ぴかぴかドキドキバスルーム
「フウカに、頼みたいことがあるのだが」
奇妙なルームシェアが始まって一週間ほど経ったある朝のこと。
朝食の席で疲れた顔のダニエルに言われ、風花は首をかしげた。
「醤油とろうか? それともソース?」
ダニエルは異世界の、しかもこちらでいうところのヨーロッパ的文化圏の人なのに、醤油をいたく気に入っている。目玉焼きにかけるのはもちろんだし、サラダにマヨネーズと一緒にかけるのも好きなようだ。
風花は目玉焼きをつつく箸を止めて、醤油さしをダニエルに差し出した。けれども、ダニエルはそれをやんわり手で制した。
「いや、ショーユではなく他のことだ」
「他のこと?」
ダニエルの口から醤油という単語が出てくるのは、まだ慣れないなと風花は思う。
異世界間の交流にも関わらず言語の隔たりがないのはダニエルの魔術による調整のおかげなのだ。けれど、醤油のようにあちらの世界に存在しない単語は翻訳されずにそのままになるらしい。
風花はしばらく手を止めて待った。でも、ダニエルが話し出す気配はない。
「……ダニエル、昨日は徹夜だったの?」
よく見れば、ダニエルの目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。これでは、端正な顔が台無しだ。
「そうだな。自らの意思で夜を徹したわけではなく、巻き込まれたというか、眠らせてもらえなかったというか……」
「誰に? その言い方だと、研究しててってことじゃないんだよね?」
いつもはハキハキして理路整然としているダニエルの歯切れの悪さに、何か事情があるのだろうと風花は感じ取った。
「そうなんだ。友人に私の最近の私の暮らしぶりについて詳しく話せと言われて。話したら話したで『ダニエルばっかりずるい』とか『研究にかこつけて破廉恥なんじゃないか』と責め立てられたんだ」
「暮らしぶりって、今こうして私の部屋とつながっちゃってること?」
「そうだ。『何で都合よく女の子の部屋とつながるんだ? 絶対に狙っただろ』とまで言われてな」
「あー……」
ようは、ダニエルは友人たちに「リア充爆発しろ」と言われたのだなと風花は理解した。
ダニエルは魔術学院の研究室に籍を置きつつも、学院でいくつかの講義を受け持っているのだという。だから、学生の頃と同じ寮に住み続けているから、交友関係や付き合い方も変わっていないのかもしれない。
「友達は、出会いがないからダニエルのことが羨ましいってこと?」
「そういうことだ。しかも、異なる世界の異性となると羨ましさの度合いも違うらしい。頼みたいことは、そのことなんだが……」
本題に戻り、ダニエルは再び口ごもった。視線はずっと、ほとんど手つかずの目玉焼きに落とされている。よほど言うのをためらっているのだろう。
でも、この話の流れで次に話題にされることなど、簡単に予想できてしまう。
「その頼みたいことって、私の女の子の友達を紹介してほしいってことかな?」
「……すまない。端的に言えば、そういうことなのだが……フウカやその友人を貶める意図は決してなく……」
ダニエルは自分の発言をよほど恥じているのか、もごもごと口ごもった。
風花にとっては、男性の知り合いに自分の女友達を紹介することも、合コンをセッティングすることもわりとあることだ。だから、何の抵抗もない。
けれど、ダニエルにとってはそうではないらしかった。
「私の世界では、友人同士で出会いの場を作ったりすることはよくあることだよ。それに、ダニエルが私を貶めようとしてるなんて思わないし」
「そうか。それならよかった」
風花が言うと、ダニエルは心底ほっとした顔をした。それを見て、風花はダニエルの誠実さを感じた。
ダニエルはきっと、自分の友人に言われたからといって風花に女の子を紹介させることに抵抗があったに違いない。それがまるで、物扱いしているように感じられたのだろう。それがわかって、風花は何だか優しい気持ちになる。
「二人くらいなら、紹介できると思う。何てたって異世界の男の人と引き合わせるんだもんね。理解と耐性がある子じゃないと」
善は急げと、風花はスマホを操作して連絡先からめぼしい二人を見つけだした。
現在恋人がいないことをはっきり把握していて、不思議なことに耐性がありそうな友人となると限られているから悩まなかった。
「えーっと……『最近どう? 地球の男に飽きてない?』でいいかな。これで食いついてきたら、詳細を連絡しようっと」
風花は手早くメッセージを打つと、残りの目玉焼きとトーストをコーヒーで流し込んで席を立った。
「今日も朝食ありがとう。じゃあ、休日出勤いってきまーす」
「休みの日に、大変だな」
「でも、定時には上がれるから。お夕飯を食べながら、私の友達とダニエルの友達の顔合わせのことを相談しようね」
本当なら今日は週末で、風花はダニエルとゆっくり異世界交流するはずだった。けれど、仕事があるのは仕方がないし、ダニエルには風花の部屋でテレビを見てもらっていればこちらの世界の情報は入ってくるはずだ。その他の電化製品の使い方もこの一週間でダニエルはマスターしてしまったら、留守番してもらうのも心配がない。
「好きに過ごしてくれてていいから。何か美味しいものを買って帰るね」
「気をつけて」
名残惜しい気持ちを振りきって、風花は玄関を出た。
頭の中は、仕事を終えて帰宅してダニエルと晩酌することでいっぱいだ。
ダニエルが日々ささやかな魔術を見せてくれたり語ってくれたりするお返しに、風花はこちらの世界の美味しいものをたくさん食べさせてあげたいと思うのだ。家事は得意ではないから手料理は難しいけれど、その代わりに美味しいお酒やおつまみのことなら教えてあげられる。
(やっぱり食べさせてあげるなら、和っぽいものがいいよね。スルメ? 焼き鳥? アジのみりん干しもいいなあ)
会社に着いて仕事を始めてからも、風花は何を食べるかばかり考えていた。風邪で休んだぶん滞った業務をカタカタ片づけながらも、日本酒を飲むなら? 焼酎を飲むなら? チューハイを飲むなら?と飲むお酒に合わせておつまみを考えてしまったりもしていた。
休みの日に働くのは嫌だけれど、休日出勤の良いところは嫌いな課長がいないところだ。課長は上司として何割は正しいことを言うものの、残りは雑用を押しつけてきたり嫌味を言ったりすることで構成されている。だから、いないほうが仕事ははかどるというわけだ。
(どうせなら、あっと驚くようなものがいいね。……そうだ!)
ダニエルが絶対に食べたことのないものを思いつき、風花はホクホクとしながら定時退社を目標にパソコンと向き合った。
「ただいまーダニエルー」
「おかえり、フウカ。手を洗ってうがいをしてきなさい」
「はーい。あ、これ、お土産ね」
帰宅すると、玄関までダニエルが出迎えてくれた。ザ・魔術師なローブを脱いでシャツの袖をまくっているところを見ると、もしかしたら夕飯の支度をしてくれていたのかもしれない。
「……お?」
お土産の箱を開けてダニエルがどんな顔をするだろうかと考えてルンルンで洗面所に入った風花は、そこの変化に驚いた。
入居して三年目。住み始めてこの方ろくに掃除をしてこなかった洗面所の水回りは、水垢やら何やら汚れきっていた。それが今、信じられないほどきれいになっているのだ。鏡のくもりはなくなり、蛇口の金属部分も覗き込めば姿が映るほどピカピカになっている。
「もしかして……わあーすごい! お風呂もきれいになってる!」
バスルームを見ると、そこもきれいになっていた。水垢はもちろん、なかなか落ちない黒カビも、繰り返し発生するピンク汚れも、何もかもすっきりしている。
「ダニエルー! お掃除してくれたんだね! ありがとー!」
「テレビで水回りの掃除の特集をやっていてな。ちょうどこの家の浴室が汚れていたから掃除しただけだ。それより、この箱の中身は……?」
リビングへ行くと、そこではテーブルの上に置いたお土産の箱を見つめていた。開ける前から独特の香りがしていて、それに惹かれているらしい。
「開けてよかったのに。――じゃーん! これはたこ焼きといって、すっごく美味しいんだよ」
お行儀の良いダニエルは、風花が開けるまでずっとお土産には手をつけないだろう。それがわかったから、風花は厚紙でできた箱をパカッと開けた。
「……タコヤキ? この丸い物体は、タコでできているのか?」
「ううん。小麦粉を水で溶いたものに刻んだキャベツとタコを入れて焼いてあるの。それに香ばしくてちょっぴり甘いソースをきて、鰹節っていう魚の粉と青のりっていう海藻を乾燥させたものをトッピングしてあるものだよ。冷めないうちにって思って急いで帰ってきたから、まだホカホカだよ」
初めて目にする食べ物に興味半分戸惑い半分な様子のダニエルに、風花は爪楊枝に刺してたこ焼きをひとつ差し出した。ダニエルはそれをおそるおそる受け取り、口に運んだ。
「……うまい!」
咀嚼してすぐ、ダニエルは目を見開いた。その顔を見れば、嘘偽りなくこの味を気に入ったことがわかる。
「でしょ? で、このたこ焼きに合う飲み物が、これなんだよねー」
誇らしい気持ちでにんまり笑い、風花は冷蔵庫から缶ビールを取り出してきた。
風花の中で、たこ焼きにはビールが合うのだ。レモンやグレープフルーツのさっぱりとしたチューハイもいいけれど、やっぱりビールだ。
「たこ焼き、気に入ったなら全部食べちゃっていいよ」
風花はたこ焼きをひとつつまみ、くっとビールをあおった。
「ありがとう。……フウカの国には、こんなに美味しいものがあるんだな」
しみじみ言って、ダニエルはたこ焼きとビールを堪能した。目をキラキラさせて食べる彼の姿を見て、風花は嬉しくなる。
「あ、お鍋に何か作ってくれてる。何だろー?」
「牛肉とトマトを使った煮込みだ」
「ありがとう。ビーフシチューみたいで美味しそう」
蓋を開けると、そこにはシンプルでありながらもとても美味しそうな料理があった。何かに使おうと適当に買っていたトマトの水煮缶と、炙って塩胡椒してお酒のつまみにしようとしていた牛肉が、こんなに素敵なご馳走になるなんてと、風花は感激しながら鍋に火を入れ直す。
鍋を温める間に、朝食用に買っておいたバケットを少し切り分けて皿に乗せる。白米を炊いてもいいのだけれど、今日はその時間も何だか惜しい。
「すごいねえ。ダニエルは魔術も使えるし、こんなに美味しい料理も作れちゃうなんて」
食卓につき、牛肉のトマト煮込みをひと口食べて、風花は頬に手を当てた。そんなに良い肉だったわけではないはずなのに、時間をかけて煮込まれているのか、少し噛むだけでホロリと崩れるのだ。ビールとも合う。白ワインや日本酒とも相性が良さそうだ。
「フウカは、本当に美味しそうに食べるな。そう言ってもらえると、作りがいがある。でも私は、このたこ焼きという料理に今、とても奥深さを感じている」
八個中七個たこ焼きを平らげて、ダニエルはしみじみと言う。料理好きな人の興味が刺激されたのだとわかって、風花は微笑んだ。
「でも、たこ焼きって家でも作れるものなんだよ。……そういえば、うちにもたこ焼きのプレートあったんだ!」
どこかに仕舞われているものの存在を思い出して、風花はキッチンの収納を漁った。
数回使っただけのそれは、シンクの下の収納の奥で眠っていた。
「あったよ! これで家でたこ焼きを食べられるね! コンセントにつなぐだけでプレートが熱くなるから、テーブルで作りながら食べられるの」
風花が外箱からたこ焼きプレートを取り出してテーブルに置くと、初めはダニエルも嬉しそうにしたのだけれど、それをしげしげと眺めてから眉間に皺を寄せた。
「フウカ、これはきちんと洗っているのか?」
「んー? どうだったかな」
「……洗おう」
低く呟くと、ダニエルは杖をひと振りして水泡を生み出し、たこ焼きプレートをじゃぶじゃぶ洗い始める。
「おー……食洗機の術だあ。いつも洗い物までありがとう」
「フウカは、どうやら居住空間をきれいに保つのが苦手なようだからな」
「……ご迷惑おかけしてます」
ルームシェアを始めてから、風花の部屋はダニエルによって居心地良く保たれている。
忙しいのと元々そういったことが得意ではないから、最低限の掃除とごみ捨てくらいしか風花はこれまでできていなかった。でも、サクサクと手際よく何でもできてしまうダニエルを見ていると、忙しいというのは言い訳だと気づかされる。それに、申し訳なくなる。
「あの、ダニエル。今日、お風呂はシャワーじゃなくてお湯を溜めて入る?」
せっかくきれいにしてもらったことだし、ゆっくりお風呂に浸かって疲れを取ってもらおうと、風花はそう提案した。バスタブにお湯を張るだけだけれど、それが風花にできる精一杯のねぎらいだから。
それなのにダニエルは難しい顔をして、かすかに震えていた。
「……そ、それは、私とフウカが、一緒に入るということか?」
「別にどっちが先でもいいけど……って、そういう意味じゃないの! 違うのよ! やだ……恥ずかしい」
一緒にお風呂に入ろうと誘ったと受け取られたのだとわかって、風花は赤面した。クールなはずのダニエルまで、頬をかすかに染めている。
「そうか……違うのならいいんだ。では、先に入らせてもらうことにする」
「あ、ちゃんとお湯張りしてね! 少し待てば入れるから……」
照れ隠しなのか、ダニエルはそそくさとバスルームへ行ってしまった。
「い、一緒に入りたかったのかな……?」
ダニエルが上がってくるのを待つ間、風花はずっと頬に手を当てて考えていた。そっちのほうが、ねぎらいになったのだろうかと。