七月一三日
七月一三日、木曜日、ケンジは病室のドアをノックすると、返答を待たずにドアを開けた。
ベットに寝ている患者が顔だけケンジに向ける。患者の顔は全て包帯で覆われており、男か女かすら分からない。しかし、その特徴的な容姿は、包帯の上からでも良く分かった。
まず、鼻がない。そして、右耳もなかった。どちらも、本来あるべきものがある位置が平らにならされている。更に頬が左だけ陥没していた。ベットの膨らみ方もおかしい。胴体から下のふくらみが無いのだ。身長が半分に縮んだのでなければ、下半身が無いのだろう。
ケンジはその異様な姿に息を呑んだ。
患者の口から掠れた声が響く。
「ケンジか」
まるで老人の様に枯れきった声色だった。
患者から漏れる気持ち悪い空気を跳ね除けようと、ケンジは殊更明るい声で返す。
「よ、コウセツ」
空いている右手を軽く上げ、ケンジは患者、コウセツへ近づいた。
「いや、外は暑いな。もう夏だぜ」
ケンジは左手に持った果物の詰め合わせをベット脇の棚に置く。そのまま包装を剥がした。
「あ、これ、見舞いの品だけど、どれ食べる? リンゴとか梨とか柿とかあるぜ」
両手でリンゴとドリアを掲げて見せるが、コウセツから返事はない。
軽く肩をすくめたケンジは果物から手を離し、ベット横の椅子に座った。
「とりあえず、コウセツが生きてて良かったよ」
ケンジは心の底から嬉しそうに微笑む。
七月八日、この日何があったのかケンジは知らない。ただ、スミレが死んで、コウセツが入院した。その犯人がエミナである事だけ知っている。
他のクラスメートはそれすら知らない。
七月一一日、月曜日の事だ。朝のホームルームで、三人とも家庭の事情で休む、とだけ連絡があった。当然、クラスメート達は何があったのか騒いだが、誰も詳しい事情を知らない。ただ噂や憶測だけが飛び回った。
警察が事情を聞きに来なければ、ケンジも他のクラスメートと同様に何も知らなかっただろう。事件関係者と親しい友人であり、姉が被害者の一人、コウセツと恋人同士、と言う極めて事件に近い位置に居たお陰で、ケンジは警察から簡単に結果だけ聞かされた。
それで十分だった。
スミレ、コウセツ、エミナの三人の関係とそれぞれの性格を考えれば、何が起きたのか察する事は難しくない。
「こんな格好だけどな」
コウセツが掠れた声で自嘲気味に笑った。乾いた笑いだが、ドロドロとした暗さはない。
ケンジは思いの他元気なコウセツに驚いた。もっと落ち込んで、自殺ぐらい考えていると思ったのだが、存外図太い様だ。
そのサバサバとした雰囲気は、どこかの漫画の主人公の様だった。
だから、ケンジは遠慮なく刃を抜ける。
「スミレさんに比べれば生きてるだけましだろ」
一刀で病室の空気が凍りついた。
「元凶の癖に、何でまだ生きてられるんだよ?」
ケンジの冷め切った瞳がコウセツの目を射抜く。コウセツの黒い眼からは感情をまったく読み取る事ができなかった。
「ちょっとは後悔しろよ。この人ごろっブッ」
人殺しと言おうとしたケンジの顔面に、コウセツが投げた枕が直撃する。顔面に当たった枕を投げ捨て、コウセツをにらみ付けた。
コウセツは枕を投げた腕を押さえながらベットに倒れている。そして、空洞のように黒い瞳でケンジを射抜いていた。
「僕の所為じゃない」
掠れた声が怨念の様に流れ出る。
「エミナが悪いんだよ。あいつの頭が可笑しかったんだ。僕は被害者だ」
「ふざけるなっ!」
ケンジは荒々しく立ち上がり、コウセツの胸倉を掴んだ。奥歯を砕きかねない程、歯を食いしばり、真っ赤に充血した目を見開く。
まだ最低限の常識があるのだろう、振り上げられたケンジの右拳は、小刻みに震えながら宙に止まっていた。
睨み付けるケンジに対し、コウセツは酷く冷めた目をしている。
暫く視線をぶつけあっていたが、ケンジは顔をそらし、コウセツの胸から手を離した。放り投げられたコウセツの体がベットの上を跳ねる。
「まぁ、いい。今更何を言っても、スミレさんは帰ってこない」
ケンジは自分に言い聞かせるように呟く。
その呟きはコウセツにも聞こえていただろうが、反応はない。ベットの上を虫のように動き、姿勢を直していた。
「用事だけ済ませて、さっさと帰らせて貰う」
「用事?」
ケンジはポケットから白い封筒を取り出し、戸惑った様子のコウセツの上に放り投げる。
封筒を摘み上げたコウセツは、封筒に書かれた一文を読んだ。
「絶縁状」
裏返しても、宛名はない。ケンジが意図してその様な様式にした。その方が、コウセツを叩き潰せるからだ。
「ケンジは思ったより古風だね。僕達の関係にこんなの必要ないだろう」
鼻で笑うコウセツに、ケンジは暗い愉悦が膨らむ。今から自分がコウセツの憎たらしい余裕を叩き潰せると思うと、それだけで顔がにやけそうだった。
「宛名は日高サチエ」
「は」
コウセツの口から力のない振動が発せられる。魂を抜かれた様だ。
ケンジに胸の内を喜びのさざなみがさらった。
「そりゃ、まぁ、それは、確かに、なぁ、あれ?」
ひょうきんな声を漏らしながら、コウセツは小刻みに震える手紙を開封する。同級生二人と浮気して、顔を潰されて、下半身がなくなっても、自分の恋人は見捨てないと思っていたのだろうか。
ケンジの口角が僅かに釣り上がる。
「用事それだけだから、じゃあな」
ケンジはあっさりと背を向けて、病室から出た。
そのまま早足で、病院を出る。ねっとりとした熱気と肌を刺す日差しがケンジを出迎えた。
一本芯が入ったように胸を張って歩いていたが、それも病院の敷居を出るまでだ。敷地を出れば、背の高い塀が視界を遮り、病室は見えなくなる。
ケンジは大きく頭を垂れた。瞳から光が消え、頬が垂れ下がっている。疲れきった老人の顔だ。
「はぁ」
ポケットから白い携帯を取り出した。新着メールはない。六月二十九日のメール、『社会準備室にある、雑誌古代日本を適当な生徒と二人で図書室に戻せ』を最後に、携帯が震える事はなった。
「結局、これはなんだったんだろうなぁ」
ケンジは一番最初のメールを開く。
件名は『日高殿へ』、本文は『君はこの裏切りが許せるか? 許せない心があるのなら、君の願いを返信願う。君の許せない心を代償に、願いを叶えよう』とあり、写真が添付されている。写真は三枚、コウセツとサチエが一緒にホテルから出てくる写真、コウセツとエミナが裸で抱き合っている写真、そしてコウセツがスミレと仲良く手をつないでいる写真だ。
これを見た時、ケンジは顔中を憤怒の熱で燃え上がらせた。それまで心にあった諦観が全て焼け落ちてしまった。
姉と付き合いながら、エミナとも付き合い、その上スミレに手を出そうとしている男はケンジの親友だ。どんな時でも主役になってしまう何かを持った男だった。最初はケンジと同じ脇役だったはずが、いつの間にか皆の中心にいる、そう言う男だ。ケンジはその隣で指をくわえて見ていた。
親友だから、ケンジはそれで良いと思っていた。主役の隣にいる賑やかしでにも、恩恵はある。主役が食べ尽くした残りかすのようなものだが、それで十分だと思っていた。
「返信、間違えたかな」
ケンジは返信メールを開いた。
件名は『Re:日高殿へ』、本文は『許せない。コウセツを滅茶苦茶にしたい。全員と別れさせて、二度とこんなふざけた事が出来ないようにしたい』とある。
このメールを送った時を、ケンジは良く覚えている。胸を焼き尽くす不快感と脳を爆発させるような衝撃、目じりに溜まる涙と軋み音を立てる奥歯、荒々しいタイピングと止まらない指先、隅々まで記憶に残っていた。
ケンジとって、コウセツは嫌な奴である。平気でケンジの気にしている事を突っつき、格下として見下し、ケンジが後ろにいることが当たり前だと言う態度を取られていた。
それでも親友だと思っていた。嫌な奴であるが、コウセツもケンジを親友だと思っていると思っていた。
「ここで、スミレさんとの願いをお願いしていれば……」
自分の予想を吹き飛ばす為に首を左右に振る。
どう考えても、こんな事が原因の訳がない。あんなちょっとした事で、三人分の人生が滅茶苦茶になるなんて信じたくなかった。
「忘れよう」
ケンジは携帯をポケットに仕舞い込み、緩慢な動作で歩き出す。
「これは不幸な事故だったんだ。悪いのは、節操のないコウセツなんだ」
ふらふら、ふらふらと風に揺れる草葉のように覚束ない様子で、ケンジが歩道を歩いていると、前方から大きな掛け声が聞こえてきた。
「「「「リクドーファイッオファイッオ」」」」
顔を上げると、真っ黒に染まった野球部員の一団が走ってくる。日差しが強い所為だろう、少しでも日陰に入ろうと塀側に張り付いている。
ケンジは反射的に脇に寄った。
少しだけ運が悪かった。野球部員の一人がふらつく。隣を走っていた部員と肩があたり、二人はもつれるように倒れた。蟻の行進のように隙間なく走っていた野球部員達は、玉突き事故を起こしたように倒れ、そのうちの一人がはじかれ、ケンジとぶつかった。
「わっ!」
野球部員に押し倒されたケンジは、ガードレールを乗り越え、背中からアスファルトにぶつかる。鈍い痛みと焼け付くような熱気に顔を歪ませる。
苦痛に背中を押さえたケンジは、ゆっくり起き上がろうとして、甲高いクラクションを浴びせされる。何だ、と思い顔を横に向けると、猛スピードで走ってくる乗用車が見えた。既に双方の距離はなく、激突は回避不能である。
「は」
周囲の動きが緩慢になった世界でケンジは力を抜いた。自分の胸部に当たるであろう自動車の左前輪、そのトレッドパターンがよく見えた。
やっぱり、間違いだったんだ。
ケンジは反省する。
不幸を願ったから、不幸になるんだ。
「ごめんなさい」
誰に向けたか分からない一言は、けたたましいクラクションとブレーキ音に隠れて誰にも聞かれなかった。




