二人の女の子
トキトの目の前には、見た事のない風景が広がっていた。
赤茶けた土の地面には、公園のような整えられた砂利ではなく大きさもバラバラな石や岩が転々と転がっていて、所々に初めて見るような木が生えている場所もある。
木といってもさして大きくもない低い木だ。
地面から引っこ抜かれたままの状態で横たわっている倒木もあちこちに転がっている。
最近倒されたような木もあれば、かなり昔からそこにあったと思われるものまで様々で、苔むし朽ちているような相当古そうなものまであるようだ。
いずれにしても、これらは何かものすごい力で引き倒されたものだと推測される。
それだけでもかなり異様な風景だと思うのだが、それ以上に異様なのは、トキトが今いるこの場所全体が、巨大な壁に囲まれているという事だった。
壁の高さは三百メートル以上はあるだろうか。
東京タワーの高さくらいの崖が、直径五十メートルくらいのほぼ円形に、自分たちのいる場所をぐるりと取り囲んでいるのだ。
壁の表面は岩を縦に割いたかのような縦に長い岩の柱で、それが幾つも連なって出来ている。
その表面には多少の凹凸はあるようだが、よく見ると上に向かうにつれ内側に少し反り返っていてとても登っていけそうな感じはしない。
つまり巨大な穴の底に閉じ込められている、と言って差し支えない状況だ。
トキトがその巨大な壁をただ呆然と見上げていると、
「パムを返して!」
女の子の鋭い声がすぐ近くから聞こえ、トキトはそれで我に返った。
慌てて手元を見てみると、茶色の犬が苦しそうにくーんくーんと鳴いている。
どうやら、トキトは思った以上に犬をきつく抱きしめてしまっていたらしい。
急いで犬を地面に下ろし、謝ろうとしたのだが、トキトがその言葉を発するか発しないかというタイミングで、女の子はトキトの腕からひったくるようにしてその犬を奪っていった。
その女の子がトキトの事を睨んでいる。
「ごめんね、なんかびっくりしちゃって思わず力が入っちゃったみたい」
トキトがそう謝ると、女の子は少しだけ表情を緩めた。
「突然飛び掛かったのは、パムが悪かったと思うわ。でも、そんなにきつく締めなくてもいいでしょ。苦しそうじゃない。」
「いや、ほんとごめん。でも、ほら…」
言いながらトキトが周りを指し示すと、女の子は初めてそれに気が付いたというように、大きく目を見開いた。
「なに、これ。……。どこ、ここ」
女の子は犬の事ばかりを気に掛けていて、周りの事には気が回っていなかったようで、今になって驚いている。
「うーん」
その時、足元から別の女性の声が聞こえてきた。
見ると、パムを奪い返していった女の子の足元に、ベージュのダウンジャケットを着た高校生くらいの女の娘が倒れている。
女の子がお姉ちゃんと呼んでいたあの娘だ。
その娘の片足にはパムのリードが絡みついていて、しかもそのリードを彼女は両手でつかんで引っ張っているので、恐らくパムはその所為で余計に苦しくなっていたのではないかと思われる。
その娘の方からすれば、とっさだったので何かを掴まずにはいられなかったのだろうが、パムにしてみれば災難だった。
「おねーちゃん。だいじょうぶ」
女の子がその娘に声をかけている。
たった今呆然としていたはずなのに立ち直るのが早い。
トキトは、女の娘の存在には気が付いていたのだが、どう話しかければいいかわからず、実は困っていた所だったので、この機会をうまく使って声をかけてみる事にした。
「大丈夫…ですか。…怪我はありませんか」
すると、その娘は頭を何度か振りながら体を起こし、絡まったパムのリードを無言で脚からはずしてから立ち上がると、ジャケットの下からのぞくスカートの裾をぱんぱんと叩いてほこりを落とした。
そして、汚れを確認しているのだろうか、スカートの後ろを確かめながら言ってくる。
「大丈夫です。……。それよりもここはどこですか」
その娘も犬の女の子同様少しも慌てた様子は見られない。
むしろ悠然とした態度のように見える。
この状況で、身だしなみを整えることを優先するのかよ、とトキトは密かに思ったが、さすがにそれを口にするのは躊躇われたので言わず、代わりに、目に入ったままの、とりあえずな返事をしてしまう。
「どこか巨大な穴の底…、か何かに閉じ込められ…、ているのか…な」
この三人の中では、恐らくトキトが一番年上だ。
しかし、にもかかわらず自分が一番動揺しているように思えてきて、トキトは心の中で、落ち着け、落ち着け、落ち着け、と落ち着けを三度唱えてみた。
そのおかげかどうかは良くわからないが、実際に少し冷静になった所で考えてみると、この状況で落ち着いている方がおかしいのではないかと思えてくる。
他の二人が慌てているように見えない所為で、危なく自分の方がおかしいと思ってしまうところだった。
女の子達は何を考えているのか、今は黙ってそそり立つ壁を見つめている。
パムもおとなしく女の子に抱かれている。
トキトは決して社交的なタイプではない。
なのでもちろん、女性と話す事にも慣れていない。
これまでも出来るだけ女性の中に自分一人が入るような状況は避けて生きてきたくらいなので、こんな状況下でも、できる事ならば早々にどこかへ消えてしまいたいという気持が既に頭をもたげ始めていたのだが、さすがにこんな場所では逃げる場所など見当たらないし、かと言って、この沈黙の空気も耐え難かったので、意を決して自分から話しかけてみる事にした。
「僕の名前は、トキトっていうんだけど。君達はここがどこかなんて分か…ら…ない…よね…。」
しかし、せっかくの決意も尻すぼみになってしまう。
が、それでも何とか、二人の話を聞く事には成功した。
倒れていた方の女の娘の名前は、シオリ。
近所の高校に通う高校三年生なのだそうだ。
あまりじろじろとは見られないので、窺うようにそっと見てみると、ウエストの辺りを同色のベルトで締めたベージュのダウンジャケットに紺色のスカート。
黒いタイツに短めの茶色のブーツを履いている。
髪型は、背中までかかる黒髪のロングヘアー。
前髪を眉のあたりできれいに揃え、端を少し横に流した感じのストレートの髪がさらさらとして美しい。
少し暗い印象はあるものの、顔だちも整っていて美少女と言って良さそうだ。
あと数年して色気が出てくれば完璧だろう。
犬を連れた女の子は、イチハ。
小学四年生だという事だ。
服装は、真っ赤なダッフルコートにチェックのスカート。
長めの白い靴下に薄いピンクのスニーカーを履いている。
そして、手に持った長く伸びるリール式のリードの先に茶色い柴犬パムをつないでいる。
耳の上あたりでまとめたツインテールの髪がかわいらしい。
表情や言動からも、明るい女の子であることがわかる。
「あっちの方へ行ってみよーよ」
イチハが普通に言ってくる。公園で遊んでいた時と変わらない明るさだ。
公園にいる時は、そんなイチハを、ただ見ているだけで和む事が出来たのだが、今はもうそういう訳にはいかない。
今は、ここが何処なのかすら分からない状態なのだ。
「う、うん。でも、行くなら皆一緒の方がいい。…だから、一緒に行こう。ね、シオリさん」
ここはみんな一緒に行動した方がいいという思いから、トキトはシオリを誘ってみた。
トキトにしてみれば、こんな一言を言うだけでもかなり勇気を振り絞っている。
しかしシオリの方は、そんな事は全く気にしていないようだった。
「どこに行こうがあまり状況は変わらないと思うけど…。それと、私を呼ぶ時はシオリでいい。年上にさん付けされるのには違和感があるから」
トキトとしては、年下とはいえ、初対面の女性の名前を呼ぶのはかなり照れくさい。
というより今まで女の子を名前で呼んだ経験など無い。
なので、少しだけ抵抗してみる事にした。
「初対面で呼び捨てにする方が違和感あるけど」
「私のことは周りの大人はみんなシオリと呼んでいる。だから、そんな事は気にしなくていい」
シオリの言い方は抑揚が無く平坦なので、トキトからすると、シオリの機嫌はいいのか悪いのか、よくわからない。
それに女の子に対して失礼とは思うのだが、シオリは雰囲気が何となく怖い。
「わたしも、イチハでいいよ。お兄ちゃん」
そこへイチハが入ってくる。
会話が続かなくなりそうな所だったので、これは正直助かった。
「わかった。じゃあそう呼ばせてもらうよ。…とにかく、なにかここがどこだかわかるようなものを探してみよう」
そんな風に言いながらもトキトは思考を巡らせていた。
とにかくこの状況を何とかしなくてはいけない。
自分一人ならまだいい。一人なら最悪はどうなっても自分だけの問題だ。
しかしここには年下の女の子が二人もいる。
こんな状況で、自分だけすべてを投げ出して逃げてしまうわけにはいかないだろう。
とにかく何とか人のいるところまでは行かなくては…。
それに二人と少しは打ち解けられればいいな、という思いもある。
何しろここにはこの三人しかいないのだ。いや、三人と一匹か。
二人の女の子は、トキトの指示に従って、もう既に動き出している。
そんな彼女達の後ろ姿を眺め、トキトは密かに決意を新たにしていた。