赤の大竜
『待て。その剣を動かすな!』
一瞬、その声が誰の声だかわからず、混乱しかかったトキトだったが、しかしすぐにこの竜が話しかけてきている事に気が付いた。
「お前がしゃべっているのか?」
トキトは、いつでも剣を薙げるよう準備しながら言った。
『話しているのではない。脳に直接思念を送っているのだ』
そう言われてみれば、その声は耳で聞くのとは感覚が少し違い、頭の中に直接響いてくるように感じられる。
とはいえ、そんな事は初めての経験なので、少々戸惑っている間にも竜は言葉を続けている。
『我の負けだ、もうお前に手を出すつもりはない』
確かに、先ほどまで感じていた痺れるような感覚も、いつの間にかなくなっている。
トキトは、舐められてはいけないと思い、精一杯高圧的に言ってみた。
「その言葉が本当だという根拠は?」
『信じてもらうしかない。我々は約束をたがえることはない』
もたげた首を精いっぱい捻り、トキトの目を見つめてくる竜の大きな瞳には、先ほどまで発していた恐ろしいほどの気迫はすっかり消え失せ、むしろ弱々しい光さえ宿って見える。
この竜が嘘をついていない事は、トキトにはなぜかわかっていた。
『それにしてもこのタイミングで閃界の門が開いたのか…。今回の閃界人はよほどの幸運を持っていると見える。ラオドークの竜将…』
竜のしゃべる内容が、良くわからない方向へと進んで行きそうなのを感じ、トキトはその前に大事な事を言わなければと強引に話に割り込んだ。
「待ってくれ。手を出さないのが誓約と言うのなら、俺だけでなくそこにいる二人と犬にも手を出さないと約束してくれ。それと、我々は突然ここに放り出されて困っている、我々に協力することも約束して欲しい」
トキトの言葉が聞こえたのだろう、シオリとイチハが岩陰から顔を出した。
気が付くとパムはすでに見える所まで出て来ている。
二人はこの状況が理解できていないようだった。
トキトと竜を交互に見あげ、言葉を失っている。
トキトが独り言をしゃべっている様にしか見えなかったからだ。
『今回は三人いや三人と一匹か。珍しいな』
竜が話し出すと、二人は大きく目を見開いた。
どうやら、二人にも声が聞こえるようにしてくれたようだ。
『ほう。女が二人もいるのか。女は美味いからな、この誓約は残念だ』
竜はシオリとイチハのいる方をチラと見て、その後軽く首を振ってから話を続けた。
『いや、なるほど、なかなかいい条件を出す。それに面白い。ここのところ面白い出来事が無く、ちょうど退屈ていた所だったのだ。よし、わかった、お前の言う条件は呑もう。ただし、我に命令できるのは我の背に乗っているお前だけだ。それと、我は今かなりの深手を負っている。特にお前の剣が今刺している傷は深い。だから、この場でできる要望にはすぐに応えるが、呼ばれていくようなものはしばらくは無理だ。それでよければ約束しよう』
トキトは大きく頷いた。
トキトには一部理解できない内容も有ったものの、その内容は概ね異存の無いものと判断できた。
自分達の安全さえ保障してもらえればそれでいいと考えていたからだ。
『汝らの名は?』
「俺はトキトだ。そして、そこにいるのはシオリとイチハ、それに犬のパムだ。」
トキトは剣をまだ竜の首に突き刺したまま、シオリとイチハの事を目で指し示した。
『わかった。我、赤の大竜レンドローブは、汝らトキト、シオリ、イチハ、パムには今後一切手を出さない。加えて我はトキトの命ある限りその命に従う。この二つを今ここに誓約する』
トキトにしてみれば、命令に従う所までの要求をしたつもりはなかったのだが、そこまでしてくれると言うのなら言う事はない。
これで安全が確保されたのかどうかはまだ良くわからないが、この際信じるしかないだろう。
だが、トキトは不思議とこの大きな赤い竜の言うことは信じられる気がしていた。
シオリとイチハもそう感じたのか警戒の色が随分と薄くなっている事が窺える。
トキトは少し安堵して、剣を握る手の力をゆっくりと抜いていった。
『悪いがトキト、早くその剣を抜いてくれないか。その傷はお前が思っている以上に深い。このままではお前が命じても我はお前を助けることができなくなる』
レンドローブの声は更に弱々しくなっている。
どうやら本気で危ない状態になっているようだ。
「悪い。すぐ抜く」
さすがにまずいと思い、慌てて剣を抜こうとするトキトに、レンドローブが注意を促してくる。
『傷口を広げないように注意して抜いてくれよ』
わざわざそんな事を言って来るという事は、下手に剣を抜き傷口を広げると致命傷になりかねないという事なのだろう。
トキトは注意深くまっすぐに剣を抜いていった。
最後まで抜ききると、レンドローブは上に乗るトキトを気付かいつつも、ゆっくりとその場に躰を横たえた。
剣を抜き去った後の傷口からはトクトクと血が流れ出ている。
「悪かった。大丈夫か?」
悪かったというのも変なのだが、不思議とそんな言葉が口をついて出た。
トキトはシオリとイチハのいる所まで戻っていく事にした。
その際、改めてレンドローブの躰を良く見てみたのだが、躰は全体が立派な鱗で覆われていて、少なくともそう易々とは刃物は通りそうもない。
こんな硬そうなものによくも剣を刺せたものだと、我ながら感心する。
『すまないが、今晩はこのまま休ませてくれないか。ディーエでファロファロの連中に闇討ちされたのをなんとか返り討ちにしたと思ったら、今度は閃界人に急所をやられ誓約までさせられるとはな…。本当に今日は最悪だ。我は三千年以上生きてきたが、今日ほど最悪な日はない』
良くはわからないが、どうやら閃界人というのは自分達の事を言っているらしい。
「三千年も生きているの?」
ふと気が付くとイチハがレンドローブに問いかけている。
まだシオリにしがみついたままではあるが、調子はだいぶ戻ってきたらしい。
レンドローブは閉じていた瞼を少しだけ持ち上げて、答えた。
『そうだ。我等の寿命はお前たち人間よりもはるかに長い。興味があるのなら後でたっぷり話してやってもいい。ここ何十年かはほとんど誰とも話していなかった事だしな。だが、いまは少し休ませてくれ。五日もあれば回復できるだろう、それまで少し待っていてくれ』
言いつつ、ゆっくり瞼を閉じようとするレンドローブに、シオリが慌てて質問する。
「待って。あなたが寝ている間、私たちは何を食べていればいいの?」
確かに、それは大事な事だ。
ぱっと見、此処には食料がないのだ。
レンドローブが起きるのを待つにしても、その間食べるものがないのでは待つ事は出来ない。
『お前たちは運がいい。お前たち人間なら、我の血を一度飲めば十日は何も食べなくても平気なはずだ。本来は我ら成熟した竜は血を流すことなどほとんどない。だからその血などめったに飲めるものではないのだが、トキトの刺した傷からはしばらくは血が止まらないはずだ』
言いつつレンドローブは少し恨めしそうにトキトの事を覗き見た。
そしてそのまま先を続ける。
『だからその血を飲めばよい。その効果から人間はもちろん魔族の者でさえどんな犠牲を払っても手に入れたいと願っている代物だ。それを思う存分飲めるのだからお前らは本当に運がいい』
レンドローブは言い終わるとゆっくりと目を閉じた。
思う存分なんて飲む気はないのだが、飲まない訳にもいかない様だ。
シオリはまだ何か言いたい事が有る様にも見えたのだが、レンドローブが目を閉じた事で諦めたのか、結局何も言わなかった。
「これ取ってあげるね」
対してイチハは、そんな事などお構いなしに、レンドローブの尾の辺りに刺さっていた槍の一本を、身体全体を使って力いっぱい引き抜き始めた。
そして、尻もちをついて倒れつつも、何とかそれを引き抜いた。
『小娘。それは助かる。我はもう眠る事にするが、他のものも取ってもらえるとありがたい。回復も少しは早くなるだろう』
レンドローブは目を瞑ったままそれだけ言うと、それ以降はもう動かなくなった。
「小娘じゃないよ。イ・チ・ハ。 でも、わかった。やっとくね。だから、早く良くなってね」
イチハはすっかり友達と話すかのように明るく話しかけている。
レンドローブはもう反応していない。
あっという間に眠ってしまったようだ。
イチハのこの性格は武器だよな、等と密かに考えていると、
「ほんとイチハは大物かもね」
言いながらシオリが近づいてきた。
「ありがとう。おかげで助かったわ」
シオリの表情は変わらないが、声は少しだけ柔らかくなったように感じられる。
シオリはシオリでお姉さんとして今まで何とかイチハを守ろうと気を張っていたのだろう。
それで少し気が抜けたのだ。
しかし、トキトは、ありがとう、と言われる様な事をした覚えはなかった。
なので、あの時自分が考えていた事を正直に白状してしまう事にした。
「いや、実は俺はシオリやイチハにありがとうなんて言ってもらえるようなことなんてしていないんだ…。あの時、俺がこいつに向かっていったのは、目の前で人が死ぬのを見たくなかったから。俺が先に死ねば二人の死ぬところは見なくて済むからね。つまり、自分の都合だけで出て行っただけだから、ありがとう、なんて言わなくていい」
結果的に助かったのは幸運が重なったからで、奇蹟だとしか言いようがない。
普通ならまず飛び出したトキトがあっさりと殺られ、その後シオリもイチハも食べられていた、と考えるのが普通だろう。
実際、レンドローブは、女は美味い、などと言う言葉も吐いていた。
シオリは少しの間トキトの事を黙って見つめていたが、やがてやはり表情を変えずに言った。
「そんな事はないと思うわ。トキトがいなければ全員殺られていたのは間違いないもの。だから、あの時のトキトの判断は正しかったし、私達がトキトに助けられたのも事実。…だから、ありがとう。……。でも、……、すごく怖かった」
言っている間に一瞬だけ感情を高まらせた様子のシオリだったが、すぐに抑えて元に戻した。
「トキトー、シオリー、手伝ってよー。これなかなか抜けないんだからー」
イチハが二本目の剣を引っ張りながら叫んでいる。
「シオリ、行こう」
あの時はシオリもさすがに怖かったのだな、等と密かに思いながら、トキトはシオリを誘ってイチハのいる方へ向かって走り出した。