隣の世界へ
この公園のシンボルともいえる時計塔から、軽やかなメロディーが流れ始めた。
見ると、時計の針は十時を指している。
あちこちに人の気配も増えて来て、それと共に静かだったこの公園にも次第に音が満ちてくる。
つい少し前までここには自分以外に誰もいなかったはずなのだが、その時の静けさはもはや感じられなくなっている。
こんな所に一人きりでいる所など、あまり他人に見られたいものではない。
そう思ったトキトは、場所を変える事にした。
しばらくの間座っていたベンチから、意を決して立ち上がる。
その際、トキトは意図せず「よいしょ」と、声に出してしまっていた。
まだとても年を取ったとは言えない年齢だというのに、誰か他人に聞かれていたらと思うと恥ずかしい。
反射的に俯いてしまっていた顔を、恐る恐る上げていくと、幸いにして声が届くほどの距離には誰もいないようだった。
さっきの声は誰にも聞かれていなかったと考えてもよさそうだ。
ホッと胸をなでおろし、と同時に何の気なしに時計塔の方向へと目をやると、その瞬間、時計塔の根元のあたりが微かに光ったように見えた。
が、それはほんの一瞬の出来事で、もう一度よく見てみても、もう光はなくなっている。
そこには他と何ら変わりのない穏やかな公園の風景が広がっているだけだ。
何故だか少し気になったものの、きっとその辺りに落ちていたガラスの欠片か何かが光っただけなのだろう、と思う事にしたトキトは、先程考えた通りにこの公園から出て行くつもりで、出口に向かって歩き出そうとした。
しかし、頭では確かにそうするつもりでいたはずだったのに、気が付くと足は時計塔の方へと踏みだしている。
なぜそちらに向かって歩き出してしまったのか、トキト自身良くわからない。
が、踏み出した足の勢いは止まらない。
そのまま軽い混乱状態で歩いていると、すぐ横から少女の叫び声が聞こえてくる。
「危ない! 避けて、お兄ちゃん!」
その声に反応し、慌ててその声のした方向へと振り返ると、それとほぼ時を同じくして、お腹の辺りに衝撃が走った。
見ると、お腹に茶色の柴犬がしがみついている。
そういえば、ついさっき目の前の広場でこの犬が女の子と遊んでいる所を見ていたのだった。
その犬がなぜ今自分のお腹にしがみついているのだろう、と、少々困惑していると、すぐ近くで別の声がして、それで意識を引き戻された。
「ちょ、ちょっと待って。待ちなさい!」
声の主は、通りかかった高校生くらいの女の娘だ。
その娘は犬に向かって叫んでいるようなのだが、しかし、何故か自身はその場所から動かずにいる。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。待って、パム!」
女の子が謝りながらそのお姉ちゃんの脇を走り抜け、トキトの方へと駆け寄ってくる。
小学校の高学年くらいの女の子だ。手には伸び縮みするタイプのリードを握っている。
よく見ると、リードは伸びきっていて、それが通りかかったお姉ちゃんの足に絡まり締め上げている。
その所為でお姉ちゃんは動けなくなっているらしい。
トキトはふと、お腹の犬が強く体を押し付けてきている事に気が付いた。
その姿は何かに怯えているようにも見えなくはない。
一体何があったのだろう。
そう思ったその時、
カッ!
強烈な光が辺り一面に広がった。
先程の小さな光とは比べ物にならない、眩しくて辺りが見えなくなるほどの大光量の光が辺り一帯を包み込む。
わずかに遅れて地面も波打つように大きくうねり出した。
トキトは反射的にお腹の犬をきつく抱きしめてしまっていた。
犬の方も驚いているのかされるがままになっている。
すぐ近くでは、小学生の女の子がリードの持ち手を握りしめ、倒れ込まないようにと必死になって堪えている。
お姉ちゃんの方はバランスを崩したのか、既に片方の膝を地面につけた状態で、その態勢で脚に絡まったリードを掴み、それ以上は倒れないようにと、何とか踏ん張り耐えている。
光は彼女達のさらに向こう側、時計塔の方向から渦を成してやってきている。
眩しさに抗い、顔を上げたトキトは、その光の発生源を探ってみた。
すると、光っているのは時計塔ではなく、その少し前に置かれた記念碑の辺りだという事がわかってくる。
青白い光が記念碑の石を中心に放射状に広がっているように見えるのだ。
トキトは目を細め、手で光を遮る様にしながら、さらにその光の中心を注意深く覗いてみた。
しかし、残念ながらそれは上手くいかなかった。
ちょうどその時、身体がふわりと浮かびあがり、まるで上昇気流にでも乗ったかのように急速に昇っていく様な感覚がして、今まで立っていたはずの地面が光源ともどもトキトの足元に吸い込まれる様に消えてしまったからだ。
見下ろすと、遥か下に、今までいた公園がその外周の街並みともども球状に歪んでいくのが見える。
不思議な事に自分たちの身体は宙に浮いた状態だ。
良く見ると、その珠の周りにもいくつもの別の珠が並んでいる。
と、その時、それまでずっと鳴りつづけていた十時の時報のメロディーが、突然大きく乱れ始めた。
振り返ると、少し前にこの公園に入ってきた若いカップルとそのさらに向こう側を駆け抜けていこうとしていた男子高校生が、それぞれ宙に浮いた状態のまま、時計塔から放射状に離れていき、小さくなって消えて行った。
直後、トキトの身体もそれとは反対方向へとゆっくりと流され始め、そして次第にその流れが加速していく。
猛スピードで離れていく時計塔を眺めながら、トキトは不思議と落ち着いていた。
あっという間に時計塔は見えなくなり、気が付くと足元の珠ももはや足元とはいえない位置へと離れてしまっている。
こんな状況の中では、どうすればいいのかわからないし、どうする事も出来ない。
まるで激流に飲み込まれてしまったかの様な激しい流れの中、妙に意識がはっきりしていたトキトは、この間に、どういう経緯でこんな事になってしまったのか、思い返してみる事にした。