六月二二日
六月二二日、水曜日、放課後の校舎裏、人気のない一画にスミレは居た。緊張と不安で小刻みに震えている。
悪魔部でいわれて通り、スミレは昼休みにメールを出している。文面も、一言一句間違えてはいない。
成功すると保障されている儀式だが、後戻りの出来ない一発勝負に、平静ではいられなかった。
「ほ、ほ、ホントに、だ、だ……だめ、じゃなくて、大丈夫なんだよ、よ、よよね」
スミレは自身の送ったメールの文面を何度も確認して、大丈夫上手くやってる、と言い聞かせる。
しかし体の震えを治まらない。
「あ、あ、あ、悪魔、部の、言うとおりにしたんだから、大丈夫」
自身を鼓舞するように、震える足を地面に叩きつけた。体中の震えが治まる。
携帯電話を胸に抱き、スミレは大丈夫と心の中で言いつづけた。
でも、とスミレの口から不安が漏れる。
「悪魔部を信じてよかったのかな?」
スミレの不安に答えてくれる人はいない。
「と言うか、あんな噂に踊らされてここまでやっちゃうなんて、馬鹿かも、私」
この数日間の行動を思い出し、スミレは両手で顔を覆う。
耳まで真っ赤に火照らせて、スミレは羞恥と後悔でもだえ苦しむ。スミレの背中にかかる程長い髪がのた打ち回り、身体を怪しげにくねらせる。
気が済むまで、身体をくねった所で、スミレは両手を顔から離した。
「と、とにかく、やっちゃた事は仕方ないんだよ。き、き、き、今日、私はコウセツ君の恋人になるんだ」
スミレは胸に手を当てると、大丈夫、と小声で自分に言い聞かせ続ける。
息遣いは荒く、必死に酸素を貪る唇は青色に染まっている。
土踏む音が聞えた。音は次第に大きくなっていく。
誰かが近づいてきている。
乱れた髪を整えようとポケットに常備している手櫛を取り出そうとするが、指先が振るえうまく掴めない。
手櫛がポケットから零れ落ちた。
スミレは慌てて手櫛を追いかける。しかし、焦りすぎていたのだろう、つま先で櫛を蹴ってしまった。
手櫛は回りながら、地面を滑る。
スミレの視線が手櫛の軌道を追いかけ、白い清潔感溢れるスニーカーに行き着いた。
胸が大きく鼓動を打つ。胸が破裂してしまいそうなほど、激しく強い。
爪先まで綺麗に磨かれている指が手櫛を拾った。スミレの瞳は手櫛に合わせて、上へ向かう。
そして手櫛を拾った相手の顔を見た。
清潔感有るこざっぱりとした印象の少年だ。瞳が大きく、輪郭も柔らかい。良く言って童顔、悪く言えば女顔の少年である。
少年の顔を見た瞬間から、スミレの体中で血液が暴れまわる。汗腺のバルブが壊れたように汗が止まらない。
「こ、こ、コウセツ君!」
スミレは少年の名前を、裏返った声で叫んだ。
「はい、スミレさん」
少年、コウセツは手に取った手櫛を笑顔で突き出す。
「あ、あ、ありがとう」
スミレは大切な宝物を貰うように両手で手櫛を受け取ると、胸元に抱きしめる。
ほのかに宿るコウセツの温もりを逃がさないように、手櫛を両手で覆い尽くした。
「大切なものなの?」
「え、あ、う、うん」
コウセツの問いに、スミレは真っ赤になって頷く。口が小さく、たった今から宝物だよ、と動いたが、コウセツは、そうなんだ、と気のない相槌を打つだけだ。
「ありがとう、コウセツ君」
スミレは、蕩けるような笑みをコウセツに向けた。
「別に大した事してないよ。それより、話したい事って何?」
照れたように頬をかきながら、コウセツが笑う。
「え、えとね。その」
手に持った手櫛をいじりながら、スミレは懸命に言葉を紡ぐ。
「こ、コウセツ君、す、す、す、すすす、水曜日に家に来ない? この前言ってた『風邪と共にちり紙』のDVD買ったんだ。一話から一六四話まで、親がはまっちゃて」
スミレは乾いた笑みを浮かべたまま、まったく関係ない話を振った。
スミレの頭の中はオーバーヒート、今日が水曜日である事も忘れ去っている。
「え、あれ買ったんだ! DVD四一枚セットで六万円の格安セット!」
コウセツが目を輝かせた。
「いいなぁ。
ぜひ見せてよ。風邪ちりの四五話、『権兵衛、緑の狸になって山南さんに覗きを決行する』、あれが好きなんだよねぇ。
特にカップ麺に扮装した権兵衛を妖怪と間違えた仲間がさ、山南の風呂を覗くとは切腹よ~、て陽気に歌いながら、目を血走らせて山狩りしてる所がすっごく馬鹿らしくてね」
コウセツは楽しそうに、風邪ちり話を始める。
スミレは心の中で、違うよ、と自分に突っ込みながら、話を合わせた。
「あ、うんうん、その後でさ、妖怪じゃなくて権兵衛だって分かったら、今度は志道不覚悟切腹よ~、て歌いながら近藤さんが介錯しようとする所も、バックで誠を着た皆がうらやましー、うらやましー、嫉妬の炎が胸を焼くー、てコーラスしてる所も凄いよね。何でコーラス?! と言うかぶっちゃけすぎだよ、てねぇ」
「そこに目をつけるとは、流石スミレさん。で、そのままコーラスがエンディングの曲になって、最後、ホントに首切っちゃうんだもん。ビックリしたよね」
「うんうん、特に介錯した首から血が湯水のように出て、首がどんどん青くなる様なんて、ホントに人を殺したのか! て大騒ぎになったぐらいだし」
「次の回では最初に、前回のこのシーンは全て特殊メイクで行っており、本人はこの通り生きております、て字幕が出てさ。
権兵衛役の人が、農民ルックで出て来る程やばかったからね。今でもあの権兵衛は双子説て言うのが」
「あるある。風邪ちりファンの定説みたいなもの……て、違うよ!」
スミレはコウセツの前に掌を突き出して、まったく関係ない風邪ちり話をやめようとする。
「え、違ったけ?」
コウセツは首をひねるが、直ぐに笑顔に戻った。
「あ、スミレさん、実は先に農民ルックを撮影していた説派? 残念だけどそれはないよ。
その後、一〇〇話の『原点回帰、ドキ山南さんのハァハァ稽古』の、最後のほうで走って転んだ魚屋さんが権兵衛役の人だったからね。
ちゃんとスタッフロールに出てたし、スミレさんもまだまだだなぁ」
コウセツが朗らかに笑う。嫌味や馬鹿にした所のないさっぱりとした気持ちのいい笑顔である。
本来ならずっと見ていたいスミレだが、今はそういう訳にもいかなかった。
「ううん、そうじゃなくて、私の話したいことは別にあるの」
スミレは、じっとりと汗をかいている手を握り締めて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
体が固くなって、歯の根が合わない。
断られた時の恐怖と戦いながら、スミレはコウセツの瞳を見つめる。いつもと変わらない澄んだ瞳が、スミレの視界を埋め尽くした。
「あ、あの、すすす」
「スミレさん大丈夫、何か唇は真っ青で顔は赤いし、様子も可笑しいよ。もしかして風邪?」
コウセツの手の平が、スミレの額を覆う。
それが起爆剤となり、スミレは爆発した。
「好きです。ずっと前から、好きです。私と付き合ってください!」
叫ぶと同時にスミレはコウセツの首に抱きついた。コウセツを思いっきり抱きしめる。
これがコウセツの温もりを知る最後の時になるかもしれない。そう想うと、腕の力がいっそう強くなった。
「スミレさん」
コウセツがスミレを呼ぶ。スミレの肩が震えた。コウセツは震える肩を掴むと優しく引き剥がす。
「あ」
名残惜しそうにスミレの指がコウセツを求めようとするが、うなだれる。
抱きしめ返されなかった。この時点で、もう答えは決まってしまった様なものだ。
自然とスミレの瞳に涙が溜まる。
「スミレさんの気持ち、凄く嬉しい」
コウセツは真剣な顔でスミレを見つめる。
スミレはぼやける視界の中で、コウセツの瞳を髪を忘れぬよう、目を凝す。もう、気まずくて真っ直ぐ見れないであろう顔を、これが最後と自分を騙して見続けた。
「僕も好きだ。付き合おう」
スミレはコウセツに力強く引き寄せられ、抱きしめられた。
しばし呆然と空を見ていたスミレの瞳から涙が溢れ出る。
「嬉しい。ずっと、ずっと前から、初めて会った時から好き。好き、大好き」
スミレはコウセツの背中を掻き毟る。情熱的に、しかし優しく掻き毟った。
「僕も、好きだよ」
スミレの想いにコウセツも応える。
どちらからともなく、二人の顔が近づく。
お互いの顔を瞳いっぱいにし、唇同士が触れ合った。唇の感触を刻み付けるように、吐息や唾液を貪るように、情熱的な口付けが続けられる。
その間も、スミレはくぐもった声で、好き、好き、とうわ言の様に囁き続けた。
コウセツの手がスミレの髪を梳く。その度に、スミレの身体は電気が走ったように震えた。
次第にスミレの瞳は焦点を失い。コウセツの行為に身をゆだねて行く。
途中、何か物音が聞えたような気がしたが、スミレは口内から与えられる悦びに夢中で気付かなかった。
スミレが自分の身体を支える事が出来なくなった頃、コウセツは唇を離した。二人の舌をつなぐ銀色のアーチが出来上がる。
「それじゃ、スミレさん、一緒に帰ろう」
「あ、はい」
体の芯くすぶる熱と疼きを感じながらスミレは従順に頷くが、足に力が入らずコウセツにしな垂れかかったままだ。
コウセツはスミレを抱えたままゆっくりと歩きだす。スミレはコウセツの温もりを感じながら、幸せそうにほお擦りをした。




