第十二話・ひとりとひとりの乾杯
オリバーは珍しく困惑していた。
瞼を閉じても、一向に眠気が訪れない。
いつもは警戒したままでも十分に睡眠を取ることができるのに。
(どうしたんだろう)
枕元のエラムを起こさないように、彼はそろりと立ち上がる。
安い宿屋の床板を軋ませて、夜風が吹き付ける裏庭に出た。
今は九月。
季節の区分でいうなら秋の始まりだが、昼間はまだまだ蒸し暑い日が多い。
しかし夜間ともなると、涼しい風が頬を撫でる。
建物の影に座り込んだオリバーの耳に、聞き覚えのある軽やかな足音が聞こえてきた。
足音の主は彼に気がつき軽く片手を上げた。
「よぉ、起きてたのか」
「シオン、君も?」
「おん。隣いいか?」
「ああ、勿論」
黒髪の少年はにぱっと笑って、青年の隣に腰を下ろす。
近すぎないよう、拳二つ分の間が空けてある。
青年はそっと眉根を寄せた。
「……なんだかんだ、一定の距離は保つよね」
「おん? 何が?」
「なんでもないよ」
不意にシオンの持っているガラス瓶が揺れ、中の液体がちゃぷちゃぷと音を立てた。
「それ何?」
「リンゴ酢。今日日雇いで働いたところのおっさんがくれたんだ。牛乳で割ったら美味いって言われたからやってみたぞ!」
「ふぅん」
興味があるのか無いのかわからない間延びした返事。
それを気にかける様子も無く、シオンは「ちょっと持っててくれ」と瓶を押し付けて宿屋に戻ると、すぐにコップを二つ持って来た。
慎重に少量ずつ注いで手渡す。
「乾杯!」
「かんぱい?」
「こう言いながら、コップを持ち上げて飲むんだ。コップをぶつけるかどうかは文化によって違う」
「へぇ」
「んじゃあ、もう一回やってみるか」
「わかった」
『乾杯』
かち合ったコップの無機質な音が、何故かオリバーには温かく感じた。
口にした飲料はとろりと舌の上を流れる。まろやかな酸味が広がった。
「……ヨーグルトみたいだね。悪くない」
「結構いけるな。俺は蜂蜜足しても好きかもしれねぇ」
「甘党だなぁ」
飲み物を注ぎ足しながら二人は会話を続けた。
喋っていたのは主にシオンだが、時折オリバーからも思い出したように話題がふられた。
「この前、ヴィーちゃんがアニタちゃんに料理を習ってたよ」
「ええ何それ……見たかった」
「生肉を切る時、ヴィーちゃんの全身が震えてた」
「なんでだ?」
深夜になり、宿の周りからめっきり人気が消える。
空のコップと瓶を持って、少年は両腕を伸ばした。
「俺はそろそろ寝るかな。オリバーは?」
「僕も戻るよ」
まだ幼さの残る背を見て、オリバーは目を細めた。
人類亜種であるアニタはともかく、シオンやヴィーはただの人間だ。
人間というだけで、オリバーは平等に公平に公正にその実存在の全てを見下す。
見下しているという自覚ならある。
言ってしまえば、蔑む対象以上の関心は存在しないはずだ。
虫に全く好奇心を揺さぶられない人が、色とりどりの蝶に囲まれたとしても、それらの模様の違いや大小は気にしない。
気にするという発想や感覚がない。
しかしその群の中に、彼の琴線に触れる蝶々がいた。
だからそれらを観察することにした。
初めて味わった感情を理解するために。
言ってしまえばそれだけのこと。
それを特別扱いというのだと、オリバー自身が理解するのはもう少し先のことだ。
今わかるのは、自分の瞼が重たいという事実だけだった。




