第十九話・聖人と孤独の落とし子
教会の一室に明かりが差し込む。
そこに広がっているのは沈黙だった。
しかし重たくは無く、気心の知れた者の間に流れる穏やかな静けさである。
そんな大きな部屋の中で、二つの人影が並んでいる。
パイプオルガンにステンドグラス、そして卓上にはサバルトーラ教の聖典。
黒い教衣に身を包んだ青年は、祈っているのか目を閉じている。
丁寧に結い上げられた青髪には清潔感があった。
その様子を背後で見つめる長身は、この状況においてはかなり異質な存在だった。
教衣とは別にペストマスクとシルクハットを身につけているそれは全てが白い。
揺れ動く手足の裾からは、解けかけた包帯の先端が覗いている。
どこか無機質な雰囲気のそれはゆっくりと首を傾けた。
応答するように青年が目を開く。
「ああ、もう時間ですか」
よく通る澄んだ声色が部屋に響き渡った。
華奢な指で聖典の表紙を撫でて、彼はその瞳に深い慈愛を滲ませる。
「行きましょうか。アダム」
純白の塊は、うやうやしく頭を下げた。
荷物の紛失に戸惑うシオンをなだめて、ヴィーは麻袋の中を覗いた。
「……サバルトーラの聖典に、修道士の身分証?」
「取り違えられたみたいだねぇ」
「多分隣にいた男性だよね。その人ならさっき馬車に乗ったばかりだから、すぐ追いつくよ」
「おぉん……」
わかりやすく気落ちする少年の肩を軽く叩き、一行は馬車に乗り込んだ。
運よく身分証にあった修道院まではそう遠く無かった。
大きなステンドグラスの窓からするに数世紀は昔の建築物だろう。
実際壁などが劣化してひび割れている。
無言の礼拝の週なのか、修道士達は手話でしきりに何か話していた。
「じゃあちょっと聞いてくるな。みんなは近くで待っててくれ」
人気が少なくなるのを見計らい、シオンは一人の青年に声をかけた。
この修道院の規定なのか黒いヴェールで顔の上半分を隠している。
「すいません、こちらの修道士の方と荷物の取り違えがあったようなのですが……」
少年は手にしていた麻袋を開いて身分証を取り出す。
それを見た青年は微笑み、ゆっくりと口を開いた。
「良かった。先ほど貴方の荷物をお預かりしたところだったんです」
「え?」
ぽかんと口を開けるシオンに青年は続ける。
「私は今日ここに招かれて来ただけで、ここの修道士ではありませんが、場所は知っています。今取って来ますよ」
そう言って彼はシオンから丁寧な所作で麻袋を受け取った。
規則的な足音を立てながら建物の中に入っていく。
穏やかな雰囲気に呆気に取られていた少年は慌ててその背中を追った。
「何かありましたか?」
「いや大切な物が入ってるので、早く自分で確かめたくて」
「そうでしたか。見つかってよかったですね」
ちらりと隣の青年を見上げる。
深い青色の長髪はまとめ上げられ、対照的な白いうなじが覗いている。
腰や手首は同性のシオンから見ても心配になるほどか細い。
服の上からでもわずかに腰骨が浮いているのがわかる。
黒い教衣から察するにアン派の聖職者だろう。
(客人が民間人の案内してるけど、良いのか?)
周囲の修道士は何やら慌ただしくしており、こちらを気にするそぶりすら無い。
そうこうしている内に二人は小さな部屋に着いた。
青年はヴェールを外し、机の上にあった袋を手にとった。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます!」
蜂蜜を丸くこぼしたような双眸を細め、彼は言葉を続けた。
「治安維持隊は呼んでいません」
それは後に警察と呼ばれるようになる、軍部から分化した組織である。
犯罪者の捜索と逮捕も、治安維持隊の管轄となっている。
「……どういうことでしょう」
「持ち主の名前や住所が無いか、少し中身を見てしまいました。申し訳ありません」
眉尻を下げながら彼は小首を傾げた。
自分の研究手帳や原稿を見られたのだと知り、シオンは麻袋を強く抱きしめる。
「……私には法に従う義務がありますが、あの法律を疑問視しているのもまた事実。次お会いした際、あなたの違法行為を目にしたら、その時は通報します」
一度だけ見逃すと言っているのだと気がつき、少年は青年の目をまじまじと見た。
嘘を言っている様子は無い。
シオンはゆっくりと深く頭を下げた。
「感謝します」
その時、背後から急に呼びかける者があった。
「アン司祭! そろそろ馬車の時間です」
「わかりました。先に行っててください。私は次のに乗りますから」
思わず少年はがばっと顔を上げる。
——アン司祭。その呼び方をされる人物は世界に一人しかいない。
「おや、どうかなさいましたか?」
サバルトーラ教アン派の最高司祭、その人である。
アン派は歴史に残る大きな事件を起こした。
そのため当然一般の信徒の信頼は急激に落ちる、かと思われた。
そんな中、他二派の最高司祭、そして最後の司教によって、一人の青年が次の最高司祭に選ばれた。
彼は自分を捨ててでも役目を全うすると誓い、元あった名前を捨てたのだ。
そして慈善活動に積極的に乗り出し、公権力との離別を決め、他宗教への寛容な態度を保ちながら、宗教理念に従い多くの学問を修めた。
そんな彼に会った人間は、口を揃えてあれこそが聖人だと言う。
「……アン司祭」
「? ああ、名乗っていませんでしたね。ごめんなさい」
どうやらシオンの荷物を返すのを優先して忘れていただけらしい。
浮世離れした空気感にシオンは眉を寄せた。
(こういう人は……苦手だ)
「ひぃっ!」
司祭を呼びに来た者が廊下を走り去っていく。
その怯えた視線の先から白い影がのそのそと現れた。
ゆうに二メートルはあるそれに青年は声をかけた。
「おや? 迎えに来てくれたんですね、アダム」
それに応えているのか、長身の塊は文字通り首を曲げた。
司祭はつま先を立ててシルクハットの側面を撫でる。
その様子を見て、シオンは紫のナイフに触れた。
ナイフは光っていなかった。
少年の様子に司祭は優しく微笑む。
「仮にアダムと呼んでいるだけです。正確には、孤独のアダムが帝国の初代皇帝に残した魔術人形です。アウレリウス家から先代の最高司祭に送られたそうですよ」
「魔術人形……」
それは人形と呼ぶには生々しく動いている。
しかし近寄ってみると微かに歯車の音が聞こえた。
恐る恐る触れると、ぬいぐるみのような柔らかい綿の感触がした。
「それじゃあ俺はこれで失礼します」
「ええ、お気をつけて」
せっかくなので修道院の中を一緒に回り、礼拝堂の前で別れることになった。
礼拝堂にはステンドグラスの窓があり、ひときわ大きい物には、アダムとイヴが蛇に唆されて禁断の実を食べる場面が描かれている。
不意に粗雑な足音が鳴った。
「ア、アン司祭!」
どうやらここの修道士のようだ。
「不肖ながら懺悔を聞いていただきたく」
「構いませんよ」
何気無くそちらを伺ってシオンは、修道士が袖から何かを取り出すのが見えた。
その何かが鋭い刃物だとわかった瞬間、少年は両者の間に割り込んでいた。
異物が皮膚を貫き肉にめり込む。
頭が警鐘を鳴らす中、少年は間抜け顔の暗殺者を蹴飛ばした。
その拍子に、黒曜石のナイフが腰から落ち、地面を滑った。
「しまっ、た」
倒れ込んだ体はすんでで司祭に抱きとめられた。
「しっかり! 誰か! 早く来てください!」
よろめいていた男が叫び散らす。
「あ、悪魔をし、従えるような奴は、聖人に相応しくない!」
少年は霞む視界で、純白の塊が天井から落ちてくるのを見た。
法螺貝のような重々しい叫びが響く。
魔術人形には意志があった。
それがなぜどのように生じたのかはわからないが、いつだったかは覚えている。
他でもないとある青年に出会った時だ。
『私が次のアン派の最高司祭です。どうぞよろしく』
まだ物に過ぎなかった己に、彼は笑顔を浮かべた。
手を伸ばし、優しく撫でてくれた。
彼に尽くそうと決めた理由はそれで十分だった。
ごきりと嫌な音が響き渡る。
「アダム!!」
珍しく大声を出す司祭に、魔術人形は首を傾げた。
真剣な表情で青年は言う。
「暴力はいけません!」
渋々人形は暗殺犯を解放した。
天井から宙ぶらりんになっていた体が、背中から地面に叩きつけられた。
咳き込む背をこっそり蹴飛ばす。
司祭は再び微笑んで口を開いた。
「守ってくれてありがとう。でも今は彼を病院に…………?」
司祭が振り返ると、そこには横たわっていたはずの少年も、彼の落としたナイフも無く、ただ礼拝堂の小窓だけが開いていた。
修道院の近くの喫茶店で、アニタはココアを啜る。
「シオンまだかな……」
「ヴィーちゃんが迎えに行ったから、すぐ戻ってくるよ」
「そう、ですよね」
ふと、二人は空を仰いだ。
薄く雲が広がり始めている。
「雨の匂い?」
「うん、これは……雷雨が来るね」




