黒い騎士の話。
逆巻く風は音を牽き、限界を超えて荒れ狂う。
その黒い騎士の命は尽き始めていて、誰もその結末を疑うことはない。
その手に握り続けた一振りの剣は地面を擦り、ガリガリと音を立てている。
あれだけの猛攻に耐えきり、未だに立てているその耐久力には溜め息が出た。
話さず、近寄らず、眼を向けず。
人との関わりを持たぬ彼だけに見えていた結末は、きっとこのような残虐な暴威による結末ではなかった筈だ。
願いの知れぬ者に従う道理はない。
そう言って去っていった友人もいた。
だが、黒騎士は限界を超えて尚最後の城壁に挑んでいく。
魔力を壊す毒の矢尻を避けることなく、只前へ。
只只前へ。
あれほど強固な防御を誇った黒騎士の鎧はあちこちが砕け、素肌が覗いていた。
黒騎士の振るう剣が線ならば、飛来する矢尻は点。
均衡が後者へ傾くのは必然的だった。
「余は飽きた。かように滑稽な舞踏会を見続けるのは些か疲れる」
城壁の中、玉座に座する『王』が言う。
それを侮蔑ととったのか、黒騎士が今一度剣を振りかぶる。
だが、飛来した矢尻は非情にもその剣を打ち砕く。
甲高い金属音。
「――――――――ッ!!!」
黒騎士が声亡き叫びを上げる。
それが、驚愕によるものか、憤怒によるものかは判らない。
だが、確かにいま、彼は感情を露呈した。
それを見て、『王』は必滅を誓う。
「幻想への帰路、独りでは寂しかろう。
汝の背後の雑兵共々黄泉へ送ろう。其処で己を怨むがいい。」
そして、城壁に亀裂が走る。
その中に空いた空間に束縛されるようにして封じられていたのは簡素な装飾を施された一本の槍だった。
魂に触れる音がした。
首筋に刃が迫る音がした。
それを見て、全身が危険を叫んでいた。
アレは禁忌だ。
まずい。
まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい。まずい―――――
足は動かない。
自分だけじゃない。
周りも皆動けていなかった。
『王』が神話の幻想を具現するのならば、その槍は正しく死神の眼差しだった。
―――曰く、その槍は一投で勝敗を決するという。
―――曰く、その槍を避けうる者は皆無という。
絶対命令権を持つ、神槍。
遥か北にてその名を轟かす主神の槍。
名を―――――『誓勝宣告』という。
電光は魔力を孕み、軋みを上げて穂先は黒騎士に突き付けられる。
何がアレに対抗できるだろう。
あの荘厳なまでの神の眼差しを見て、臆しない者がいるだろうか。
『王』の眼には感情……愉悦すら感じられない。
恐らく、『王』にとっては見慣れた光景で、いまや何も感じなくなってしまったのか。
皆の顔は絶望に彩られているのに。
こんなにも恐怖を浮かべていると言うのに。
歯を食いしばって顔を上げた。
今にも放たれんとする敗北の激流を睨み付ける。
こんなところで。
まだまだ先のある人生の入り口にたったばかりで。
こんなところで終わるのかと。
「失せよ道化。その面、欠片残さず消してやるわ」
遂に『王』の勝利が宣告される。
だが、その宣告に異を唱える者がいた。
黒騎士。
かの者だけは、その宣告を否定した。
「――――――――!」
再び上を向く砕けた剣先。
その剣は黒騎士の思いを背負い、輝きを纏う。
そして、絶勝の槍は解き放たれた―――――
☆☆☆☆☆
巡る記憶は断片的だ。
白い天井。細い管。送り込まれる栄養。
医師の声。親の嘆き。死の宣告。
誰も望んでなどいなかった。
当たり前だろう。こんな生かされているだけの生など、したくなかった。
自分だけではない。この世に生を受け、望まないままに生かされている誰もがそう思うだろう。
夢があった。
希望があった。
遥かな明日があった。
その悉くを否定され、奪われ。
涙は枯れた。声は廃れた。
行き場のない激情は呪いだ。
次第に我が身を焼き、命を食い潰す。
許さない、赦さない。
だからこそ、子供達かれらは祈ったのだ。
救いに現れる筈もない、英雄の訪れを―――――
世界が弛緩した。
割れた空間に渦巻く黒雷は、それだけで世界を壊すだろう。
その黒雷を纏う神槍は何れ程か。
狙うは一点、黒い騎士。
勝利の名の元に打ち出された宣告は、あまりに呆気なく黒い騎士の身体を貫いた。
終わった。
黒騎士の存在感が薄れていく。
英雄三人を相手取り、それでもなお倒れなかった黒騎士が消えていく。
あの槍に込められた勝利の宣告がこちらに牙を剥くまで、もう長くはないだろう。
黒騎士を黒騎士足らしめていた鎧が消えた。
その中にいたのは、あまりにも華奢な身体をした中性的な顔立ちの少年――少女だった。
その胸に突き立つ神槍には目もくれず、玉座を睨んでいた。
右手には、消え行く折れた剣。
敗北は確定した。
誰もがそう思った。暫くの後、黒騎士は消滅する。
だが。
「……感謝するぞ、贋神」
黒騎士は倒れない。
そして、初めての言葉を発した。
「存在意義そのものを殺す槍。触れたもの全てを無に帰す神の槍。成る程なかなか面白い」
その言葉に、『王』が狼狽する。
「この身体が消えてしまう前に呪いが消えたのは有難い。これで貴様と私は――――同等だ。」
なにを。
いって、いるの、か。
「……道化、そこまで生に固執するか」
「固執?するはずもないだろう。元来この身は想像の産物だ。生に固執する必要もない。」
だが―――と、黒騎士は言葉を紡ぐ。
眼を疑った。有り得ない。
絶対的勝利の宣告に抗う姿に英雄を見た。
なんだ黒騎士は。
「ここで私がすんなりと消えてしまっては、私の主達に顔向けが出来んのでな!」
瞬間、折剣が輝いた。
白い――あまりにも純い―――極光。
「行くぞ贋神。この一撃、覚えていけ」
『王』がその言葉に激昂する。
「よかろう、その身体、この世界と共に果てよ!」
瞬時に城壁に再装填される神槍。
先程とは比較にならないレベルでの魔力の回転。
その光が黒騎士に放たれると同時に。
剣は白銀の翼となる。
その翼に名前はない。言うなれば、病に犯され、死んでいった子供達が抱いた最後の希望や、夢。そういったモノの集合体。
迫り来る敗北の風。
その敗北に向けて。
「偉大なる―――――」(フォーグランド)
白銀の翼が振るわれる。
「敗者に捧ぐ―――――――ッ!!!!!」(リヴェリオン)
☆☆☆☆☆
捻れ曲がるは神の槍。
銀翼の剣は勝利の宣告をはね除ける。
神を怨み、世界を怨み、そして己を怨んだ子供達の想いの結晶体。
滅び行く身体に抗い、薄れ行く命火に抗い、絶対的絶望に抗った小さな勇者達の命を背負い、黒騎士は希望の剣を降り下ろす。
触れるもの全てに災いを。
犯すもの全てに抗いを。
呪いという概念の中にある、生きたいという渇望。
その思いに答えるべく、黒騎士はここにいる。
「こ、の―――道化風情が―――」
『王』の怒りは天を突く。神話の象徴、その原点。数多の英雄を育て、殺し、君臨した一柱神にこれ程までに牙を剥き、爪を立てたモノが、名も無き英雄であるなどあってはならない―――!
「くたばれ贋作の英雄がァァアアァァアァ――――ッ!!」
絶叫の果てに空は裂け割れる。
捻れ曲がった誓勝宣告が今一度赤い光を放つ。
同時に、銀翼の剣の羽が散る。
そのたびに、誰かの嗚咽が反響する。
しかし、その爆心のただなかで、黒騎士は笑っていた。
ああ―――今を、生きている。
これまで脳裏に巻き付いていた黒い影は見当たらない。
思考は完全にクリアだ。
何故戦わなければならないのかを思い出した。
思考と身体を覆っていた鎧が打ち砕かれた瞬間に。
勝つことは最早眼中にはない。
あるのは、『みせてやる』という想いだけ。
見せてやる。この想いを。
見せてやる。この希望を。
魅せてやる―――このあまりにも純真な生への憧れに―――
黒騎士の左肩が吹き飛んだ。
荒れ狂う風に薙がれただけ。それはなんと出鱈目か。
顔の左半分が焼け落ちた。
黒い雷が掠めただけ。
凄惨な有り様だった。
一、黒騎士の胸は空洞が開いている。
一、黒騎士の皮膚は焼けただれている。
一、黒騎士の顔面は半壊している。
一、黒騎士の左肩は引き千切られている。
一、黒騎士の右足は圧潰している。
一、黒騎士の腹は抉られ、臓器が零れ出している。
その万死の敗北を、生きる意思で捩じ伏せる。
ついに右腕がひしゃげた。
持ち手のいなくなった銀翼の剣は重力に身を任せ―――――――――
黒騎士の口に掬われた。
腕が無いなら足を使え。
足が無いなら口を使え。
黒騎士の身体は、もう数秒も持たないだろう。
それでもなお、黒騎士は敗北に抗い続ける―――!
「―――、――ぇ―」
不協和音。
何万もの虫が羽ばたくような声。
「か――、――せ」
それが黒騎士の言葉だと気付いた時、大地が啼いた。
それは、偉大なる敗者の――子供達の言葉。
黒騎士の口を使い、彼らの想いを吐き出していた。
『宇宙飛行士になりたかった』
『ケーキ屋さんになりたかった』
『冒険家になりたかった』
『お母さんになりたかった』
夢がある。死してなお思い描く夢がある。
その夢を叶えるため、子供達は願うのだ。
さぁ、僕らの英雄よ。
『神を、殺せ―――――ッ!!!!!』
銀翼は金翼へ。直視し難い光が瞼を焼く。
その光が収まった時。
『王』の玉座は半壊し、誓勝宣告は砕け折れていた。
そして―――
黒騎士が立っていたその場所に。
彼が最期まで握り続けた折剣が、まるで墓標のように突き刺さっていた。