第一話 情熱は盲目
冷たい風が、背中に容赦無く吹き付ける。
足元では小石がぱらぱらと落ちていった。
(……もう少し。あともう少しだぞ)
そう自分に言い聞かせて、少年は凹凸した岩肌を掴む。
十五歳になったばかりの彼ーーシオンが今いるのは、切り立った崖の中腹だ。
命綱は先人が使ったらしき錆びた鎖だけ。
それもまばらに途切れており、とても頼りにできる代物ではない。
一歩誤れば奈落の底だというのに、彼の目は爛々(らんらん)と輝き、頭上を見据えていた。
少年はただ手を伸ばす。
登り終えた先にある、何かに惹かれるように。
帝国西方――カロニア町。
古風な高山都市の大通りは、観光客で埋め尽くされている。
町の路地の一角で、警備服の男がしきりに頭を下げていた。
「もう少し! も〜少しで用意できそうなんすよ!」
「困るよぉ? 期日は守ってもらわなきゃ。わざわざ西の端まで来たんだから」
「お願いします! 絶対! 必ず今週中に完済しますんで」
「う〜ん」
笑顔の仮面をつけた商人は、困った様子で腕を組んでいる。
警備隊員の男は、媚びへつらうように両手を揉んだ。
その後、再びの謝罪を受けて商人は肩をすくめた。
「本来これ僕の仕事じゃないんだよねぇ……じゃ、今週末ね。二度目は無いし、間に合わなかったら、それ相応のモノは出して貰うよ」
淡々と帳簿に書き込んで、仮面の商人は去っていく。
隊員は商人が消えた後、ずるずるとその場にへたり込む。額から汗が伝った。
「クッソ……軽い気持ちで借金したのが間違いだったぜ……」
どうにかして金を工面しなければいけない。しかし、給料日はまだ先だった。
頭を抱えていると、不意に一つの案が浮かんだ。
無意識で視線が向かった先には、勤め先である古城の遺跡が鎮座していた。
遠い昔、この地の統治者が使ったという小さな城だ。
(いけるんじゃねぇか? 嫌々さすがに危ねぇ。でも夜の見回り中なら……)
そう考えながら隊舎に戻る途中、遺跡の裏手にある崖を見下ろした。
底の方は霞みがかっていて、一目で落ちたら命を落とす高さだとわかる。
そんな崖の途中に――若い少年がぶら下がっていた。
慌てて男は駆け出す。
(落ちたのか?! 待て待て待て! 俺の責任になるだろうがッ!)
即座に隊舎から縄を持ってきて、少年に向かって投げる。
焦る男は、その少年が笑っているのに気づかなかった。
観光客に紛れていた少女が、まっすぐに閑静な裏路地へと向かう。
昼間から賑わっている酒場や、虫除けの匂いが充満する古書店の脇を、静かに通り抜ける。
「……観光地と聞いて来たけど、古城の遺跡以外に、目立つものは無いみたいね」
桃色の髪の少女はそう淡々と呟いた。
不意に、桃色の髪が揺れる。
風でずれたフードを直し、彼女はその端整な顔を隠した。
「まあ、治安が良いのは何よりだわ」
ふと、彼女の足が警備隊の隊舎前で止まった。
演出のためか、古風な服装の隊員が行き交っている。
そんな中、一人だけ厳しい表情を浮かべた隊員がいた。
「もうあんなことをしてはいけないぞ。怪我が無かったからいいもののッ」
「ごめんなさい……」
「真似する人がいたらどうするんだ?」
「本当にすいません……」
どうやら誰かを注意しているようだ。
少女は興味本位で、そちらの様子を伺う。
叱られているのは若い観光客だった。
しばらくすると隊員から解放され、しゅんとした様子で歩き出した。
頭には赤一色のバンダナを巻いている。
動きやすそうな服や背中の麻袋から察するに旅人だろう。
少年のシャツの下からは、小振りな二丁のナイフが覗いていた。
「うわっ」
彼女はひくりと口角を上げた。見覚えのある顔だったのだ。
それは相手も同じだったのか、鋭い三白眼が見開かれる。
「あれヴィーか? 久しぶりだなぁ!」
「また会ったわね……シオン」
渋面で返したヴィーとは対照的に、シオンは満面の笑みを浮かべた。
いつまでも路上で話すわけにもいかない。二人は大通りの食堂に移動した。
幸いにも、あまり並ばず席に着くことができた。
少年は卓上に置かれているメニューを開く。
見開き一枚で料理名と、使用する食材や簡単な調理工程、そして肝心の値段が並べられている。
「おーん。どれ頼もうかな……」
「せっかくだし、ここの特産品とかないかしら」
「酢大豆ならあるぞ」
「それはよそでも食べられるじゃない」
ひとしきり悩んだ後、彼らは無事に注文を済ませ、互いにグラスを持ち上げた。
『乾杯!』
シオンは冷水を一気に飲み干して、グラスを少し雑に置き、ヴィーは半分ほど残しておいて静かに置いた。
「室内は少し暑いわね」
少女は上着を脱ぎ、まっすぐな横髪を耳にかける。
幼い体躯に似合わぬ大人びた態度と、行動の節々に表れる艶のためか、店内の視線が集まっている。
しかし当人と相席相手は、それらを無視して会話を続けた。
「そういえば、さっきはなんで注意されてたの?」
「あー、ここの有名な古城の裏にさ、深い崖があるだろ?」
「ええ」
「あれを下から登ってきたんだ」
「……は?」
「登りきったところで、それを見た警備隊の人が、俺が飛び降りようとしていると思ったみたいだな。申し訳ねぇ」
少し恥ずかしそうにしながら話す彼に、思わずヴィーは両目を細めた。
「あそこって命綱あったかしら……」
「鎖ならあったぞ。途中で切れてたけど」
「ちなみにあなた、岩壁登攀の経験は?」
「んー。多分、今回で三度目くらい」
「あなたねぇ……」
少女はまだまだ新人ではあるが、財宝発掘屋の一人だ。遺跡や洞窟などでの探索が主な仕事になる。
そんな職業柄、危険な場所に出向くことも多々ある。
けれど、それには最大限の準備が必要だ。
シオンのしたことは、たとえどれだけ経験豊富であっても、まともな命綱や登山具も無しにやることではない。
ここで何よりも恐ろしいのは、
「かつての戦乱時、兵士があの崖をよじ登って、城を占領したのは有名な話だからな。どれぐらい大変だったのか試したかったんだ」
彼が嘘をついていない、つまりその無謀を成功させてしまったということだ。
「あなた本っ当にバカ? なんでそれに命賭けたのよ」
「いやぁー、照れる」
「一言も褒めてないわ」
軽口を叩き合っていると、注文した料理が運ばれて来た。
従業員は無言で皿を並べ、会計用紙に鯨型の重しを乗せて、何も言わずに去って行った。
「……無作法な店員ね」
「ここはサバルトーラ教の修道院があるからな。無言の礼拝の週なんだろ」
シオンが有名な一神教の名をあげる。いわゆる世界宗教だ。
ヴィーは軽く片眉を上げた。
「ふぅん。そんなのもあるのね」
「おん? ヴィーもサバルトーラ教じゃなかったか?」
「信仰してるのは私の家で私個人じゃないし、実家でもそんな礼拝聞いたことないわ。大方、宗派が違うんでしょ」
「なるほど」
相槌を打ってから、少年は湯気のたっている皿を見下ろす。
ヴィーは香辛料がたっぷり使われた豆のカレー、シオンはラムスペアリブの塩焼きを注文した。
それぞれにジャガイモパンとクレソンのサラダが付いてきた。
メニューによると、パンとサラダはおかわり自由らしい。
少年はこぼれかけた涎を拭って両手を合わせる。
「いただきます!」
言うが早いや、肉をほおばり出した彼に呆れつつ、少女もカレーを一匙すくう。
「あ、結構辛いわねこれ。美味しいけど」
思ったよりも水気が多い。続いて、パンをちぎってカレーにつけてみる。
しっとりとした食感と、時折舌に触れる豆の固さがちょうど良い。
「このサラダ、岩塩がかかってるな」
シオンは早々にスペアリブを二本食べ、サラダで口直しをしていた。
「カレー、一口いかが?」
「お、やった! スペアリブ一本いるか? 羊肉なのに全然臭くないぞ」
「せっかくだしいただくわ」
ヴィーは肉を一口分噛みちぎり、ちらりと正面にいる彼を伺った。
不意に、二人の目がかち合う。
その瞬間、少年は無邪気な笑みを浮かべた。
「な、美味いだろ?」
口内で転がる肉片を奥歯で噛みしめ、少女は小さく呟いた。
「まぁ、悪くないわね」
財宝発掘屋のヴィーと、歴史家のシオンが初めて出会ったのも、ちょうどこんな食堂だった。
道中で雨に降られた彼と相席になったのだ。
荷物だけは無事だと喜んでいるのが不憫で、帰り際にタオルを一枚渡した。
その場でお礼を言われ、正直もう会うことはないだろうと思っていた。
後日、律儀にタオルを返そうと、少女を探していた少年と鉢合わせるまでは。
それ以降、かなりの頻度で会うようになり、今ではすっかりため口で話す仲だ。
雑談で時間を潰していると、大げさなため息が聞こえた。
「最近の若いやつはよぉ。夢の一つも無いのかね?」
「全くだ。そういやこないだ新しく入った奴が……」
近くに座っている酔っ払い二人が、息子や部下の意欲の無さを嘆いているようだ。
よくある話だとヴィーは無視を決め込んでいる。
(昼から飲んでる……)
しかし、シオンは違った。
「夢ぐらいあるに決まってるだろ。俺は今までの歴史書には記されなかった人達が生きた証拠を、書ける限り書き尽くして、この世の果てまで届かせる! それが俺の夢だ!」
「あちゃー」
ハキハキと叫んだ少年とは反対に、少女は深く頭を抱えた。
店内に気まずい沈黙が流れる。
それを壊したのは、大きな笑い声だった。
「そりゃあいいや! せいぜい若い内に無意味なことしろよ兄ちゃん!」
酒場の客達、ひいては店員さえも腹を抱えて笑っていた。
どうやら、彼の宣言を本気にとった人間はいないらしい。
ヴィーは安堵から小さく息を吐いた。酔っ払い相手の面倒は避けたい。
「……ちっ」
「こら、舌打ちしない」
シオンは不満そうに頬杖をついている。
唇を尖らせる彼の前に、追加のパンが運ばれてきた。
「おー! やったー」
そう言って、少年はきらきらと目を輝かせる。
一瞬で機嫌を直したシオンを見て、ヴィーはつい笑ってしまった。
支払いを終えて外に出ると、シオンは大きく背筋を伸ばす。
年齢だけならヴィーの方が二つ上だが、体格差は明らかであった。
「よしっ、そんじゃあ行くか」
麻袋を背負い直して、少年は道なりに進み始めた。
その後ろを無言でヴィーがついて来ていた。
二人分の足音が規則的に重なる。
「おん?? ……ヴィーの目的地もこっちなのか?」
「違うけど?」
「あれぇ」
「ただ、そうね」
彼女は不敵に笑って続けた。
「あなたが行くところなら、きっと面白いはずだから」
「なんだ、そういうことか」
速やかすぎる納得に呆れつつ、桃髪の少女は隣に並ぶ。
出会ったばかりの頃、あまりにも行く先々で顔を見るので、彼らはお互いを不審者なのではと疑っていた。
性格も職業も異なるこの二人、恐ろしく気が合うのである。
それこそ、興味のある観光地が、ことごとく被ってしまう程度に。
「どうせなら、付いていけるところまで付いて行くつもりよ」
「それは……カロニアを出てからもか?」
「どうせ遭遇するなら、二人旅でも変わんないでしょ」
「おーん。ヴィーがいいなら俺は気にしないぞ」
「じゃあ決まりね」
同行の許可を得てから、少女は話を切り出した。
「それで、あなたはこの町で何をするつもりなの?」
「勿論――悪魔探しだ!」
黒髪の少年は胸を張って高らかに宣言する。
ヴィーは眉根を寄せながら首を傾げた。
「……聞き間違いかしら。ちょっともう一回言ってくれる?」
「この町で悪魔を探すぞ」
「うーん?」
「どうしたんだヴィー? 頭痛いのか?」
「シオン、あなた歴史家よね?」
「周知の学問分野に分類すればそうなるぞ」
「こう、もっと細かく言うと?」
「近代の人類文化史じゃないか? 社会史に近いな」
この場に悪魔という言葉に対して、疑問を覚える者はいなかった。
「どうして人について調べる上で、悪魔を探すのよ……」
悪魔はこの世界に実在しているからだ。
元々、『悪魔』という響き自体は、サバルトーラ教の聖典にのみ存在した。
そこにはたしかに『原罪を象徴する悪魔』という存在が記されている。
かつてそれを信じているのは、厳格なサバルトーラ教徒だけだった。
しかし今となっては悪魔を信じない方が少数派である。
——帝国を築き上げた初代皇帝その人が、民衆の面前で、悪魔を召喚してみせたのだから。
初代皇帝に喚び出された悪魔は、自らのことをこう名乗ったという。
『孤独の悪魔・アダム』
それは偶然にも、聖典における原初の人類と同じ名前だった。
初代皇帝は彼と契約し、十二の大罪を司る――「十二の悪魔」の存在が明らかになったのである。
「サバルトーラ教と『十二の悪魔』の関係だけで、論文がいくつも発表されているくらいだ。近代の人類史を語る上では外せないだろ?」
「まあ、そうかもしれないわね」
歴史家。
歴史についての研究者は、この世界では数が少ない。単純になりたがる者が珍しいのだ。
シオンは年齢的に、まだまだ見習いの部類に入る。
「有名なのだと……聖典における原罪の数が、七から十二に改編された話とか」
「……あれはどうなのかしらね」
「ほら、聖典は真実が記されている物って認識だろう。どうにか現実と合わせたかったんじゃないか?」
「象徴的な表現を無理に現実とすり合わせる? 意味がわからないわ」
「色々な考え方があるよなぁ」
ふと二人は漂ってくる甘い香りに気がついた。
どうやら揚げ菓子を売っている屋台から匂うようだ。
「お菓子とホットチョコレートのお店みたいね」
「良い匂い……」
「……寄って行きましょうか?」
「おん!」
先ほど食べたばかりだというのに、シオンは大きく腹を鳴らした。
「あなたさっきパンおかわりしてなかった?」
「甘いものは! 別腹だ!」
「そんなに力こめなくても」
結局、シオンに便乗してヴィーも購入した。
揚げたての棒菓子の先端を、温められたチョコレートにひたす。
じゅわりと、生地にチョコが染み込むのがわかった。
軽い食べ心地に反して、後を引く上品な甘さに、彼らは顔をほころばせた。
「うまぁー」
「おいしー」
コップの壁面を棒菓子で拭き取りながら、二人は話し続けた。
「それにしても、悪魔探しって……何か当てでもあるの?」
「ああ、方法は後で教える。とりあえず今は情報収集に行くぞ」
「どこに?」
「古城の遺跡!」
「それはあなたの趣味でしょ」
「……ばれた?」
ヴィーは十二の悪魔について考える。
煉獄にいるという彼らの召喚方法も、かつて孤独のアダムから伝えられたが、それは昔から上級貴族がほぼ独占している。
当然召喚には代償があるため、やろうとする者は少ない上、ただの平民は方法を知るもことも難しい。
それでも、お伽話やサバルトーラ教の教義で、十二の大罪については誰しもが耳にする。
まず聖典にもある憤怒、暴食、怠惰、嫉妬、色欲、強欲、傲慢の七つ。
さらに絶望、破壊、偏見、無垢、孤独の五つ。これらの合計で十二になる。
少女自身は、実家でこれ以上のことを教わらなかった。
それぞれを司る悪魔の名前も、習ったかもしれないが覚えにない。
ちらりとシオンの頭を見上げる。
帝国においてはそこまで珍しくもない髪色だ。
しかし、上級貴族の有する色彩ではない。
血縁を重視する彼らは、基本的に、淡い色の髪と目を保ち続けている。
何にも例外はあるが、彼が悪魔の召喚法を知っている可能性は低い。
(まぁ、知ってるならわざわざ探したりしないか。彼の性格上、私を騙してるなんてことは無さそうだ)
彼女がそんなことを考えているとはつゆ知らず、少年は興奮した声で叫んだ。
「すごい! 古城の壁画が特別公開されてる! 残り一時間だぞ!!」
少年は今にも走り出しそうだった。
犬の尾でもついていたら、捻挫するほど振っていただろう。
「あなたの旅なんだから、いちいち私の許可はいらないでしょ」
「えー、でも一緒に行動する人の意見も聞かねぇと」
「……せっかく良いこと言ってるんだから、遺跡から視線を外して、目を合わせなさいな」
「えっ!」
「無自覚か」
ヴィーはくすりと呆れた様子で微笑んだ。
「情報収集なのよね? 却下する理由が無いわ。さっさと並ぶわよ」
「よっしゃー!」
シオンは嬉しそうに両腕を上げた。
壁画のある小屋の前には、すでに人の列ができていた。
煉瓦造りのこの小屋自体は、昔の儀礼場だったそうだ。
当時の文化の再現なのか、何やら香が焚きしめられているらしい。
「……なんか、嗅いだことある香りね」
「甘松と沈香か? それ以外はわかんねぇ」
「あら、詳しい」
「ちょっとかじったことがあってな」
少しずつ人が入れ替わり、最前列にたどり着くと、肝心の壁画が目の前に広がった。
今にも手が届きそうな距離に立って、シオンは微かに違和感を抱く。
壁画に描かれているのは、巨大な鯨と、その背に乗った一人の男だ。
端の方には槍を持った兵士達の姿もある。
鯨の背の男は、一人だけ豪奢な衣装で描かれている。
恐らくかつての権力者なのだろう。
壁画の半分以上を鯨が占めており、青みがかった黒で塗りつぶされていた。
なぜ海洋生物の鯨が、高山の壁画に描かれているのか、説明板には特筆されていなかった。
なんでもこの壁画は、かつてここで暮らしていた、先住民族の神話と関係しているらしい。
慎重に観察してみると所々ひびや破損がある。相当古い物だ。
(…………なんなんだ? この違和感)
隣にいるヴィーを見やると、彼女もどこか厳しい表情をしていた。
「なんか変だったな」
「ええ。うまく言えないけど」
遺跡から少し離れて、彼らはそっと口を開いた。
揃って首をひねるも、互いに納得できる理由は出てこない。
下手に悩むよりは話題を変えようと、シオンはにぱっと笑った。
「そういえば宿はどうするんだ? もうとってあるのか?」
「今日着いたばかりだからまだよ。あなたは……まだよね」
「おん! 同じところにするか?」
「集合するのに楽ね。そうしましょう」
中心部だと宿泊代がかさむため、彼らは郊外を訪れた。
運良く安い宿を見つけることができ、彼らは各々の部屋へと入って行った。
少女は荷物を置いてから、まずは着替えることにしたらしい。
なにせ山を登って来たばかりだ。せめてタオルで体を拭いておきたい。
そうしない内には寝台に座りたくなかった。
清潔な白シャツを羽織って、ボタンを下からとめていく。
何気無く、彼女は胸の控えめな膨らみを一瞥した。
「全然育たないわね……?」
どうでもよさそうに呟いてから、荷物の点検に行動を移す。
中身を取り出して確認していた時、急にノックの音が響いた。
警戒しながら扉を開けてみると、呆然とした表情のシオンが立っていた。
思わずヴィーは肩の力が抜ける。
「あら、何かあったの?」
「……わかったかもしれねぇ」
「うん?」
「さっきの違和感の正体」
「……説明してくれるかしら」
部屋の中に招き入れ、少女は備え付けの椅子に腰掛ける。
少年はおもむろに床であぐらをかいた。視線を漂わせつつ、彼は話し始める。
ヴィーには話しながら考えを整理してるようにも見えた。
「壁画自体に変なところは無かった。ただ、あの壁の厚みがおかしいんだ」
「厚すぎるってこと?」
「多分、壁画がわん曲してる」
先ほどの絵の見え方を思い出す。
言われてみれば、中央部だけやけに近く感じた。
「継ぎ目の位置でもないのに。まるで、あの後ろに何か物体があるみたいだ。いや、みたいじゃない。あるんだ。何かが隠されてる」
「隠す?」
「儀礼用だから、人は頻繁には立ち入らなかったはずだ」
「まあ、でしょうね」
「あそこは何かを隠すには絶好の場所なんだ」
「それが、あなたの探してる悪魔だと?」
「わからねぇ」
少しずつシオンの口元がつり上がる。
「わからないから、たまらない……」
人前だからか、にやけた顏を手で隠しているが、こぼれ落ちた言葉は広がっていく。
少女の柔肌を冷や汗が滑った。
(まるで恋する乙女だ)
その比喩は、シオンという人間の本質を当てていた。
彼は無敵気分で、猪突猛進で、なおかつ盲目なのである。
そうなれる対象が無い人間からは、狂って見えるほどに。
「……あ、今日の夕飯どうする?」
「切り替え早くない?」
その日の夜。
ふと目を覚ましたシオンは、起き上がって腰に二本のナイフをさげた。
青白い月光が、眩しいぐらい室内に差し込んでいる。
彼は革製の鞘から、黒い刃物を抜き取った。
今のご時世では貴重な、黒曜石のナイフだ。
架空の相手を想定して、避けるような仕草を繰り返してから、ナイフを心臓の前で構える。
一連の動作は、考え事をする際の習慣のようなものだ。
目をつむってゆっくりと深呼吸をする。
巡る思考の中心は、例の壁画のことであった。
もし悪魔が壁画の裏にいるなら、隠したのはそのマスターだろう。
最も、悪魔であっても無くてもシオンにとっては興味深いことだ。
(問題はどう検証するかだな)
貴重な壁画を壊すことは、人類にとって重大な損失である。
シオンも歴史学を学ぶ端くれ。それぐらいはわかる。
せめて間近で触れられたら一番早いのだが、限定された時間帯しかあの部屋に入れない。
公的な調査なら見せてもらえただろうが、正式な調査志願書の発行には数年かかる。
(こっそり潜り込むか? でもヴィーがいるしなぁ)
シオン一人で、壁画や小屋を壊さない保証があれば、迷わずにそうしただろう。
しかし第三者がいる以上、話し合って決めるべきだ。
これからは彼女との二人旅になるのだから、意見の食い違いは最低限にしたい。
少年は形をなぞり終え、ナイフをしまって寝台に横になる。
彼が悪魔探しの旅を始めてから約二年。
こういった安い宿の寝台の固さにも慣れてきた。
野宿に比べれば格段にましである。
(……野宿は野宿で楽しいけど)
薄い枕に顔半分を埋めて目を閉じる。
張り詰めていた緊張が解け、彼はすぐに寝息を立て始めた。
まだ随分と幼さの残る、あどけない寝顔だった。
翌日、ヴィーの持っていた携帯食で朝食をとる。
棒状のその携帯食は栄養こそあれ、味はわずかな塩気のみで、食感もぼそぼそとしていた。
正直シオンの好みではないが、せっかく分けてもらったため黙々と食す。
口内に残った分は、水筒のレモン水で流し込んだ。
「壁画のある小屋は開いてないみたいだな」
「午後に開く可能性もあるわ。様子を見ましょう」
「なぁ、この後の行動について、少し話さないか」
「いいわよ。ちょうどよかったわ」
ヴィーは優しく微笑んで、言葉を続ける。
「あなたは嫌がるかもしれないけど、どうにかあの小屋に侵入できないかと思ってるの」
思わず、シオンは盛大に吹き出した。
「何よ汚いわね」
「いやぁ……やっぱり俺ら気が合うな!」
「は?」
――狭い宿の一室で作戦会議が始まる。
カロニア町の地図を広げて、二人は小さな頭をつき合わせた。
「目標はここだな」
万年筆で小屋の所に丸をつける。
さらに、そこから宿までの距離と、正規の登山口までの複数の経路を書き込んだ。
「いよいよ犯罪じみてきたわね」
「そう感じられるなら、まだ感覚は正常だぞ」
小屋の入り口の位置と広さを書き加える。
一旦万年筆を閉まって、シオンはヴィーに笑いかけた。
「というか、ヴィーも普段こんな感じじゃねぇのか? 宝物を探すんだろ?」
「……あなたの中で怪盗と発掘屋は同じくくりなのかしら?」
「違うのか?」
ヴィーは首を左右に振る。
「まるで別物よ。財宝発掘屋の仕事は収集家に近いわ。財宝や遺物みたいな珍しい物を探し当てて、そしてそれを『保全する』」
「保全?」
「そう。それができないなら、発掘屋を名乗る資格はないわ。私達は破壊者であってはならないのだから」
「ふーん」
興味があるのかよくわからない返事をして、シオンは本題に戻った。
「……深夜に見回りしてるよなー、多分」
「観光客が多いし、最低限の人員はいるでしょ」
「古城の近くに警備隊の隊舎があるんだよなぁ」
「あなた叱られてたものね」
「それは忘れてくれ……」
「絶対に嫌。あなたが忘れる前にまた掘り返すわね」
「なっ、性格悪いぞ!」
その後も時折休憩を挟みつつ、話し合いは順調に進んで行った。
「もうこんな時間か。なんか飯買ってくる」
「私の分も頼んでいいかしら。もう少し考えたいの」
「いいぞ。後払いな」
やけに上手い鼻歌を歌いながら、彼は宿の近くにあるパン屋に向かった。
昼過ぎだからか、客足もまばらだ。
バターがたっぷり練り込まれた塩パンに、甘辛く煮た肉そぼろのサンドイッチ、おやつとして木苺と胡桃のスコーン、揚げたての辛口カレーパン、それらを二組ずつ買う。
新作の味見までさせてもらい、ホクホク気分で買い物を終えた。
不意にシオンの目に本屋のワゴンが写った。
ひやかしのつもりで覗き込むと、中々に品揃えがいい。
「おぉ……あの絶版本まで……」
できれば店内もじっくり回りたいが、カレーパンが冷めてしまうのは惜しい。
少し悩んでから、彼は『楽園少女』という雑誌を買った。
きっと他の本とは縁が無かったのだ。そう自分に言い聞かせて、パンの入った紙袋を抱え直す。
「しっかしこのパン美味そーだな!」
たれた涎を拭って宿屋へと走る。
階段を上っている間に、結局我慢できずサンドイッチを咀嚼した。
「ふぁふぁいまー(訳・ただいまー)」
「食べるのもう少しだけ待てなかった?」
「ちょーふまい! (訳・超上手い!)」
「あっそ、それは良かったわね。いくらだった?」
そう聞くと、少年は指で四二〇と作って見せてきた。
「あら安い」
硬貨を手渡し、紙袋を受け取る。ヴィーは試しに、塩パンを小さくちぎって口に入れた。
それを見はからって、少年はこっそり麻袋に雑誌をしまう。
しかし案の定表紙が見えてしまっていた。
「……それ読んでるの?」
『楽園少女』は美容・服飾系の記事や少女小説が載っている雑誌だ。
男性読者も一定数いるが、彼女には彼が読むイメージが無かった。
「い、いや俺じゃなくて……お土産っていうか」
「お土産?」
当然の疑問に、シオンは曖昧な笑みを浮かべる。
彼のそんな顔はヴィーも初めて見た。
本人が話しづらいことを無理に聞く気はない。彼女は食事に集中することにした。
今夜は食事をする余裕があるかどうかわからないのだから。
警備隊員の足音だけが響く古城の遺跡。
雲ひとつない夜空には、昇ったばかりの月と星々が輝いていた。
灯りを掲げて、怪しい輩がいないかと警備隊員は目をこらしている。
観光地では人が集まる分問題も起きやすい。
しかも問題が発生すると、原因とは関係無くとも、観光地そのものの評価が落ちてしまうことが多い。
カロニア町は観光産業が貴重な収入源だ。警備に力が入るのも頷ける。
しかし、灯りの光が城壁から遠ざかった瞬間、崖側から人影が二つ現れた。
彼らこそ隊員が警戒している怪しい輩そのものであった。
「……意外とバレないものね」
「崖にしがみついてる奴がいるとは普通思わねぇからな!」
「普通じゃない自覚があったの?」
「良し、行くぞ」
「おいこらっ、無視するな」
小声で会話を済ませ、小屋の近くまで一気に近づく。
ちょうど一人の隊員が南京錠の施錠をしているところだった。
隊員の姿が見えなくなってから、入口の前に駆け寄る。
「あなた解錠はできるの?」
「一応な。見張っててくれ」
「何秒?」
「十秒」
腰のウエストポーチから、専用の工具を取り出す。
本人の宣言した時間通りに、硬い金属が擦れる音と共に、小屋の扉が重々しく開いた。
巡回の流れを観察したところ、次この場に人が来るのは約二時間後だ。
それまでに調査を終えねばならない。
人がいないためか、小屋の中はやけに寒かった。
「高山地帯の夜なめてたわ……」
ヴィーは二の腕をさすりながらひとりごちる。
その間にもシオンは壁画から一歩引いて、手帳に何やら書き綴っていた。
見たところそれもウエストポーチに入れていたようだ。
後ろから覗くと、壁画を丁寧に書き写しているところだった。
「結構上手じゃない」
「ありがとう…………よっし、終わった」
少年は手帳を閉じて壁画に近づく。
麻袋から取り出した水準器を慎重に当てて、端から中央へ歩いて行った。
初めはぴったりとくっついていたが、中央部の少し前で急に隙間ができた。
「おん、やっぱり俺の目がおかしいわけじゃねぇよな?」
「ええ」
「念のために外側が曲がってるかどうか確かめて来る!」
「いってらっしゃい」
彼は数十秒もしない内に帰ってきた。
「どうだった?」
「外側は普通だったぞ。あと、警備隊が通りかかってびっくりした」
「見つかってないでしょうね」
「多分大丈夫」
「多分って何よ」
嘘がつけない彼は、時々人が不安になることを言う。
建前であっても断言できないことは、「絶対」と言いたがらないのだ。それは確かに彼の美点の一つだが反応に困る。
そんな思いを込めて、ヴィーは肩をすくめた。
彼の方は好奇の眼差しで壁画を見つめている。
不意に、音が聞こえた。
もしかしたら彼らにだけ聞こえたのかもしれない。最初は機械音のような耳障りだった。
しかし、収まったかのように思えた次の瞬間、
『――ふざけるな』
誰かの怒りが、流れ込んできた。
聞き取れたその一言だけで、脳が沸騰するような感覚に襲われる。
「う、ぁぅ」
耐えきれず、ヴィーはその場にへたり込んだ。
同時に壁画の表面に亀裂が走る。
「あっぶね!」
後ずさってから見上げると、壁画の中央が完全に崩れ落ちていた。
見る限り経年劣化のようだ。
表面が剥落し露わになった壁には、数字とも文字ともつかない記号で構成された図形が広がっている。
「……魔術陣、かしら」
普通なら見る機会も無い、悪魔を召喚した際に現れる円。
学校の教科書にも一部分の写ししか載せられていない。
写しである以上、それが正確かどうか保証もない。
その完成形が今この場にある。
しかし、悪魔らしき姿は見当たらなかった。
「みたいだな」
崩れた石片を避けつつ近寄って、シオンは陣に触れた。
「全然読めねぇ……そもそもこれは言語なのか?」
「ちょっと! そんな不用意に——」
ヴィーの抗議が終わる前に、彼らは波に飲み込まれた。
仄暗い深海のような場所でシオンは目を開く。
手足を動かそうとしても、重たい水をかくようで上手くいかない。
けれどどうしてか居心地は悪くなかった。
(魔術陣があったってことは、つまり)
この状況が悪魔と関連しているのは間違いないだろう。
試しに周囲を見渡すが、自分以外は見当たらなかった。
(ヴィーは無事かな……まあ、並大抵のことは平気だろうけど)
ふと、自分の首に触れる者がいることに気がついた。
(っ! いつの間に)
首にまとわりつく手をつかもうとするも、体が一切動かせない。
相手の顔は揺らいでよく見えないが、どうやらシオンよりも年下の少年らしい。
徐々に少年の手に力がこもっていく。
これくらいで窒息死することはないが、シオンは少し焦りを感じた。
先ほどの怒号とは全く違う声で少年が告げる。
『ごめん』
そう言った彼のもう片方の手には、小さな鉄製の斧が握られていた。
控えめな装飾があるのを見ると、おそらく武器用の手斧だろう。
まっすぐに伸ばされた、シオンの左手めがけて、斧が振り下ろされる。
金属の冷たさと、それを吹き飛ばすような熱気が体を走った。
その熱が腕を切り落とされた激痛であると、少し遅れて頭が理解する。
「う、ぐっ、あ、あああああぁぁぁぁぁっ!!」
思わずシオンが絶叫した直後、少年は焼死体になった。
「ぅぁあ、は、ぁ?」
気がつけば、切られた腕は元どおりになっている。
焼けただれた少年の体が、少しずつ水に流されて削れていった。
彼は半分無くなった顔のまま口を動かす。
『ごめんよ——××××。君がせっかく』
少年は涙を流していた。
それに呼応するように、シオンの両目から雫が溢れる。
必死に手を伸ばして、足で水を蹴って進もうとしても、少年には届かない。彼の名前を叫びたいのに、なんと呼んだら良いのかわからなかった。
急流に押されて、少年との距離が急速に広がっていくーー
がばっと石の床から跳ね起きる。
すぐ隣でヴィーも痛む頭を持ち上げた。
「今のは……」
そう呟きながら、シオンは自分の顔を袖で拭った。涙は出ていなかった。
両手で顔を覆い、深く深く縮こまる。
「シオン? あなたも」
あの空間にいたのかと聞こうとした時、顔を覆いながらシオンは呟いた。
「……鉄の武器は、今こそ当たり前の道具だが、昔は裕福な奴しか持てねぇ代物だった」
彼女ははっとした顔で魔法陣の方を向いた。
少年は立ち上がって、ゆっくりと両手を剥がしていく。
「あの子がおまえのマスターだな。悪魔」
本人はただ見ているだけなのだが、地の底から轟くような声のせいで、まるで睨んでいるようだ。
その圧のせいで、ヴィーは彼の声量を注意しそびれた。
シオンは一歩、一歩、魔術陣へと歩み寄る。
「そんであれはおまえの記憶か? 精神世界か?」
剣吞な足取りで魔法陣の前に立ち、
「『ふざけるな』はこっちのセリフだ」
左の拳握りしめ、思い切り叩きつける。
「……なら」
「ちょ、シオン?」
混乱するヴィーの眼前で少年はぽつりと声をこぼした。
壁に爪を立てて、何もいないそこを睨みつける。
「抱え込んだもんを吐き出したいなら、中途半端なとこで止めてんじゃねぇよ! 直接名乗って、ちゃんと全部ぶつけに来い!」
少年の叫びは止まらない。
「俺はシオン。おまえの話を聞くためにここまで来た! 逃げも隠れも見捨てもしねぇ!」
突如、魔法陣がまばゆい光を放つ。
強風が二人に吹きつけ、砂埃が舞い上がった。
続いて、落ち着いた若い男性の笑い声。
そっと目を開いた先で、一人の青年がシオンの手のひらを掴んでいた。
「随分と言ってくれるな。人間」
茶色の毛並みが揺れる。
人間に近い姿、しかしそこには獣の耳と尻尾があった。
人の耳の辺りには髪の毛があり、それの存在は確かめられない。
鋭い瞳でシオンを見下ろして、人間に似た何かは口を開く。
「――十二の悪魔が一人。暴食のアクルト。ここに」




