六月一三日
六月一三日、月曜日、昼休み、コウセツが一緒に食べよう誘うとスミレを誘った。
用事があったスミレは断腸の思いで断ると、教室を出た。廊下に溢れる人並みに乗って、スミレは校舎の外へと出る。
人の波からはずれ、並木通りにそって歩き続けた。窓に大量のポスターが貼られた部室練が現れる。
先週と変わらず、校舎の周りにはガラクタが放置されており、文化祭直前独特の空気が漂っている。
以前と変わらぬ佇まいに、スミレの心臓が強く鳴り響いた。スミレは大きく息を吸い込むと、自身の両頬を叩いて気合を入れる。
景気の良い音が響き、スミレの両頬が赤く腫上がる。
「痛い。やりすぎた」
目尻に涙を浮かべたスミレは、赤くなった頬を摩りながら部室練へ足を踏み入れた。
懐からメモ帳を取り出し、悪魔部についてと書かれたページを開く。
「悪魔部の目印は赤いビニールテープだったよね」
スミレは自分に言い聞かせる。
スミレには、どんな犠牲を払っても叶えて欲しい夢がある。しかし、有るかどうかも分からない悪魔部を全力で探している間に、夢が誰かに掠め取られては本末転倒だ。
スミレは土曜日中ずっと悩み続け、明後日の月曜日に探してなかったら諦めよう、と決めた。
非情に日本人的な曖昧模糊とした煮え切らない結論だった。
スミレは部室のドアを一つ一つ見ていく。一階、二階と下から順次探していくが、どのドアにも赤いビニールテープは張られていなかった。
「やっぱり、ガセかな」
三階まで探し終えたところで、スミレの心臓は限界ギリギリの鼓動を刻む。
心境は、落ちていると分かっている大学の合格者発表に行く学生と同じだ。常識的な結果は分かっているのに、もしかしてと期待を胸に膨らませてしまう。
四階の廊下を端から順次歩いていくが、赤いビニールテープはない。
途中、黄色や緑、青などのビニールテープで彩られたテー部という部室があり、そりゃテープ、ぶじゃなくてぷ、と小さく突っ込んだ以外、特筆する事はなかった。
「これは最後の五階に期待かなぁ?」
いささか諦めの入った心持で、スミレは最後のドアを確認する。
「ほら、やっぱり赤いテープが……ある。じゃあ、五階に行こう。この分だとやっぱり、ただの噂だったのかなぁ」
大きく肩を落として、五階に向かおうとしたスミレは立ち止まり、鬼気迫る顔で最後に確認したドアに駆け戻る。
女の子とは思えない荒い足音が廊下に響くが、気にしている余裕はなかった。
荒い鼻息を隠そうともせず、ドアに張り付いた赤いビニールテープを凝視する。震える指でテープをはがすと、その色が赤である事を何度も何度も確認した。
「あ、あった。悪魔部は本当にあったんだ。凄い、本当にあったんだ」
スミレはドアから一歩下がり、部室のネームプレートを探すが、どにもない。それどころか、今まではどのドアにも張ってあったポスターも貼られていなかった。
この場所だけが、騒々しい雰囲気が満ちた部室練において異質だった。
異質な雰囲気にスミレの興奮は冷やされていく。
スミレはドアに手をかけた所で、固まる。
このまま開けていいのだろうか。開けてしまえば、何かが終る、そんな予感が胸中にわだかまる。
唾を飲む音が、やけに大きく聞えた。
「私の思いは、間違ってない。この思いは間違いじゃない」
スミレは大きく息を吸い込むと、ドアを開ける。ドアは拍子抜けするぐらい静かに、抵抗もなく開いた。
「おじゃま、します」
スミレは恐る恐る部室に入ると、後ろ手でドアを閉めながら辺りを見回す。
部室は外から感じていたより狭く、四畳半程の大きさしかない。
チリ一つ見当たらない床の上に、机が一台置かれている。机の上にはスピーカーがある。
監視カメラが部屋の隅に見えたが、防犯用監視カメラは学園内全域に設置されている。生徒が自由に出歩く部室にあっても珍しいものではない。
中にはそれしかなかった。部屋の中は無人だ。
スミレの他は誰もいない。机とスピーカーしかないこの部室に隠れる事ができる場所はない。
「誰かの悪戯だったのか。はぁ、無駄足だったよ。コウセツ君とのご飯……」
肩を大きく落としたスミレに、スピーカーが声をかけた。
「ようこそ、名も知らぬ隣人」
スピーカーから発せられる声は、ボイスチェンジャーを使用しているのか、妙に甲高く機械的な声質だ。
「ここがなにか、今がどの時か、それは問わない。ただ、聞こう。
隣人、叶えたい願いは何だ?」
「え、声?」
非人間的な音が、日本語を使用している事に気付くまで、スミレは数秒の時間を要する。
「願いは何だ?」
スミレの様子などお構いなしに、スピーカーはもう一度聞く。
得体の知れない不気味さを感じ、スミレの足が半歩下がった。しかし、心を奮い起こさせ、その場に踏みとどまる。
しばしの躊躇い後、スミレは口を開いた。
「私、私は大さ」
「名前はいらない」
スミレが名前を名乗ろうとするが、スピーカーが遮る。
出鼻をくじかれてしまったスミレの頭は、真っ白になってしまう。
「隣人、君の願いが何であれ、君自身に興味はない。お互い、名も顔も知らない。それでこそ、安心して願えるものだ。そして、こちらも全力を尽くせる」
やんわりとした拒絶の言葉が、スミレの頭に浸透する。少しづつ、固いものを食べるように、スミレは言葉の意味を噛み砕く。
「別に、私は知られていいんだけど、どうせ願えば分かっちゃうしね」
「願いは何だ」
スミレの事を無視して、スピーカーは願いを要求する。
録音されたテープを再生させてるんじゃないだろうか、と言う疑問が、スミレの脳裏を掠める。
「それはないよね」
先ほどまでのやり取りを思い出し、スミレは首を横に振った。スミレの名乗りを邪魔したタイミング、あれは事前に準備できるものではない。
「願いは何だ」
スピーカーの声が急かす様に、同じ台詞を吐き出す。スミレはスピーカーので背筋を伸ばして仁王立ちすると、手を後ろで組み、願いを口にする。
「私の願いは、二年九組の雪村 コウセツ君を、二年九組大崎 スミレの恋人にする事だよ」
スミレは徐々に赤くなる頬を隠そうともせず、その場に立ち続ける。ここで逃げたら何か負けだ、と叫ぶ直感に従い、顔がトマトの様に赤くなっても、姿勢を崩さない。
「期限は?」
スピーカーは機械的に聞いてくる。
「いつまで雪村コウセツと大崎スミレを恋人同士にする?」
「死ぬまで、死ぬまでずっと、恋人同士でいたい」
スミレは自分でも驚くほど速く、スピーカーの問いに答えを返す。
胸から溢れ出た想いは本物だった。
初めて会った時からコウセツに抱き続けていた想い。
今までは、妄想でしかなかったが、言葉にすると重みが増したように感じる。妄想にはない現実の重さだ。その重みを心地よく受け止めながら、スミレは答えを待った。
「……恋の成就は、古来よりいくつもの方法と妨害が生まれてきた。すぐに答えは出せない、一週間後に来い。それまでに、その願い考えておこう」
「えーっ、それは酷くない。ここまで引っ張っておいて」
好物の餌を食べる直前におあずけされたネコの様に、スミレは不平をもらす。この場で答えも結果も貰えると思っていたスミレに、スピーカーの答えは納得できない。
「せっかく、来たんだから、せめて今週中にできないの?」
頬を膨らませたスミレは、スピーカーに不満をぶつけるが、答えはない。
スピーカーは沈黙を保ったままだ。再び喋りだす気配はなかった。
数分間、スピーカーを睨み続けていたスミレだが、大きなため息を吐くと立ち上がる。
「はぁ、仕様がない、帰ろう」
スミレはスピーカーに背を向けると、部室から立ち去ろうとドアに手をかける。
ドアに手をかけたまま、後ろを振り返り
「一週間後の六月二〇日、絶対に来るから、忘れないでよ」
スピーカーに向けて念を押す。
スピーカーは何も答えない。沈黙したままだ。
「絶対だよ」
スミレは沈黙するスピーカーを放っておいて、教室へ向けて歩き出す。その足取りは、羽が生えた様に軽かった。




