六月二二日
六月二二日、ケンジは人気のない校舎を歩いている。その足取りは重く、覇気がなかった。
「ああ、美化委員なんてやるんじゃなかった」
ケンジは万感の想いを込めて呟く。心の中で何度も呟いた台詞だ。
口に出せば気がまぎれるかと思ったが、更に落ち込むだけだった。
毎月第四水曜日の放課後に美化委員会ではミーティングを行っている。内容は、各クラスの掃除の様子や、課外活動の報告だ。
ミーティングは校舎隅の学生会議室で行われている。生徒からは、放課後の時間がつぶれる、場所が遠いと概ね不評であった。無論、平凡な美化委員であるケンジは、不評側だ。
「はぁ」
これから始まるミーティングを考えて、ケンジの足取りはさらに遅くなった。手に持ったプリント類が鉛の様に重く感じる。
窓の外を見れば、雲ひとつない空があった。薄い雲がゆっくりと流れ、空にかかる。
足を止め外の景色を眺めるケンジの右ポケットが震えた。
ケンジはポケットから赤い携帯を取り出す。ケンジが自分で買った携帯だ。ミーティングの開始五分前にアラームが鳴るように設定していのだ。
ケンジは携帯の振動を止める。
「行くか」
ケンジは名残惜しそうな視線を窓の外に向ける。
その時、校舎の隅に見慣れた人影を見つけた。遠目にも艶を感じさせる黒髪が特徴的な女生徒だ。
「スミレさん、あんな所で何やってるんだ?」
頭を抱え身をよじっている女生徒を見て、ケンジは首をひねる。
女生徒、スミレのいる辺りは、グランドや校門、中庭と距離が離れており、普段は生徒の来る所ではなかった。
毎月同じ時間にこの廊下を通っているケンジだが、人影を見たのは今日が初めてだ。
ケンジはその場にしゃがみ込むと、窓枠の隅から覗き込むようにスミレの様子を伺う。
校舎の隅でスミレが胸に手を当て、肩で息をしていた。距離が離れており良く分からないが、心なしか顔色が悪いように見えた。
ケンジは一瞬、身体を浮かせるが、しゃがみ直す。
スミレがポケットからなにかを落としたのだ。そのなにかは校舎の陰からやって来た男子生徒の足元に当って、止まる。男子生徒は爪先に当ったものを拾うと、スミレに突き出した。
「コウセツ」
ケンジは男子生徒の名前を呟く。
スミレはコウセツから落としたものを受け取ると、胸元に抱きしめた。
コウセツがその様子を眺めている。
二人の様子にケンジの心臓が跳ね上がる。荒くなる息遣いを隠そうともせず、食い入るように二人の様子を観察した。
突如、スミレがコウセツに抱きついた。
つぶさに観察していたケンジの手が窓枠にきつく食い込む。唇から、赤い雫が一滴流れ落ちた。
ケンジはコウセツが優しく拒絶する事を願う。心の底から、スミレを傷つけずに断る事を祈った。
ケンジの願い通り、コウセツはスミレをやんわりと引き剥がす。
ケンジは安堵の笑みを浮かべかけて、凍りついた。
コウセツがスミレを抱きしめたのだ。
ケンジの体から力が抜ける。自分の願いが最悪な形で裏切られた事が分かってしまった。
覇気の感じられないケンジの視線の先で、スミレとコウセツの顔が近づいていく。
それ以上見ていられなくなったケンジは二人から顔を背け、逃げ出した。
消火器を蹴り倒し、階段を飛び降り、ケンジは走り続けた。
どこをどう走ったのか覚えていない。
気付いたら、ケンジは自分の家の前にいた。日は暮れており、ケンジが走り出してから随分時間が経っている。
「俺の家か」
ケンジはドアの前に戻ると、疲れた様子で家に入った。委員会をサボってしまった事を思い出したが、どうでも良かった。
家に入ると、リビングからテレビの音と女の笑い声が聞こえる。
「えー毎度、馬鹿馬鹿しい話なんですが……」
「アハハハハ」
能天気な笑い声にケンジの胸がざわついた。ケンジは無言で自分の部屋に向かう。
今は、誰とも何も話したくなかった。
しかし、そんなささやかな願いすら邪魔されてしまう。
「あれ、ケンジ、遅かったわね」
笑い声の主が、部屋に逃げ込もうとするケンジに気付いたのだ。女の声の後ろでは、テレビから芸人の悲鳴が流れている。
「うん、まぁね」
ケンジはリビングから顔を背けた。
「何、そっけない。折角、このサチエお姉さまが声をかけてるんだから、少しは嬉しそうにしたらどう」
時折、せんべいをかじる音を含ませながら、サチエが言う。
悩みのないお気楽な声色に、ケンジは奥歯を強く噛みしめた。
「ごめん、ちょっと疲れてるんだ」
「疲れてる、て、どうせ遊びつかれでしょ。こんな遅くまで遊んできて、疲れてるなんて、ちょっとちゃんとしたらどう?」
この場から逃げ出そうとするケンジの背中に、サチエが追い討ちをかける。
「大体、学校なんて、大した事してないんだから、疲れる事なんてないでしょ。
こっちはお仕事してるんだから、少しは労って欲しいわよ」
ケンジは俯き、唇をかみ締める。握り締められた拳が震えていた。
「身体は貧弱、頭は平凡、その上地味、そんなんじゃ、彼女の一人も出来ないわよ。ちょっとおしゃれでもしてみたら?」
普段なら挨拶程度の言葉だった。しかし、今のケンジにとっては、心臓に直接杭を打たれたような衝撃を受ける。
ケンジの心が血を流したように赤黒く染まった。
「関係、ないだろ」
「はぁん、何か言った?」
大げさな声で、サチエが聞き返す。
ケンジはリビングを振り向き、サチエを睨みつける。
「関係ない、て言ったんだよ」
ソファに寝転びせんべいを片手に雑誌を開いているサチエの姿に、コウセツは怒りがこみ上げてくる。
「ちょ、何、その態度、人が折角声をかけてあげたのに」
サチエが眉をひそめ、恩着せがましく言った。ソファに座りなおすこともしない。自分が上位に立っていると考えている態度だ。
「だから、定時で帰ってきて、家でだらしなく寝そべってせんべい食べてる奴には関係ない、て言ったんだよ」
「あ、あんたねぇ。
こっちは毎日毎日夜遅くまで仕事で疲れてるの。
たまの定時ぐらい、のんびりしてても罰は当んないわよ」
サチエは身を起こす。眉間にシワを作り、般若の様な形相でケンジを睨みつけた。
普段ならその迫力に押されて謝ってしまうケンジだが、今は違う。頭の中が沸騰しているケンジに、その程度の迫力は通用しなかった。
「いつも帰りが遅いのは、どうせ男といちゃついてる所為だろ」
「んなわけないでしょ! 大体、アイツとは休みの日ぐらいしかあえないし」
般若の様な形相だったサチエが、一転可愛らしく頬を膨らませる。
恋する乙女の憂いを感じたケンジは、その幸せそうな顔を泣きっ面に変えたい衝動に駆られた。
「ああ、そうか」
ケンジの口が勝手に動く。どこか遠くから、やめろと訴える自分を感じながらも、ケンジはやめなかった。
「高校生がお相手じゃ、流石に夜のラブホへしけこむわけには行かないよな」
サチエが固まった。目は大きく開かれ、口は魚の様に開閉を繰り返している。
手に持ったせんべいが滑り落ちた。
今まで見た事がない姉の様子に、ケンジは唇をつり上げる。胸のうちに小さな達成感が生まれた。
「ハハハ」
わざとらしくケンジが笑うと、サチエは頬を赤めらせ眉をつり上げる。
ソファから立ち上がったサチエは、ケンジの胸倉を掴んだ。自分より大きなケンジを軽々と持ち上げる。
「あんた、一体どこまで知ってるの」
サチエは獣の様に咽を唸らせ、ケンジを睨みつけた。殺気だった一対の瞳が、ケンジの両眼を貫き、脳を直撃する。
「あれだけ無防備にのろけ話してたら、馬鹿だって気付くよ。
父さんも母さんも、姉さんにカレシがいることぐらいは知ってるんじゃない?
もっとも相手が、高校生だとかそれ以上のことは知らないだろうけど」
ケンジは自身の首が絞まることも構わず、鞄の中をまさぐる。先ほどまで感じていた衝動は少しづつ収まり始めている。
感情を洗い流されたケンジに残ったものは、無気力だった。このまま、サチエに絞め殺されても構わない、とどこか達観している。
「まさか、自分の娘が高校二年生とベットインしてるなんて知ったら、父さん達どう思うかな。それも、あんな女みたいな奴をさ」
サチエの両腕から力が抜け、床に放り出された。しきりに咽を辺りを摩るコウセツを睨みつけながら、エミナは呻くように歯と歯の隙間から声を漏らす。
「要求は何?」
「別に、ただ、これを見せたかっただけだよ」
ケンジは鞄の中から一つのクリアファイルを取り出すと、サチエに投げつけた。
クリアファイルはサチエの胸に辺り、中身をぶちまける。飛び出た紙が宙を舞った。
「デジカメをプリントアウトしただけ、じゃ」
反射的に受け取ったサチエは、両手に残った分の紙に視線を落として固まる。
紙には遊園地の様子が印刷されていた。森をイメージしたオブジェと観覧車やジェットコースターを背景に、男女がベンチに座っている。男女はベンチに座り、親しげな様子だ。どちらもリラックスしたいい顔をしていた。
「これが、どうかした訳」
サチエは笑いながら、紙をケンジの足元に放り投げる。しかしその笑みは固く、指先は小刻みに震えていた。
「恋人の浮気をそんな風に言ったら、本当に捨てられるよ」
「浮気って、友達と一緒に遊んでた位で目くじら立てるつもりはないわよ。大体、あんたがこれを撮ったて事は一緒に居たんでしょ」
話しているうちに余裕が出来てきたのかサチエの表情が柔らかくなる。
「キス……してた」
ケンジは血を吐くような思いで、その単語を口にする。実際に見たわけではないが、ケンジが逃げた後、コウセツとスミレが何をしていたか等、簡単に想像できた。
「はぁ、手の込んだ嫌がらせだけどさ。取って付けたつじつま合わせの言葉じゃ、誰も騙せないわよ」
「今日、ウッ、見たんだよ。目の前で、ふ、二人がキ、グス、キスしてた。こ、校舎裏で、グス、抱き合って」
ケンジは鼻を啜りながら、たどたどしく自分が見た事を話す。頬を流れる涙が、顎先から滴り落ちた。
サチエは地面に落ちたせんべいを拾ってかじる。何とも平和な音がリビングに木霊した。
まるで何も感じていないようなサチエの態度に、ケンジの中に溜まった鬱憤が爆発した。
「あんたがッ!」
ケンジはサチエに飛び掛り、ソファに押し倒す。
そのまま、ケンジはサチエの顔を目掛けて拳を振り下ろした。
拳はサチエの頬をかすめ、ソファにめり込む。
「あんたが、あいつを、しっかりコウセツの彼女をしてたら、ちゃんと魅力があれば、そしたら、スミレさんは、スミレさんは、あああああああああッ!」
ケンジは声を上げて、泣き叫ぶ。まるで土下座するように下がりきった頭を、サチエが優しく撫でる。
「その子の事が好き、だったの」
ケンジは嗚咽を漏らすだけだ。サチエも優しく頭を撫で続ける。
気付くと、テレビではCMが流れていた。明るいCMをBGMに、ケンジは泣き続ける。
CMが終る頃になると、ケンジは立ち上がった。
「もう、気が済んだ」
「いきなり怒鳴ったりしてごめん、だけど、嘘は言ってないから」
ケンジは小さく頭を下げると、散らばった紙をクリアファイルに集める。クリアファイルをテーブルの上に置くと、ケンジは鞄を持ってリビングから逃げ出した。
自室に駆け込んだケンジは、枕に顔を押し付ける。くぐもった泣き声が、枕の隙間から漏れ出てきた。
ケンジは、情けなかった。
自分の姉に八つ当たりをして、その上姉に慰められた。どこまで子供なんだ、と自分を呪いたくなる。
その上、逃げ口上を口にして、逃げてきた。
こんな事だから、スミレに振り向いてもらえない。こんな事だから、いつもコウセツの引き立て役なんだ、とケンジは情けない自身を罵倒する。
いつしか涙は涸れはてた。
ふと、ケンジは左ポケットに入った白い携帯を取り出す。これが来てから、良い事は何もなかった。しかし、悪い事は今日、起こってしまった。
「これを信じてもいいのかな」
ケンジは自分の願いを叶える為に必要な道具を弄ぶ。
たった数百グラムしかない、通信機器。
たった十数年で爆発的な進化を遂げて、いまや日本中に広まった製品。
その繁殖性と進化速度は、ゴキブリの生命力を思い起こさせた。
「従うしかないか」
ケンジの中で、携帯電話、そのものの持つ異常とも思える浸透性と、悪魔の様な力が重なった。
「もう、欲しいものなんてないもんな」
ケンジは携帯のディスプレイを見る。時刻は、九時をまわっていた。力なく立ち上がると、白い携帯をポケットに戻す。
「風呂、入ろう」
緩慢な動きで、ケンジは箪笥から服とタオルを取り出した。
部屋の外に出ようと、ノブを回そうとして止まる。
しばしの間、ドアの反対側を伺っていたケンジだが、意を決するとドアを開けた。
テレビの音が聞こえた。内容は、最近良く名前を聞く新人芸人のコントだ。どこかで体験したようなシチュエーションに、ケンジの身体は強張る。
ケンジは極力足音を立てないように、風呂場へ向かった。その途中、リビングではソファに寝転びせんべいを食べながらテレビを見ているサチエが居た。先ほどの事が嘘だった様に、普段通りの姿だ。
ケンジはサチエの視界から隠れるように、リビングを通り過ぎる。
「ケンジ」
小さくなったケンジの背中に、サチエの声がかかった。
「な、何か用?」
ケンジは小動物の様に震えながら、振り返る。
サチエは相変わらず、テレビを見ていた。
「これ、貰っとくから」
サチエは、先ほどのクリアファイルを掲げる。まるで、読み終わった雑誌を貰うような気安さだ。
「うん」
元々そのつもりだったケンジは、素直に頷く。
「それと、好きな子がいるならがんばって、振り向かせなさい。
ま、草葉の陰から高みの見物ぐらいしてあげるから」
ケケケケケ、とサチエは含み笑いを漏らした。
「余計なお世話だよ」
ケンジは荒からしい足音をたてながら、脱衣所に入る。そこに先ほどまでの遠慮はなかった。




