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第十一話・墓前の別れ



 とある館の一室で、白髪の多い中年男性が印字機を叩いている。

 軽いタイピング音に合わせて文字列が伸びていく。

 一度手を止め、凝り固まった肩を回してから、男は紅茶を啜った。


 空になったティーカップを机に置くと、控えめなノックが響いた。


「どうした」


「失礼いたします。お嬢様がご友人を連れてお帰りになられました」


「ヴァリアモルテが?」


 それは彼にとって、大変意外な知らせであった。

 記憶が確かなら帰宅を知らせる手紙は来ていない。筆まめな彼女にしては珍しいことだ。


 男性はゆっくりと立ち上がり、窓から庭園を見下ろしす。


 そこには丁寧に手入れされている一つの小さな墓があった。


「……夕食を共にと、伝えてくれ」


「かしこまりました」


 使用人の足音は遠ざかっていった。

 ヴィーの父、当主レグア・アウレリウスは再び椅子に腰掛ける。


 おもむろにティーカップを持ち上げ口をつけたところで、それが空であったことを思い出した。




 一方の娘の方は、来客用の寝室に旅の仲間を案内していた。


 不満げに両頬を膨らませてシオンが抗議する。


「なんでもっと早くに言ってくれなかったんだ? 色々取材したのに!」


「怒るところはそこなのね」


「本当にこの部屋借りていいのかい?」


「ええ、余ってるぐらいだもの」


 扉の向こうからアニタがそろそろと顔を覗かせる。


「あの……わたしはシオンとオリバーさんと同じ部屋でも……」


「ダーメ」


「あぅぅ」


 ヴィーは少女の華奢な両肩を掴み、がくがくと揺さぶった。


「良いこと? 確かにこの二人なら間違いが起こることは無いでしょう。でも、ダメなものはダメ! 警戒心と危機管理は大切よ」


「は、はい!」


 二人を横目にオリバーはいつもの笑顔で口を開いた。


「……あれアニタちゃん『間違い』の意味わかってる?」


「……絶対わかってねぇ」


 男衆が割り当てられた部屋には高価な調度品が多数見受けられた。

 しかし当主の趣味なのか過度な装飾は無く、洗練された印象を受ける。


 どちらの寝台で寝るかじゃんけんで決めたところで、ふとシオンがヴィーに話しかけた。


「なぁ、台所を借りることってできるか?」


「……夕飯なら、うちの料理人が作るけど」


「急に来てそれは申し訳ねぇし、俺らの分は自分でどうにかできたらと思ったんだが」


 互いに悩む様子に、初老の使用人が微笑んだ。


「使用人が使う給湯室に、大抵の調理器具は揃っております。食材だけ調理場から分ける形でどうでしょうか」


「いいんですか?」


「断る理由はございません」


「あ、じゃあ……わたし食材貰いに行きます」


 使用人に先導されるアニタの後ろを、慌てて黒髪の少年が追っていった。

 彼のことだ。荷物持ちでも申し出るつもりなのだろう。


 その後ろ姿を穏やかな表情で見送っていると、侍女から声をかけられた。


「お嬢様……その、旦那様が『夕食を共に』と」


「そう、わかったわ」


 わずかに抑えた声音で、彼女は呟いた。


「久しぶりね。お父様に直接会うのは」



 夕刻のアウレリウス邸。その給湯室でアニタは小鉢に副菜を盛り付けていた。

 机の上にはすでに俵状のコロッケと、ズッキーニのグラタンが並んでいる。


「はい、大根のそぼろあんかけ。これで全部だよ」


「ふぉぉぉ!」


「相変わらずすごいね、アニタちゃん」


「ありがとうございます。二人共、おなかいっぱい食べてくださいね!」


 少女の明るい笑顔を合図に、彼らは料理へと手を伸ばした。


 シオンがグラタンを口にするとじわりとズッキーニがとろけた。

 ホワイトソースの甘みと、チーズの塩気が混ざり合い、少年は頬を緩める。


「うまー……ズッキーニもそろそろ旬の終わりだな」


「そうだねぇ」


 相槌の合間で、オリバーは揚げたてのコロッケにかぶりついた。ジャガイモの層の内側に炒めたひき肉と玉ねぎが詰まっている。

 エラムは角砂糖を少しずつかじって羽を震わせる。


 この面々の中で唯一猫舌のアニタは、淹れたての紅茶に懸命に息を吹きかけていた。


(ヴィーは何食べてんのかな……)


 不意にそう思いながら、シオンは雑にちぎったパンを口にした。



 どこか肌寒い部屋の中に、食器が皿にかち合う音だけが響く。


 そこでは着飾ったヴィーがスプーンをひらりと動かしてスープを飲んでいた。

 ジャガイモのスープ。いわゆるビシソワーズだ。


 他にも合鴨の燻製に、豚肉のゼリーよせ、鶏皮のマリネ等々。

 どれも毒見の工程を経ても美味しく食べられるように工夫されている。

 鶏肉の料理が多いのは料理長の気遣いか。


 少女はそろりと目の前に座る人物を伺う。


 白髪の間に残る桃色と、自分によく似たツリ目の男性、レグアは淡々と食事を進めている。

 その動作には無駄が無く、食事の作法をきちんと守っている。


 重たい静寂を気にしている様子はない。彼は食事中の無言が平気な人物なのだ。


(……少し痩せたか?)


 こっそり見ていたつもりが、急に視線が交わった。両者共思わず息を飲む。

 気まずさを笑顔で濁すこともできずに沈黙が続いた。


 先に口火を切ったのはレグアだった。


「ヴァリアモルテ」


「はい。なんでしょうかお父様」


「友人ができたのだな」


 鋭かった目尻がわずかに下がる。珍しい彼のわかりづらい笑みにヴィーは少なからず驚いた。


「良いことだ」


「……連絡の一つもせず、申し訳ありませんでした」


「構わない」


 短い会話が終わると、また室内の体感温度が下がった。



 彼らは決して互いのことが嫌いなわけではない。

 自分の娘、それも上級貴族の一人娘がトレジャーハンターになると主張して、それを容認し送り出す親は今の世では稀だろう。そのことに関してもヴィーはレグアに感謝している。


 しかし、二人の間に漂う重苦しさが消えることはない。


 不器用な彼らには溝の埋め方が分からないまま、あの日から十二年の月日が経った。



 あの日——ヴィーの母親が死んだ日から、残された者達の時間は止まってしまった。




「ふわぁぁぁ……」


 立ちこめる湯気の中でアニタは全身の力を抜いた。

 手のひらでお湯を掬い上げ、肩にぱしゃりとかける。


 アウレリウス家の大浴場は、現在アニタの貸し切りになっていた。

 ゆるく結んだ髪を揺らしながら、少女は嬉しそうに微笑んだ。


「湯船にちゃんと浸かるなんて贅沢だなぁ……気持ち良いぃ……」


 旅の途中は勿論、養父に与えられた小屋にいた頃も、温めたお湯で体を拭いたり、川や湖で水浴びをするのが常だった。

 先ほど使用人に渡された布袋を湯の中で優しく揉む。


 ふと指先を嗅いでみるとハーブの香りが移っていた。


(イランイランとカモミール、あとこれは、ラベンダーかな?)


 足をうんと伸ばしていると、薄い扉の向こうから声をかけられた。


「アニタさん、体を拭く物ここに置いておきますよ」


「あ、ありがとうございます……」


 声の主は先刻ヴィーと話していた侍女頭であった。年配のふくよかで穏やかな女性である。

 彼女は大浴場の脱衣所の(かご)を見て、


「こちらのお召し物は洗濯ですか? お預かりしますよ」


「え、あ、いや、大丈夫です!」


「それは失礼しました。胸部下着が二枚おいてあるようですから、てっきりそうかと」


「その、それは」


 隠れるように膝を抱き寄せてアニタは小さく呟いた。


「二枚重ねで抑えないと……痛くて走ったりとか、できないので」


「ああ。そういうことでしたか……」


 思春期の子に申し訳ないことを聞いたと反省しながら、侍女は話題をそれとなく続けた。


「アニタさんのような細身だと、合うサイズも中々見つからないでしょう?」


「はい……手縫いです」


「これご自分で作られたんですか!?」


 実用の邪魔にならない程度ではあるが、細かい動植物の刺繍が施されている。

 平民であれば布地を買い自作するのは普通のことだが、市販品と見まごう出来は中々無い。


「あらあら、すごいですねぇ」


 明るい感嘆の言葉がむず痒く、銀髪の少女は浴槽で縮みこんだ。


 去り際に、侍女が思い出したように言った。


「ブラジャーで胸の下を支えたところに加えて、上から押さえつける帯を使うと、かなり揺れが抑えられますよ。一つお譲りしましょうか?」


「え、本当ですか!?」


「合わなかったらご自分で調整していただくことになってしまいますが……」


「大丈夫です! ありがとうございます!」


 アニタの明るい声音に、年配の女性は懐かしそうに微笑んだ。



 日もすっかり落ちて、夜勤の使用人たちが軽口を叩き合う時間になった。


 ヴィーは蝋燭(ろうそく)片手に三人の元へ向かっていた。

 自分の寝室にいてもぼんやりするばかりで暇だったのだ。


 部屋の扉をノックしようとした瞬間、中から楽しげなシオンの笑い声が聞こえてきた。


「あら。まだ起きてるの?」


「お! ヴィーも混ざるか?」


「何によ」


「怪談〜」


 にやっと笑う彼から一歩離れて、布団にくるまって震えるアニタと、笑顔で固まっているオリバーがいた。

 ヴィーは頭を抱えてため息を吐く。


「……ただの怪談でどうしてこうなるの? 後アニタ、寝る時にはちゃんと戻りなさいね」


「はぁい……」


「いやぁ、シオンの怪談、幽霊物ばかりなんだけど、実体験しか無いんだよね」


「見えるし聞こえるもんはしょうがねぇじゃん?」


 もう一度、重いため息をこぼしてから、ヴィーはシオンの正面にあぐらをかいて座った。


「何か話してみなさいよ」


「良いぞ」


 黒髪の少年は笑顔で腕を組んでわずかに顔を伏せる。

 寝る前だからだからか、トレードマークのバンダナは外され前髪が揺れている。


「アニタとオリバーにも話してねぇやつ……おん、これだな」


 思い出でも歌うように彼は語り出した。



「これはちょっとした話なんだが……、

 俺が九つとかそんぐらいの頃だ。


 いつも廃墟の庭に黙って立ってる女の人がいた。

 姿こそ朧げだが、近くを通りかかるといつもこう聞こえた。


『おうちにかえして』


 俺はどうしても気になって、ある日その人がいない時にそこの地面を掘ってみた。


 でも何も埋まってなくて、がっかりして穴を塞いでたら、偶然目があった。


 心臓が冷えるような感覚がして汗が伝って——これは良くねぇやつだ——そう確信して、目を逸らしたのがいけなかったんだな。


『ねえ、みえるの?』


 極力平静を装って帰ろうとしたが、それは俺について来た。

 ああ、振り向いて確認したわけじゃねぇぞ?


 ただずっと聞こえてるんだ……耳のすぐ後ろから『かえして』って。


 なんとなくだけど家を知られるのはまずい気がして、俺は近くにあった農具小屋に隠れた。

 そしたらさ、小屋の手前で立ち止まって、うろうろするだけで入って来ねぇんだ。


 思わず俺がほっとして扉を閉じたら、焦げ臭い匂いがした。


 慌てて周りを見渡しても、火事が起きてる様子はねぇんだ。


 変だなって思ってたら急に金切り声が聞こえた。同じくらいうるさい扉をひっかく音も。


『かえして! かえしてかえしてかえしてかえしてかえせかえしてかえしてかえりたいかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえりたいかえりたいかえりたいかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえせ!!』


 脇の窓から覗いてわかったよ。叫ぶそれの足元で草が燃えてたんだ。

 小さな火の粉がどんどん散らばって、小屋の入り口に火が移った時に、


『あなたの、かえるばしょ、わたしにちょうだい』


 耳まで裂けた口で笑いながら、頭の上が潰れた女の人がそう言ったんだ」



 ぱんっと両手を合わせてシオンは続ける。


「……すぐに鎮火されて、救助された俺は大人に尋ねた。『あの廃墟は何?』ってな。それでボロボロになったのは放火が原因だってことと、放火魔の女性は燃えた柱に頭を潰されて亡くなったことがわかった……はいおしまい!」


「……その、女性の幽霊はどうなったの?」


「おーん、聞かない方がいいと思う」


「う、何よそれ」


「ひ、ひぅ」


「アニタちゃん大丈夫? お茶飲む?」


「ありがとうございますぅ……」


「あ、次オリバーの番だぞー」


「僕? 了解。何かあるかな」


(……駆けつけた師匠に殴られて木っ端微塵になったんだよなぁ。あのじじい、霊感とかは無いはずなんだけど)


 余計なことは言わぬが花。

 そう思いつつ、シオンは仲間との夜更かしを楽しんだ。




 次の日の朝、ヴィーは小さな墓の元に来ていた。


 仲間達には裏門のところで待ってもらっている。

 綺麗に掃除されているそこに、そっと一輪のマーガレットを置いて、きつく目を瞑る。



 かつてこの館には女主人がいた。

 彼女の名前はエヴリン・アウレリウス。出身は下級貴族で、とても美しい容姿を持ち、そして病弱な人物だった。


 彼女は一日の大半を寝台の上で過ごさねばならなかった。感染症を患ってはいなかったものの、限られた使用人だけが面会することができた。

 幼いヴィーは時間があるとすぐに彼女の寝室を訪れたものだ。


 静かに瞼の裏を見ながら、少女は追想する。


 あの日に至る日々のことを。

 自分が生んだ後悔のことを。




     × × ×




「おかあさん! おはようございます!」


 桃色の髪を短く切りそろえた少女が、女主人の朝食を届ける。

 すっかり日課となっているその光景に使用人達は頬を緩めた。


「おはよう。ヴィー、今朝は良い天気ね」


 少女の愛称を紡いだ口は、薄い桜色をしている。

 あまり良いとは言えない体調をごまかすために化粧をしているのだ。


 朝食はポリッジ。オーブンで香ばしく焼かれた洋梨と、薄くスライスされたアーモンドが乗っている。


 ヴィーはポリッジと水の入ったコップ、紙面で包まれた粉薬、そしてレグアからの手紙が並んだ木製のトレーをそっと寝台の脇に置いた。


「いつもありがとう。とっても助かるわ」


 そう言って不安になる程細い手で少女の頭を撫でる。


 ふかふかの上着も、枕元の花も、昨夜出張から戻ったレグアが彼女に贈ったものだ。

 窓から入る風で花瓶のブーゲンビリアが優しく揺れていた。


 食後、彼女は夫からの手紙を嬉しそうに一文一文なぞりながら読む。

 ヴィーはその横顔を見るのが好きだった。


「知ってる? この花はね。彼が自分で花瓶に入れに来るの。夜中、私が寝てる時に」


「どうしておかあさんがねてるときなんですか?」


「不器用な人なのよ。それはもう、面倒な程」


 くすくす笑って、彼女はその手紙を大切そうに箱に入れた。質素な木箱の中には少し古びた物も大量にとってある。


「……あのおはなししてください! おとうさまとのであいの」


「うん。良いよ」


 二人の出会いは文通。前王家の次期当主という肩書きに疲れたレグアが、気晴らしにと立場を伏せて新聞で文通を募集したのだ。


 しばらくして、互いにイニシャルだけ知らせるという条件で、一人申し込みが来た。

 それが同い年のエヴリンだった。


 二人は言葉を尽くして色んなことを語った。

 本の趣味、休暇の過ごし方、好きな花、家族関係の悩み、近所のお気に入りの飲食店。

 それこそ互いに他には言えないような些細な疑問まで。


 正式に当主になったレグアはある日、手紙の相手に会ってみたいと伝えた。直接会って一緒にお茶がしたいと。


 そして喫茶店で初めて対面した瞬間、二人は——同時に告白をした。


 重なる「好きです」と「付き合ってください」に思わず二人して笑い出し、数度の逢瀬を経て彼らは夫婦になったのである。



「で、結婚して一年くらいしてから、ヴィーを産んだの」


「はわぁぁぁ」


「いつも嬉しそうに聞くわね? もう何回も聞いたでしょうに」


「かいすうはかんけいないんです!」


「そうなの?」


「そうです!」


 骨ばった指先を握りながらヴィーは俯く。


「……また、おとうさまもいっしょに、おはなをうえましょうね」


 エブリンはそれに応える代わりに、そっと手のひらを重ねた。



 ちょうどヴィーが五歳になった年のこと、父が長期にわたる出張に行くことになった。


 仕事ではあるが、現地にいる評判の良い医者に診療を頼もうと、寝台の脇で母を抱き寄せながら言うレグアを、少女は扉の隙間から見ていた。


 その後数日間、エヴリンはいつも通りだった。使用人にもヴィーにも朗らかに接していた。

 周囲の人々はそのことにどこか安堵してしまった。


 だから、だからこそ、彼女の孤独は根深い物になってしまった。


 ある穏やかな秋空の日。


 普段と変わらず出張先からもほぼ毎日送られて来る手紙を母へと渡す。それを抱き寄せて、彼女は唇を震わせた。


「わかってるの」


 自分に無理やり言い聞かせるような、呆れ返ったような声色だった。


「彼が、こんなに頑張ってくれてるのが、私の……治療費のためだってことは、わかってるつもりよ…………でも、それでも!」


 抱きしめられた手紙がくしゃりと音を立てる。白いシーツに斑模様が散らばった。生暖かい水滴が温度を失いながらいくつもこぼれ落ちた。


 それを拭うこともできず、少女は固まってしまった。



「さびしい」



 耐え切れずふりしぼったその言葉は、きっと一番伝えたい人に届かない。


「ごめんね? あなたにこんなこと聞かせたくなかった……」


 ヴィーはぶんぶんと首を横に振る。


「あたたかいのみものを、もってきます」


 逃げるように部屋から一歩踏み出す。枕元に置いてあったジャスミンの香りがやけに鼻に残った。




 この世の運命を定める創造主は、私のような矮小な者の祈りは聞いてくれないらしい。

 少女はそう感じずにはいられなかった。


 小さな手を握りしめながら、苦しげに身をよじる母と周りで騒ぐ使用人を部屋の片隅で見つめる。

 微力な体でできることは少なかった。最初は吐血する彼女の背を撫でていたが、血の量が増えて桶が必要になると、近寄ることを禁じられた。


 父が依頼した医師が、かかりつけの薬師と連れて慌てた様子で入って来た。


 不意に、エヴリンの虚ろな目がさまよい、頰がうっすら赤く染まっていく。


「レ、グあ」


 震える細い手が開いた扉の方へと伸びる。

 そこには誰もいやしないのに。


 思わず少女が駆け寄った瞬間、糸が切れたように彼女の腕が落ちた。




 黒い喪服の先頭に父子は並んで立っている。


 どちらも涙は無く、エヴリンの遺体は棺桶に入り、彼女の好きだった庭園に埋葬された。

 遺言に従って手紙の詰まったあの箱も一緒だ。

 小さな墓石には、『エヴリン・アウレリウス 享年三十八歳』と刻まれた。


 来客を見送ってから、ヴィーはレグアの書斎を訪ねた。


「どうしていなかったの」


 それが何よりも残酷な問いだということはよくわかっていた。


「どうして! あのひとをひとりぼっちにしたの!!」


 次の瞬間、少女の視界はぶれた。じわじわ熱くなる頰を抑え、がくんと膝から崩れ落ちる。

 荒く息をしている彼は、後悔と悲哀を固めたような顔をしていた。


 自然にヴィーの口から言葉が滑り落ちる。


「ごめんなさい」


 それに応えるように、レグアも口を開いた。


「…………すまない」


 彼の苦しげな横顔は、涙を流すことさえできないでいた。


「出て行ってくれ……私がまた、お前を叩いてしまう前に」



 ヴィーは部屋で膝を抱えてぐるぐると考える。

 自分は、彼女のために何ができたのだろうか。何が、できていなかったのか。


『どうして! あのひとをひとりぼっちにしたの!!』


 それは、何よりも自分自身に向けた言葉であった。失ったのは、彼も同じだというのに。


 彼に謝罪を望まれてはいないのは分かっていた。


 しかし、それでも——




     × × ×




「……そろそろ時間ね」


 十二年の歳月はあの日生まれた傷を深い溝へと変えた。気まずさは消えぬまま、その濃さだけが増していく。


「本当に……愚か者ね。私は」


 振り向いた瞬間、ヴィーは思わず目を見開いた。そこにレグアが立っていたからだ。

 彼の手にはエヴリンの好きだったマーガレットの花束がある。


 少女は小さく会釈してその横を通り抜けようとした。


「ヴィー」


 言い慣れていないであろう響きが彼女の足を止めた。少女に振り返る暇も与えずに彼は続ける。


「良き旅路を」


 あらゆる言葉を飲み込んで削ぎ落として言い換えてなんとか告げた言葉。


 それを耳にしてヴィーは、素直に不器用で優しい人だと思った。かつて彼女が言った通り。


「……お父さんもどうか息災で」


 溝越しに飛ばす紙飛行機に、精一杯の謝罪と感謝と愛を込めて、似た者同士に贈る。


 届いたかどうかはわからない。


 ただ、二人の表情にいつもの暗さは無かった。




 裏門で三人と合流すると、シオンがヴィーに問いかけた。


「なぁヴィー。守護霊って知ってるか?」


「突然何よ……その人と(ゆかり)の深い死者が、守ってくれるとかいうやつ?」


「うんまあ大体そんな感じ」


 彼は珍しく静かな微笑みを浮かべていた。


「俺はいわゆる悪霊と違って、守護霊みたいなのは輪郭しか見えねぇんだ。たま〜に一部分がはっきり見えることがあるけど」


「ふぅん」


「二人ともー、馬車来ちゃいますよ!」


「あらいけない。走るわよ」


「おん!」


「何の話をしてたんだい?」


「ただの世間話だぞ」


 ちらりとシオンはヴィーの背後を見やる。


 時折ぼんやり見えていた影が今は少しだけはっきりしている。

 それでも彼には彼女の足元しか認識できないのだが。



 頬をほころばせる少年の視界で、ワンピースの裾が優しく揺れた。



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