六月二九日
六月二九日、昼休み、ケンジは一人で弁当を食べていた。その顔は暗く、憂いを帯びている。
ケンジは僅か数メートル先の光景を見て、深くため息を吐いた。
「コウセツ、はい、あ~ん」
「あ、うん、あ~ん」
「おいしい?」
「うん、おいしいよ」
甘ったるい空気があふれ出している。
ケンジはハートの形を作りそうな桃色空間を見せつけられ、気分がドン底まで下がった。胃の辺りがムカつき、食欲がなくなる。しかし食べなければ、家に帰ってから処理に困るのだ。
ケンジは意を決して箸を掴み、弁当の中身を口に押し込む。食物を口に入れるたびに食道を逆流しようとするものを無理やり押さえ込んだ。
ここ一週間ほど続けられた食事風景だが、今日は一段と酷くなっている。
今までは、無理にでも全部食べられた弁当が、今日は三分の一も入らない。育ち盛りの男子高校生としては、不健康な状況だ。
「ちくしょう、何であいつだけ」
ケンジはコウセツを一瞥すると、小さく呟いた。コウセツの顔には大きなシップが張られていたが、それ以外に目立った傷はない。それどころか、昨日よりスミレとの距離が縮まったように見えた。
ケンジは口元を押さえて俯く。必死に吐き気を抑える彼の目に黒い染みが飛び込んできた。
昨日、エミナが流した鼻血の痕だ。
丁度のその血痕のある辺りで、修羅場があったのだ。
スミレとコウセツが付き合ってる状況に我慢できなくなったエミナが、教室でコウセツを責めた。その中でエミナは、自分とコウセツに肉体関係があった事を暴露したのだ。
その場にはケンジのほかに、スミレが居た。この時、ケンジはこれでスミレはコウセツに愛想を尽かすと思った。無表情でコウセツに近づくスミレの背中に、期待と興奮で胸を躍らせていた。
しかし、スミレはケンジの期待を裏切り、エミナを殴り、コウセツをつれて出て行った。
ケンジは何も出来なかった。コウセツがどんな男でも、スミレの恋が揺るがない様に思えたケンジは、結局声一つ上げられず、空気と化していた。
その時の事を、ケンジは良く覚えている。
勝ち誇ったスミレの顔、いやらしいにやけ顔をしたコウセツ、そしてエミナの口から漏れ出る呪詛。張り詰めた空気も、血の匂いと、惨めな気持ちを全部覚えていた。
ケンジは、力なくため息を吐く。既に吐き気はなくなっていた。ただ、肝心なところで何もしない自分が嫌になる。
「願いが叶えば、俺だって」
そこで言葉に詰まったケンジの左ポケットが震えた。
ケンジの肩が跳ね上がる。
ケンジは一度周囲を見渡して、誰も自分に注目していない事を確認すると、左ポケットに入った白い携帯を取り出す。メールが着信していた。
メールの文面を確認して、ケンジは途方にくれる。メールには『社会準備室にある、雑誌古代日本を適当な生徒と二人で図書室に戻せ』と記されていた。
「どうしたものかな」
ケンジは今、誰かと一緒に居たくなかった。ケンジの心は傷つき、疲れきっていて、一人静かに誰にも干渉されたくない事を望んでいる。
とは言え、携帯の指示を無視する事は出来ない。
理想は、自分に構わない人間に頼む事だが、そんな奴はこちらの頼み自体聞いてくれるわけがない。
嫌がらせでコウセツを連れて行ってもいいのだが、生憎、メールが来る少し前にコウセツとスミレは何処かに行ってしまった。
誰に頼んだら最も楽か、ケンジが思案に暮れていると、ドアを開けてエミナが入ってきた。鼻につけたガーゼと目の下に出来たクマが、痛々しい雰囲気をかもし出している。
ケンジはエミナに駆け寄りながら、声をかけた。
「エミナ」
名前を呼ばれたエミナは、勝気な印象を与えるツリ目をケンジに向ける。しかし、すぐに視線は外された。
「ナイスタイミング。ちょっといいか?」
エミナは、何かを探すように教室中を見渡す。そして、にこやかに笑うケンジに背を向けた。
「用、外で聞く」
独り言の様な音量で言われたケンジは、誰に向けられた言葉か理解するのに一秒弱の時間を要した。
言葉の意味をじっくり噛み砕いたケンジは、慌ててエミナの背中を追う。廊下に出たエミナは既に教室一つ分の距離を歩いていた。
エミナと肩を並べたケンジは、顔を横に向けて言葉に詰まる。
エミナは非常に機嫌が悪いように見えた。
さらに言えば、正気には見えなかった。神経がダース単位で切れているのを誤魔化している様にしか見えない。
ここ一週間近く、毎朝洗面台で同じ表情を見ているケンジには、絶対の自信があった。
惜しむらくは、どのような神経が切れているか分析する能力がケンジには備わっていなかった事だ。
ケンジにとって、今のエミナは下手につついたら爆発する爆弾である。それもマニュアルが付いていない不良品だ。
「ここは人目につくから、向こうの。そうだな、社会準備室の辺りで話そう」
それでも、携帯の指示を達成しようと、ケンジはエミナを社会準備室に連れて行く事にする。
エミナは素直に頷き、歩くペースを上げた。
それに釣られてケンジも速度を上げる。
しかし、ケンジがいくら早く歩こうとも、エミナと肩を並べる事は出来ない。ケンジが近づくと、まるで逃げるようにエミナが速度を上げるのだ。
社会準備室に到着する頃には、二人のペースは走っていると言っても過言ではない速さになっていた。
お互い、玉のような汗をかき、肩で息をしている。
エミナとケンジは、靴の裏からブレーキ音を響かせながら停止する。歩いて止まったと表現するには大げさすぎる摩擦音だ。
エミナが社会準備室のドアに寄りかり、顔だけケンジの方に向ける。
「で、何の用」
「そ、それなんだが、ちょっと手伝って欲しいんだ」
ケンジは息を整えながら話し出す。その間、両手は蒸れたカッターシャツの襟元を広げ、額に浮かんだ汗を拭い取る。
「手伝うって、何を?」
エミナの目が若干細くなる。品定めするような視線に、ケンジは居心地悪そうに身をよじった。
「それは」
ケンジは途中で言葉を切った。
誰かの声が聞えたのだ。押し殺したようなくぐもった声だ。
気のせいではない。
その証拠に、エミナも声のした方を振り返っている。
振り向いた先の廊下は突当りとなっていた。右手に社会準備室、左手にはトイレがある。
声はトイレから聞えた。
防犯目的で校内のいたる所に設置している監視カメラも、トイレにはない。その監視のないトイレから、明らかに排泄音とは違う音が漏れてきた。それも苦しそうな声だ。
イジメかもしれない、とケンジは考え、巻き込まれないようにしよう、と思った。
「イジメ?」
「かもね」
同じ思考をたどったのであろうエミナの発言に、ケンジは頷く。
もう一度、トイレから声が漏れ出た。意識を声に向けていた所為か、先ほどよりはっきりと聞える。
若い女の声だ。
ケンジの良く知っている女の声に似ていた。
「聞いたことある声ね」
エミナの呟きで、ケンジは自身の予想を聞き間違いとして処理する事が出来なくなる。
「そうだね」
ケンジとエミナは顔を見合わせると、足音を立てない様にトイレの入り口へ忍び寄った。
トイレの入り口に張り付いたケンジの耳に、女の声がはっきりと聞えてくる。蜂蜜の様に甘くまとわりつく声だ。
声が聞えるたびに、アンモニア臭や芳香剤とは違う第三の匂いが鼻腔をくすぐる。魚のもつ生臭さに似ていたが少々違う、ただ生臭いだけではなく引き付けられる様な甘さが含まれていた。
ケンジが今まで嗅いだ事のない匂いだ。
「コウ……い……」
「……ミレ、い……」
女がオブラートを上げ、男が苦しげに呻く。静かになったトイレから、先ほどまでより一層強く第三の匂いが溢れ出てきた。
ケンジは何となく、何が起きたのか、何が終ったのか、理解してしまう。
不思議と衝撃はなく、また悲しみもない。
ただ、股間が痛いほど張り詰めていた。
呼吸をただし、高ぶった気持ちを抑えようとする。
「帰る。話は後で聞くから」
ケンジが呼吸を整えている最中、エミナが歩き去っていく。
ケンジはそれを止めようとはせず、必死に呼吸を整える。しかし、再び聞えてくる甘く蕩けるような声に、ケンジの身体は神経を高ぶらせていった。
自然と手が股間に伸びていく。指先がズボンのチャックに触れたところで、熱した鉄板を触った様に跳ねる。
ケンジは裏切られた様に指先を見つめていた。
女と男の声が聞こえ、先ほどと同じようにトイレの中が静かになる。衣擦れの音と水の流れる音が聞こえてきた。
トイレの中から鍵の外れる音が聞こえた瞬間、ケンジは弾かれたように走り出す。事実を知る恐怖から逃げる為に、後ろを振り返らず、懸命に走り続けた。
階段を駆け上がる。爪先に感じる衝撃が、ケンジを上と運んだ。重力と言うものから切り離された浮遊感が、ケンジの身体を更に上へと押し上げる。
ケンジは階段を登りきり、屋上へ出る鉄製の扉の前で止まる。鉄製の扉は鎖と南京錠でしっかりと封じられており、開ける事が出来ないからだ。
ケンジは鉄製の扉に身を預けると、そのまま座り込む。
大きく口を開けて、貪るように空気を吸い込んでいく。巻き上がった埃の匂いと鉄錆の臭気が鼻に付いたが、呼吸は更に大きくなるだけで一向に治まる気配がない。
「ちくしょう、ちくしょう、なんなんだよ」
左ポケットに手を入れ、携帯を取り出す。穢れを知らない白い携帯が姿を現した。
携帯は沈黙を保ち続けている。
この携帯を手に入れてから、ケンジには良いことが一つもなかった。むしろ不幸になっているとケンジは感じていた。
この携帯の通りに動いてもケンジには良いことは一つもなく、コウセツはどんどん幸せになっているようにしか思えない。
サチエはまだコウセツと付き合っている。
スミレはコウセツと付き合い始めた。
エミナはその状況を見ても何もしようとはしない。
どこまでいってもコウセツに都合の良い世界に思える。
発作的にケンジは携帯を投げ捨てよう振りかぶる。振りかぶったままケンジの腕は動かなかった。
小刻みに震え、手の甲にいくつもの筋を作る。
まるで誰かに推し留められているように、手は動かない。
「ちくしょう、ちくしょう」
幾ら時間が経とうとも、ケンジの手から携帯が放られる事はなかった。
ケンジは携帯を胸に抱きながら悪態をつくに留まる。
ケンジにこの携帯を捨てる事は出来ない。
今までケンジに不幸を呼び込んだこの携帯の持つ魔力が破棄する事を躊躇わせる。
昼休みが終るチャイムが鳴っても、ケンジはその場を動こうとはしない。ただ、携帯を抱きしめながら、誰にとも判別しない恨み言を唸るしかなかった。




