幕間・暴走:紅玉
全てを差し置いても守りたいもののために、彼女は武器を手に取った。
それは帝歴八六三年——シオン達の旅が始まる八年前のこと。
騎馬隊の進軍する轟音が森にこだましている。その先頭を行く兵士が遠目に建物を捉えた。
彼は目をそらさないまま後方へと声をかけた。
「あれで合ってるか?」
「ああ、間違いないよ」
「たく、面倒事ばかり押し付けやがって」
文句を吐くその口元には、笑みが浮かんでいた。
男の顔は兜に隠されていて正確な年はわからない。兜の脇からは白髪混じりの金髪が覗いている。率いる軍の規模から見ても若くは無いだろう。
「押し付ける側は命をかけないでいいからねぇ。まあ彼らには彼らの、僕らには僕らの役割があるってことは、君もよくわかっているだろう」
淡々とそう返した方は、ふさふさと顎髭を揺らす褐色肌の老兵だ。彼は静かな声音で続ける。
「ほらいたよ。彼女だ」
「おぉー、すげぇな」
彼らが見つめる先——とある上級貴族の屋敷は、中央の塔以外が全て瓦礫と化していた。
砂埃の立ち込めるその光景は爆破された跡のようにも見える。
しかし、その惨状を産んだのは火薬ではなかった。
「ありゃあ相当な別嬪だぜ」
塔の上に立つ人影がある。短い銀髪が光を反射しながら風に揺れた。
白く透明感のある素肌を黒いドレスで包んで、彼女は穏やかに微笑んでいる。
すっと通った鼻筋より上は、服の装飾と同じ赤い宝石でできた兜に覆われており、痩せこけた手には一本の槍斧が握られている。槍、斧、フルーケの合わさった武器だ。
赤色の鋼玉——ルビーの華玉。
彼女こそがこの屋敷を壊滅させた張本人である。
兵士は馬上で首を回しながら呟いた。
「『暴走』って言ったか?」
「そう。華玉の数が著しく減少してから起こり出した現象だね。その状態の華玉は自分の生体機能が停止するまで周囲への破壊活動、および積極的な人間の殺害をやめない」
「意思の疎通は?」
「できない……というのが生物学者たちの最終判断だよ」
「そうか。いやぁしっかしこの距離でもわかる美人だなぁ。眼福眼福」
「夜の方じゃないなら、これからお相手してもらえるだろう?」
「あーあ。後味悪い」
わざとらしくため息を吐きながら、兵士は背中の大剣を抜いた。
近辺を包囲するためか軍勢は規則的に散って行く。それを確認してから金髪の男性は馬を降りる。
その目の前に、宝石が舞い落ちた。
並みの兵士では扱うどころか、持ち上げることさえ困難な槍斧を軽やかに振るって、ドレスの裾を抑えながらふわりと着地する。その様子は楽しげに踊っているようだった。
兜越しに両者の目が合った。
瞬間、辺り一面を燃え盛るような殺意が圧する。
それを真正面から受け止め、歴戦の兵は満面の笑みで切りかかった。
槍斧の衝撃をを剣の鍔で流し、わずかに男の体が後退する。
「はっ! まだまだぁ!」
しかし彼は力ずくで彼女の武器を跳ね返し、そのまま猛攻を続けた。
一手でも動きを間違えればどちらかの首が飛ぶだろう。側から見ても理解が追いつかない、他社の介入の余地がない別次元の戦いであった。
褐色肌の老兵は白い髭を撫でさすりため息をついた。彼の長年の知己である金髪の男が、かなり余力を残していることがわかったからだ。
「……あちらは大丈夫そうだね。何騎か私についてきておくれ」
「どちらへ?」
「報告書によればこの館にいる華玉は二人だ。もう一人を探しだして、暴走する前に保護しなくてはね」
「了解しました」
まだ華玉に人権が認められる前だというのに、彼らを人扱いする変わり者の老人は、廃墟と化した屋敷の探索を開始した。
一方、彼らの決着にもそう時間はかからなかった。
崩れた壁に背中を預けて座り込み、華玉はわずかに痙攣を繰り返している。
後にわかることだが、暴走は華玉本人の肉体にも多大な負担がかかる。兵士が切りつけた傷よりも、時間経過で破裂した血管の方がはるかに多いだろう。
不意に、宝石の兜が姿を消し、その素面があらわになった。
(ああ、やっぱり、すんげぇ綺麗だなあんた)
口には出さなかった。これから自分は彼女を殺すのだから。
「…………お」
「うん?」
「お、ねが……ぃ……ぁ、あのこを……ころし、た、くな」
か細く頼りない声で彼女は何かを紡ごうとしている。
その様子を見て、金髪の男は手にしていた剣を地面に突き刺した。どれだけふざけた態度を取ろうが、彼も戦士としての矜持は持っている。
「良き戦いの礼だ。聞こう」
その台詞に、華玉の女性は肩の力を抜いた。数度息を整えて、
「ぼ、暴走は、制、ぎょできな……目に写ったら、対象、になる……お願い」
途切れ途切れの言葉でも、意思の強固さは鈍らなかった。
「私の、両目、をぉ、ぇ、えぐ、て」
これ以上何も壊さぬためにと。その合間にも彼女の口からは喀血混じりの咳がこぼれる。
兵士はただ黙って聞いていた。
訪れた沈黙の中で、宝石の女王と名高い紅玉が、死闘の相手を写している。男の鏡像は眉根を寄せながらも、どこか穏やかな表情をしていた。
「——その願い、戦士バゼットが承った」
片手の手袋を雑に投げ捨てて彼女の頰に触れた。痩せ細り骨ばった感触に眉間の皺が深まる。
ふと、先ほどよりも小さい、けれどはっきりとした言葉が耳に届く。
「ありがとう……最後に、知れた人間が、あなたで良かった」
彼女は、唇を震わせながら笑顔を作った。
彼は、硬いその眼球に粗忽な指で触れた。
「おう。どこに行ってたんだ?」
「お疲れ様。ちょっと探し者にね。彼女は?」
「死んだよ」
老兵はちらりと女性の遺骸を見やった。そこには見覚えのある軍服の上着がかけてあった。
「そっちは? なんかあったか?」
「あったというか、いたよ」
二人の背後から一人の兵士が近寄ってきた。
その腕の中に、暖かそうな毛布に包まれた銀髪の幼女がいた。おそらくまだ六、七歳といったところか。
「あ……おかあさん!」
兵士の腕から飛び降りて、彼女は母にすがりついた。かけられていた上着がずり落ち、赤黒い斑点の散るドレスが覗く。
首筋に抱きついてすぐに少女は首を傾げる。
「おかあさん……? おねむなの?」
母親の全身の出血は、青い目の彼女には黒く見えていた。
視界の中でドレスと同化した血に気がつけず、ただ母の体の冷たさに驚いている。
そんな少女に誰が何を言えたというのか。
幼女と母親の遺体を連れて、騎馬隊は来た道を戻る。
小さなサファイアの華玉は母を殺した兵士の前に座っていた。馬を見たのが初めてだったらしく、恐る恐るたてがみを撫でている。
「なぁ嬢ちゃん。嬢ちゃんの名前はなんだ?」
「なまえ?」
「そうそう。お母さんからなんて呼ばれてた?」
周囲に警戒と戸惑いの空気が走る。
そんなことには気づかずに、彼女は顔をほころばせた。
「アニタ!」
その響きを愛おしげに呼んだ者がもうこの世界のどこにもいないことを、少女はまだ知らなかった。




