イチハの決意
しかし、今すぐにでも出発しかねない勢いのトキトを、今までは黙って話を聞いているだけだったトーゴが引き止めた。
「いや、今ニトラへ向かうのはやめた方がいい」
その断定的な口調に、トキトがトーゴを振り返ると、トーゴはトキトの目を見て続けた。
「イチハを連れてきた後、一人で街道が見える二つ向こうの山まで行ってきた。そこからならシオリさん達が落ちたというあの峠は見えないけど、その一つ手前の山は見える。その山の麓の当たりから夕餉の煙が上がっているのが見えた。追手のものとは限らないが、その可能性も無いとはいえないだろう。だとするとニトラへ向かうのはリスクが大きすぎる。それよりは山伝いにファロンデルムに抜けた方がいい」
「ファロンデルム!?」
トキトの横で大きな声が上がった。リーナだ。
リーナが驚くのも無理はない。ファロンデルムはエルファール南部の大都市で、トールからだと街道を使って、いくつもの街を通って行かなければならない程遠い場所なのだ。
トキトは地図を確認してから言った。
「確かに、ニトラへ抜けるのを諦めるとファロンデルムに向かうしかないのだろうけど、そっちは街道に兵士が大勢待ち受けているんじゃないか?」
トキトはどうせ追手と出くわすのなら、まだ人数が少ないと思われるニトラに向かう方がましではないかと考えたのだ。
そんなトキトの質問に答えてくれたのはソウゴだった。
「確かに今現在遭遇する兵士の数でいえばニトラへ向かった方が少ないだろう。だが、たとえ変装をしていたとしても、お姫様の事を捜索している兵と出会えば、きっと誤魔化し切れないに違いない」
お姫様と言う言葉に反応したのか、リーナは一瞬何か言いたそうにしたが、結局黙っていた。
そんなリーナには構わず、ソウゴは続けた。
「一方、ファロンデルムは国境にも近いし隣国ユルとの交易の窓口だ。当然兵士も多いが、ここの兵士はお姫様が近くにいるとは思っていない。今みたいに髪を染めていれば風の民として街に入ることもできるだろう。身分証明も期限付きのものなら俺が発行できる。それを持っていればよほどのことがない限り捕まる事はないはずだ」
「だが、仮にそれはそうだとしても、ファロンデルムまではかなりの距離だ。街道にはトールに向かって来るリーナの捜索部隊がうようよいるんじゃないのか?」
ソウゴの言う事は尤もだが、それはあくまでファロンデルムの街まで行く事が出来ればと言う話だ。
途中の街道はそうはいかない。
「誰が街道を行くって言った」
そう言われて少し考えたトキトはリーナと目を見合わせた。
「まさか……、ファロンデルムまでずっと、あのけもの道を行くっていう訳じゃないだろうな」
「なに、トキトはもう慣れたようだし、お姫様とイチハちゃんは俺とトーゴがいれば問題ないだろう。半月も歩けばファロンデルムに着くさ」
はあ、と思わず息を漏らしてしまうトキトだったが、確かにそれが最善なのかもしれなかった。
たとえ街道に出たとしても、端から馬車に乗れる保証はないのだ。
「ちょっといいかな…」
何か言いかけるイチハを見て、自分をちゃん付けで呼ぶのはやめて、と言うのかと思い、身構えたトキトは、続くイチハの言葉に驚いた。
「……私、ここに残っていいかな……」
イチハは恐る恐る窺うように言い、トキトとリーナを交互に見つめた。
別行動など考えた事もなかったトキトだったが、冷静に考えるとシオリもここに残るのだし、ならばイチハもここにいた方がいいようにも思えてくる。
だが、リーナを助けたいと最初に行ったのはイチハだ。
今はトキトもシオリもそう思っているが、というかそれ以外考えられないが、初めはイチハの思いに二人が従ったのだ。
当然、リーナを助けたいという思いは一番強いものがあると思っていた。
「私、このままじゃみんなの役に立てないような気がするの」
弱気な発言に、トキトが否定の言葉を口にしようとするのを、イチハは手で遮るようにして続けた。
「私ね、もっと魔法を覚えたい。もっと強くなりたいの。みんなの役に立てるように。だから、ユウリお姉ちゃん、私に魔法を教えて」
突然話を振られたユウリは最初少し驚いた様子だったが、すぐに落ち着いてイチハに向かう。
「私が知っている魔法なら教えてあげるけど、たとえそれができるようになったとしても自分の身を守ったり、相手をやっつけたりするのには大して役には立たないの。ごめんね、イチハちゃん。私じゃ大きな魔法は教えられないの」
俯いてしまったイチハをパムが慰めている。
そんなイチハを見たユウリは目を瞑ってなにやらしばらく思案していたようだったのだが、ふいに目を開けるとソウゴに話しかけた。
「兄さん、私、イチハちゃんをウルオスに連れて行ってあげてもいいかな。私ももっと魔法を覚えたいと思っていたし、あの近くにまだ様子を見に行っていないところがあったのも思い出したの。もちろんシオリとルーが治るまではここにいるけど。その間はイチハには魔法の基礎を覚えてもらえばいいと思うの。それなら私でも教えられるもの」
ユウリはそう言いながら自分自身で納得するように頷いた。
ソウゴは少し考えてから、
「そうだな。まあ、それもいいか。ユウリがもっと魔法を覚えてくれればこっちも助かるしな。だが、それだとお姫様を助けるのには間に合わんぞ。それでもいいのか?」
ソウゴは今度はイチハに向かって問いかけた。
が、その質問には、イチハが答える前に、トキトが答えた。
「いいよ。イチハがそうしたくてそれにみんなが協力してくれるなら、それはやった方がいい。シオリも元気になったら追いかけて来てくれると思うし、こっちは二人で何とかする。俺達、リーナを助けたら終わりっていうわけじゃないだろ。イチハが魔法を覚えてくれれば、後々きっと助かるはず。間違いない」
潤んだ目でトキトを見つめていたイチハはリーナの前へと進み出た。
「リーナ、ごめんね。でも、このままじゃ私足手まといにしかならないと思うの。だから、私強くなりたいの」
「ううん。私の方こそ頼ってばかりでごめんなさい。私もイチハなら大魔法使いになれると思う。だから、いい考えだと思う。頑張って欲しい」
「ありがとう、リーナ」
リーナはイチハの手を両手で包み込むようにして握りしめた。
イチハもリーナの手を握り返している。
そんなやり取りを横目に見ながら、ソウゴはトーゴと何やら小声で話していたが、やがて二人で大きく頷き合うとトキトの方へと向き直った。
「今までの話からお前達の動きを整理すると…、
お姫様とトキトは明日にでもファロンデルムに向かい、その後エルファールを目指す。
シオリとルーは傷が治るまでここで休み、イチハは二人が治るまでは一緒にここにいて、その後はウルオスへ向かう。…で、いいのか」
「そんな感じになるかな」
「なら、お姫様の道案内はトーゴに行ってもらう。俺はここに残り、お姫様の追手にここを嗅ぎつけられた場合に備える。ユウリはシオリとルーが治るまで二人を治療しつつイチハに魔法を教える。回復したらファロンデルムまで二人を送りつつ、ユウリはそのままイチハを連れてウルオスに向かう。状況次第だが、追手が手におえないようならトキトに合流できるまで俺達がシオリとルーに付き合ってやってもいい。あまり深入りしたくもないが、ここまで来たら仕方がない」
「ありがとう。そこまでしてくれると言うのなら、こちらにはそれ以上言う事はない。逆にこちらができることはないか?」
ソウゴの好意に一方的に世話になってばかりでは申し訳ないと思ったトキトは、可能な事なら何でもするつもりで言った。
「そうだな、もし、事が無事に終わったら、トキトには、……シオリと一緒に我らの里まで一度来てもらいたい。イチハはウルオスに行くのでは無理だろうからな。せめて二人には我らの里を見てもらいたい」
「そんな事でいいのであれば…、もちろん行かせてもらう。 他にはないのか?」
「それだけでいい。その時は迎えのものを寄越すのでよろしく頼む」
トキトは、もっときちんとしたお返しがしたいと思ったのだが、いくら待ってもソウゴはそれ以上は何も言わなかったので、それでいいのだろうと思う事にした。
すると今度はそれまでずっと黙って話を聞いていたリーナが恐る恐る口を開いた。
「私は何をお返しすれば良いでしょうか?」
そういえば確かに、ソウゴはリーナに対して、まだ何も要求していない。
「お姫様は別に何もしてくれなくてもいい。だが、将来お姫様が新しい国を興すようなことがあれば、その時は我らの国を認めてもらいたい。まあ、ずっと先の事になるだろうがね」
そう言われたリーナは少し驚いた様子を見せたものの、すぐに首を横に振った。
「私は国を興したりなど全くするつもりはありません。私は、もし兄に許されるのなら、もっといろいろな世界を見てみたいと思っているのです。始まりの国ベイオングや白の国、それに世界の屋根の向こう側にも行ってみたい」
憧れるように遠くを見るリーナを、ソウゴは少し冷ややかな目で眺めている。
「まあ、それならそれで構わない。我々とて国を興すか否かもまだ碌に定まってもいないのだからな。お互いにそういう時があれば、と言う話だ」
確かに、この先何が起こるかなど誰にもわからない。
リーナに関して言えば、今はこの先の命すら保障されていない状態なのだ。
とはいえ、リーナを理不尽な掟の縛りから解放してあげたいと願っているトキトであっても、リーナが冒険家の真似事をするのはどうかと思える。
とても向いているとは思えないし、出来るとも思えない。
それに比べれば新しい国のお姫様に収まった方がはるかにしっくりくる。
「そうだよ。もしかしたらお兄さんに領土のどこかを任されるかもしれないしさ…」
その言葉を聞き、リーナは一瞬、何か言いたそうにしたように見えたが、結局、それを言うのは止め、
「…、そうね。その時には国交でも結びましょうか」
そう言って、話を合わせると、にこやかにほほ笑んでみせた。
その微笑みは完璧なもののように見えた。
「ところで、あの二人には誰が言うんだ?」
少しして、トーゴがシオリとルーの寝ている部屋を指差し、言った。
確かに、二人にもきちんと伝えなければならない。
「俺が言うよ」
トキトはゆっくりと立ち上がると、二人の寝ている部屋の入口の扉に手を掛けた。