。私からこの子へ『契約の継承』を」


 布の隙間から、鋭い黄緑の目が光った。




 不意に、黒髪の少年の足が止まった。

 天気に恵まれた快晴の下、三人は並んで森の中を歩いている。


 彼が顔を向けた先には異様な光景が広がっていた。


 円形の大地の中心を、重力に逆らいながら小川が流れている。

 御伽噺の舞台のような景色に、銀髪の少女は感嘆の声をこぼした。


「これは風で岩が削れたの? でも川が……」


 小首を傾げる彼女に、シオンが声をかけた。


「アニタはどっちだと思う?」


 二択を問う聞き方に、一瞬間の抜けた表情をしたアニタだったが、すぐに考え始めた。

 そう、この世界でこうした異常を起こせる存在は二種類しか存在しない。


「うーん。精霊は三次元に顕現する上で、自然を媒介にしてるのよね? だから悪戯に自然そのものを乱すのは好まない……とすると、悪魔かな」


 少年はにぱっと口角を上げた。


「俺もそう思うぞ」


 キャンプ地の丘を目指しながら、シオンは笑顔で説明した。


「ああいうのは『爪痕』って呼ばれてるんだ。悪魔を召喚したマスターが命令して作り出した、悪魔が煉獄に帰っても残っちまう、人為的な災害だ」


「へー」


 隣を歩いていた青年、オリバーが軽く相槌を打つ。


「あれ? オリバーもこういうの初めて見たのか?」


「さあ、覚えてないな」


 大方、旅をしてる最中そこまで周囲の風景を見ていなかったのだろう。

 そのような余裕も興味もこれまで彼には無かったのだ。


 丘の上で簡易的な雨風をしのげるテントを組み立て、各々好きなようにくつろぎ始めた。


 シオンは手帳の始めにある地図に、先ほどの小川の位置をバツ印で書き込む。

 こうした小さな情報も悪魔の手がかりに成り得るからだ。


 万年筆のキャップを閉める。カチリと小気味良い音が鳴った。


 貰い物なのだがすっかり彼の手に馴染んでいる。


『ほら、これ。欲しがってたでしょう?』


「……」


 不意に耳の奥で声がする。


 燃えるような緋色の髪。

 そればかりが目に焼き付いて離れない。


『シオン、ここにいて。何かあったら、すぐに迎えに来るからね』


 決して忘れてはいけない人。

 その声音も、表情も、手の温もりも、寸分違わずに思い出せる。


 なのにシオンの胸にはなんの感情も浮かばない。

 愛せばいいのか、怒ればいいのか、悲しめばいいのか、憎めばいいのか、少年には何もわからない。


 ——ふわりと、優しい花の香りがした。


 背中側からじわじわと柔らかい感触が伝わる。


 振り向けばそこにはアニタがいた。

 ぴったり背中を合わせて、彼女は破れた布を繕っていた。


「……アニタ?」


「あ、あのね? シオンが寒そうだったから……ってこれ理由になってないね!? ごめん今どく!」


「ま、待ってくれ」


 気づかない内に表情が固まっていたようで口角がひくつく。少年はそっと慎重に微笑んだ。


「ありがとう」


 空っぽだった胸の中には、春のひなたのような光が差し込んでいた。

 惜しむらくは彼女がくれたそれを、自分が返せている気がしないことだ。


 それでも少女は嬉しそうに頬を赤くした。


「どういたしまして」



 オリバーの声がする。


「二人とも。昼ご飯できたよ」


「ひゃっふーい!」


 シオンは上機嫌で立ち上がり、小走りで焚き火に向かった。


 ふと麻袋の上の手帳がアニタの目に入る。

 なんとなく持ち上げて見てみれば、各所の地図、ひいては帝国全土の地図が載っていた。


(海の向こうにも、色んな人達がいるんだよね……)


 そっと目を閉じて呟く。


「行ってみたいな」


 その時がもし来るのならば、どうかまた四人で。


 そんなことを願いながら彼女は仲間の元へ走った。




 早朝。

 三人が少し開けた道を歩いていると、一つの人影が現れた。


 それは切り株に腰掛けている老婆だった。

 こくりこくりと船を漕ぎ、手には杖を持っている。


「おーい、風邪引くぞー」


「…………」


「婆さん? 大丈夫か?」


「……ぉぁ」


「おん?」


「ほぁあぁぁあああ!!」


「んにゃぁああああ!?」


 唐突に目を見開き絶叫した老婆に、流石にシオンの肩が跳ねた。


(シオン……んにゃって言ってる……変わんないなぁ)


(猫みたいな驚き方。普段は犬みたいなのに)


 背後からの穏やかな二つの視線に気がついたらしく、少年は気まずそうに視線を泳がせた。


 老婆は厳しい視線で三人を見渡す。


「おい。あんた達」


「ど、どうしかしたか?」


「この先の森に入るつもりか」


 彼女が杖で示した先には道が続いていた。

 古びた石畳のしっかりした街道だ。

 他はあったとしても獣道であろう。


「ああ……隣の領邦まで抜けたいんだ」


「ならぬ!」


「へ?」


「行ってはならぬ。バケモノがいる」


 至極真面目な様子で、彼女はそう口にした。


 それを茶化すことはせずに、黒髪の少年はすっと目を細めた。


「何体だ?」


「あたしが聞いた噂が正しければ、一体だけさ」


(一体なら、最悪俺が囮になれるな)


 そう考えて、シオンはにっと笑ってみせた。


「わかった。情報提供感謝するぞ」


 そのまま道を進もうとする彼らのことを、老婆はまっすぐな瞳で見つめ続けていた。




 薄暗い森を抜けると華やかな音楽が聞こえてきた。


 急に開けた空間に出たと思えば、何人もの人々が輪になって踊っている。

 その脇で即席の楽器による演奏会が行われている。

 彼らの表情はどれも楽しげだった。


 不意に一人の少年がこちらに気がついた。


「あ! お客人だ!」


 一斉に笑顔の波が押し寄せてくる。


 アニタとオリバーに盾にされたシオンは、困り顔で口を開いた。


「あー、こんにちは。旅の者なんですが、皆さん何を?」


「もう冬支度の季節だからね! 待ち受ける重労働の前に憂さ晴らしってわけさぁ」


「なるほど……お祭りですか」


「そういうこった。もうじき雪も降って歩きは辛くなる。存分に泊まっていきなさい」


 慈しむかのような声に、少年少女は遠慮がちに頷いた。


 ここは総勢三十名程の小さな集落だった。


 村の案内役として紹介されたのはあの少年だった。

 名前はシャン。七歳だそうだ。

 どうやら彼が村で一番若く、同年代の子はいないようだった。


 貸してもらった物置でシオンはそれとなく会話を振った。


「ここに来る前、この村に化け物がいるって忠告されたんだが。熊とか出るのか?」


「え? ううん。聞いたことないよ」


 シャンは朗らかな表情で両手を広げた。


「うちの村にいるのは神様さ!」


 それは憂いの欠片もない顔だった。



 「神様」と言って案内されたのは一つの池であった。


 村の端にある崖の上から見下ろすとそれは見えた。

 少年曰く、月に一度生贄を崖から落とし、その池に落とすのだという。


 昔からある決まり事で今月は自分の番なのだと、彼は嬉しそうに笑っていた。




 村中の窓が黒いカーテンで覆われる頃、三人は物置で顔を突き合わせていた。


「なんか……変ですよね」


「確かに、この村は妙な点が多いな」


「正直、気持ち悪いから早く出たいよ」


 シオンの観察した限りでは、ここ村人はある一つの条件がない限り、どこか虚空を見つめて淡々と日常業務を行なっている。

 話しかけても返事は無かった。


 アニタは調理場を借りた時、彼らの料理を味見させてもらったのだが、それらは無味、強いて言うなれば土の味がしたという。


 オリバーはそれとなく村人と交流した際に脈を測り、そしてとあることを確信していた。


「おそらく大半が、生きた人間じゃないね。体臭や心音がしない」


「おん……生きてるのはあいつ一人か」


「これが、あのお婆さんが言ってたばけもののこと?」


「まぁ、なんにせよ一番奇妙なのは——まだ昼が終わらないってことだな」


 黒いカーテンの向こう側では、変わらず陽光が降り注いでいる。

 来るべき夜が来ていないのだ。


 地理的に考えても不可思議な事象である。


 不意に来訪者の声がした。


 警戒しながら扉を開くと、朝方に笛を吹いていた老人が立っていた。

 彼は急にシオンの両肩を掴み、無表情のまま口を開いた。


「頼む……明日の儀式の前に、あんたらシャンを連れて逃げ——」


 言葉はそこで途切れた。


 崩れ落ちる体に、シオンは思わず腕を伸ばす。

 しかし支えることは叶わなかった。


 老人の日焼けした肌は、瞬時にどろりとした粘着性のある液体に変わってしまった。


 少年の指の間を、人だった、人の形だった物がこぼれ落ちて行った。



 その様子に気づくだろう距離にいながら、村人達は粛々と日常を続けている。

 視線さえ、投げかけることはない。


「ラフル爺!」


 遠くからシャンが駆け寄って来た。

 その途端、人々は驚きの声をあげ始めた。


「ラフルさん!?」


「どうしたんだいいったい」


「誰がお医者様を!」


 それはシオンには演技にも見えたし、本気で悲しんでいるようにも見えた。


「わからねぇ……」


 彼はただ、何を言うでもなくその場に立ち尽くしていた。


 慌ててアニタが少年の手を引き室内に戻す。


 オリバーは冷静に周囲を見渡し、鋭く目を細めた。


(……男の溶けた後に残ってる欠片。あれは……骨?)


 村人は当然のように同胞の消失を嘆き悲しんでいた。




 次の日の朝、小さな物置にシャンがやって来た。


「お客人なんて久しぶりだよ、旅の無事を祈ってる」


「ありがとうシャン」


 彼は鹿の角の冠を被り、髪の毛と同じ亜麻色のローブで身を隠している。


「生贄になるのか?」


「うん……本当はもっと早いはずだったんだけど」


 ふにゃりと浮かべた笑顔には、初めて見る彼の不安が漂っていた。


「あのね、お願いがあるんだ」


「おん? なんだ」


「隣村に、ロゼって子がいるんだ。俺の幼馴染……あの、俺は元気だったよって……最近畑が忙しくて会えてないから」


「勿論いいぞ! 任せとけ」


 シャンはその返事を聞くと、心底嬉しそうにもじもじと照れていた。




 崖の目前で少年が親しい人に別れの挨拶をする。


「行ってきます、アニー」


「ええ。しっかり神様にお仕えするのよ」


 嬉しそうに笑った女性の顔がビキリと歪む。


「ぁ……ぁだ、メェ」


「え?」


「にげナさ、ぃ、ハや、はや、く」


 彼女の台詞はそこで止まった。


 粘着質な液体を一身に被ったシャンは、ぽかんとした顔をしていた。


「アニー?」


 周囲の村人は無表情で顔を伏せている。


 シオンは一つの結論に至り、顔を跳ね上げた。


「……生贄に反対したり逃がそうとすると、消滅させられる?」


 隣で聞いていた男性がそっと頷いた。

 おもむろにその人は地面に文字を書き始めた。


『半分正解』


『文字が書けるのはもう僕だけ』


『よそ者 シャンをにがせる』


『早く』


『かいぶつが』


『もじ で もだ め』


 ぐしゃりと広がった透明な液体の中に、白い塊が落ちていた。


 シオンは慎重にそれを拾い上げた。まじまじと見つめて呟く。


「仙骨?」


 その時、甲高い子供の叫び声が響いた。

 慌ててそちらを向くと、信じがたい光景が広がっていた。


 灰色の触手がシャンのことを拘束し、崖から落とそうとしている。


 その触手はどうやら崖の下の池から伸びていた。


「シャンくん!」


 銀髪の少女が素早く駆け寄る。


 シオンとオリバーが気づいた時にはもう遅く、二人分の影が池へと落下した。


「アニタ!!」



 地面へと引き寄せられるような感覚の中、アニタは幼い少年を抱きしめた。

 よほど驚いたのだろう、気絶している。


(大丈夫。わたしがクッションになるから)


 華玉がどれほど丈夫なのか、延々と暴行を加えられる母を見せられ続けたから知っている。


 寿命と飢え、そして心臓に杭を三度打つ以外で彼らは殺せない。


 これぐらいの高さなら骨折で済むはずだ。


 池を強く睨みつけた矢先、二人は水の円柱に飲み込まれた。


(この池そのものが、ばけもの?)


 こぽっと軽い音を立ててシャンが気泡を吐いた。


(だめ、ばけものだとかなんだっていい! これ以上……何もできずに誰かを悼むのは、嫌! 絶対に嫌!!)


 両拳をきつく握り締める。


 そんな少女の顔を半分覆う、ブルーサファイアの兜が出現した。



 この世には落とし子と言われる存在がいる。


 精霊、悪魔、あるいは神。そんな存在が生み出し、身勝手に地上に捨てた物体。


 薄くではあるが自我を有しており、確固たる人格を形成するのは稀である。


 その「池」はそういうものだった。

 命じられた通りに動き、貪り、気晴らしに遊んでいただけだ。


 それでも不思議に思わずにはいられない。


 ——あの閃光は一体なんだ?




 轟音が響き渡る。

 水蒸気がそこら中に蔓延した。


 崖をロープで降りていたシオンにも、崖の上でロープの端を支えるオリバーも、そして呆けた表情の村人たちもそれをただ眺めていた。


「っ! アニタ! シャン!」


 滑るように岩肌を下り少年は二人に駆け寄る。


 彼らは水のなくなったくぼみに横たわっていた。どちらも目立った外傷は見当たらない。

 ほっと胸をなで下ろして、シオンは彼女を抱きしめた。


「良かった……」



 二人をロープで持ち上げ崖を上った先で、シオンは目を見開いた。


 村の人々は皆、半透明の朧げな姿になっていたからだ。


 中央にいる男性が控えめに喋り始める。


『我々の話を、聞いていただいても?』


 彼らの正体に気がついたシオンは、真剣な表情で応えた。


「それが、せめてもの弔いになるのなら」


 亡霊達は穏やかに微笑んだ。




     × × ×




 遡ること六十年前。


 この村は平凡だった。周辺地域との交流もそこそこで、村人が助け合いながら慎ましく暮らしていた。


 勿論複数の人が暮らす以上衝突は避けられない。

 それでも極力平和的に解決しようと、原則話し合いで互いの妥協点を探り合う……静かな村だった。


 一つ心配があると言えば、少し前から子供が生まれなくなったことだ。


 これ以上は他の村落と合併した方が良いのでは、などと話し合っていた矢先、一人の男の子が産まれた。


 それはそれは村中で喜んで、季節外れなお祭りまで開催しようと決めた。


 だが悲しいかな父親は妻のために滋養の付くものをと森に入って猪に殺され、母親は後日出血多量で亡くなった。


 村の人々は考えた末に、彼を村の子として育てることにした。



 やがてシャンと名付けられた少年はすくすくと成長した。

 塩を売りに来る隣村の商人の娘・ロゼと親しくなり、二人は会うたびに一緒に遊んでいた。


 全てが変わってしまったその日は、ロゼがシャンの家に泊まっていた。


 静かな夕刻、不意に血を吐くような絶叫が響き渡る。

 急いで村民が広場に行くと、体中焼けただれた男がのたうち回っていた。


 すぐに原因はわかった。

 唐突に呻き、地面に倒れた人が叫んだ。


「酸だ! 酸の雨が降ってる! 全員家に逃げろ!!」


 一同は混乱し、お互いを突き飛ばしながら逃げた。


 子供二人は保護者だったアニーに促され、屋内の藁の中へと隠された。

 永遠に続くかと思われた絶命の咆哮は段々と薄れた。


 恐る恐るシャンが藁から出ると、自分達の上に覆いかぶさった彼女が眼に映る。


 背中が酸で焼け、悲鳴を漏らさないように噛み締めた唇は切れている。


「あにぃ……」


 ごつごつした広い手のひらに擦り寄る。それはまだ温かかった。


 二人はお互い手を繋いで、泣きじゃくりながら外へ出た。

 雨はもう止んでいた。


 そこら中、酸と血の匂いが充満している。


 吐きそうになりながら、シャンはロゼの手を離した。


「ロゼの村の人達を呼んで来て! こんなのおかしいよ」


「う、うん、わかった……シャンは?」


「生きてる人を、探してくる」


 零れる涙を拭う暇もなく、彼は必死に自分の「家族」の名前を叫んだ。


 返事をしたのは、全く知らぬ誰かの声だった。


「ん〜? 生き残りじゃ〜ん……まじかよ。気分下がるわぁ」


 それは上空から聞こえた。見上げれば、一人の男が立っている。

 否、人体浮遊などあり得ない。


 乗っているのだ。見たこともない何かに。


「どうするんだよ怠惰。俺お前にここら一体の人間全部消せって言ったんだぜ?」


 それは透き通った水色のオニイトマキエイだった。

 泳ぐように男を乗せて空中を移動している。


 理解の追いつかない少年に脳に、残酷にも真実が知らされる。


「やっと昨日隣の村で実験してさ〜、この規模の村を潰す適正量がわかったんじゃん! どーしてくれんの?」


「……ロゼの、村まで……?」


「んんん〜? 何? 喋る勇気あったんだぁチビガキ」


「ど、どうしてこんなことをするんだ!」


 両膝を震わせながら、シャンは懸命に声を張り上げた。


「どうしてって……」


 男は退屈そうに首を鳴らした。


「新しい服は見せびらかしたいでしょ? それと一緒だよ。こーれーも」


 理解できない思考に、少年は膝から崩れ落ちた。

 これまで彼が重んじてきた話し合いが通じる相手では無いと、悟ってしまったのだ。


「さて、生き残れて幸運で賞としてぇ、君にはこいつをあげよう!」


 エイの口から、ぶにゅりと灰色の塊が落ちてきた。


「それから逃げきれたら君の勝ち。負けたら君は餌。単純なルールだろ?」


 あくび交じりにそう言った男は、ひどく退屈そうだった。




     × × ×




 朧げな男性は一旦目を閉じてから、再び話し始めた。


『我々は幽霊と言うべき状態でした。だから怪物に声が届いた時は、ひどく驚きました。あれは交換条件を出してきました。生き残りであるその子を差し出すか、魂だけの存在となった我々全員があれに隷属し、延々と殺され続ける娯楽を提供するか』


 周囲の誰もが厳しい表情で追想している。


『満場一致で後者を選びました。我々はすでに死んでいた。何を厭う必要がありましょう』


 いつからか起きて話を聞いていたアニタは、愕然とした表情をしている。

 彼女を支えながら、オリバーは理解できないと首を捻った。


「……二十四」


 ぽつりとシオンが呟く。


「六十年前で月に一回、かつ全員同時に今限界が来てるってことは、各二十四回必要だ」


 合っているのか覚えていないのか、亡霊達は困ったように微笑んだ。


 少年は射るような眼差しで見回す。


「あんた達、それだけ死に続けたのか」


 死の苦しみを、痛みを、怒りを。幾度と無く繰り返す。それも全て一人のために。

 その場にいる誰一人、不満も何もない顔で笑っていた。


『……まさか後者を選んでも、シャンが洗脳された上でこの場所に縛り付けられるとは聞いていませんでしたが』


「洗脳?」


『ええ、シャンは一日以上記憶を保持できないようにされてしまった。だから死んだ人が次の日生きていても驚かない。七歳の誕生日であの子の時間は止まってるのです。記憶も、体も』


『きっと全員の食べ応えが無くなったら、すぐにでもシャンを食うつもりだったのでしょう。かろうじて自我が残っている我々の目の前で』


『……でも、もうあれはいない。彼は生者としてここからもう一度生きられる』


『私達はその子を守りたかった。でも』


 アニーだったらしい魂の欠片が、悲しそうに眉尻を下げた。


『結局、守ってあげられなかったわ』


「——みなさんは!」


 銀髪の少女が力強く立ち上がった。ふらついてもなお地面を踏みしめる。


「今日までこの子を守りきりました! それは間違いなんかじゃない!」


 彼女は慈しむように眉尻を下げた。


『ありがとう。優しいお嬢さん。どうか、泣かないでちょうだい。別嬪さんが台無しよ?』


 少女の足元に硬質な宝石の粒がいくつも落ちて行く。

 アニタの背中をそっとさすって、シオンは静かな声音で問いかけた。


「それだけで、本当に良いんだな」


 男性は確信し、ふと微笑んだ。


 ——ああこの少年は……我々全員の人生を記録し残してみせると、本気で思っている。


 その熱意に応えるには些か時間が足りないようだった。


 じわりと夕焼ける空のように、彼らの輪郭がほどけて行く。

 地面に仰向けになっていた少年がばっと身を跳ね起こした。

 掠れて行く彼らの方へと走り出す。


「待って! なんで、やっと、やっと思い出したんだ! 頼むよ、待って! ありがとうぐらい言わせてくれよ! なぁ!」


『……シャン』


 死者が残せるものなど高が知れている。



『どうか、元気で』



 だから彼らは最後の思い出に、優しい呪いを残して行った。




 少年の手を引いて彼らは森の道を進む。

 あの老婆は変わらずそこにいた。きっとずっと待っていたのだろう。


 こちらに気がつくと両目を大きく開けて、かすかに唇を震わせた。


 それが一つの名前を紡ぐ前に、少年は亜麻色の髪を揺らして駆け寄った。


「ロゼ!」


「し、ぁ……シャン!」


 しかと抱き合って、彼らは互いに嗚咽をこぼした。


「夢、だよね、ごめんよ。ごめん。何度森に入っても、入口に戻されちまって、む、村に入ることすらできなくて」


「夢じゃない。夢じゃないんだよ。ロゼ」


 ようやく再会した二人の後方で、アニタが今回の無茶な行動について説教されていた。




 深々と老婆、ロゼは頭を下げる。


「本当に何とお礼を言えば……」


「俺たちはひっそりと生きていくよ。俺の正体がバレたら、大騒動だ」


「それもそうだ! それじゃあ二人共、じゃあな」


「シャンさん、ロゼさん。帰り道お気をつけて」


 シオンとアニタは口々に労いの言葉をかける。

 オリバーは小さく、ほんのちょっぴりだけ、敬意を込めて頭を下げた。



 次なる領邦——マクガーン領を目指す一行を、ロゼとシャンは静かに見守った。


 ようやく出会えた二人は、きっともう離れはしないだろう。


 こんどこそ、死が彼らを分かつまで。




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