六月一八日
六月一八日、ケンジが風呂から上がり自室に戻ると白い携帯にメールが来ていた。
ケンジは唾を飲み込む。
ここ数日、コウセツがエミナを避けている様に感じられた。コウセツからエミナに話しかけたり、二人で登校する姿を見なくなったのだ。
その原因が、白い携帯の指示にあるかもしれないと、ケンジは漠然と感じていた。
特にコウセツとエミナが一緒に登校しなくなった日は六月一六日、ケンジがコウセツとアブラカタブラに行った翌日だ。そこに何か因果関係を感じてしまう。
ケンジは大きく息を吸い込み、微かに震える指先で携帯を開いた。
小刻みに振動するディスプレイに写る字面に、ケンジは息を呑む。
『午後九時までに、今宮エミナに雪村コウセツと日高サチエが交際している事を教えろ』
ケンジが枕元に置いてある時計を見ると、デジタルの液晶に八時五〇分と映し出されていた。慌てて自分の赤い携帯を取り出し、電話する。
ケンジの胸に不安がなかったと言えば嘘になる。しかし、メールの内容を吟味する時間はなかった。ただ、今更従わなくて失敗する事だけは避けたくて、携帯に飛びついたのだ。
数回のコールの後、電話はつながった。
「ケンジミ何か用? あたし結構忙しいんだけど」
あからさまに迷惑そうな声が、携帯から聞こえてくる。
ケンジはエミナの声の調子に若干怖気づいた。
「いや、ちょっと、な」
口ごもるケンジの視界に時計の液晶が目に映る。時刻は八時五三分をさしていた。
「ん、用事ないなら切るわよ。明日やる事あるんだから」
電話越しにエミナが離れていく気配を感じたケンジは慌てて大声を出す。
「こ、コウセツッ!
コウセツの事で聞かせたい事があるんだ」
「コウセツがどうしたの?
くだらない事なら、潰しちゃうわよ、プチッと」
何気なく言われた一言でケンジの顔色が真っ青になった。内股になった股間を片手で抑える。
「え、エミナにとっては、すごく重要な事だと思う。コウセツの恋人に関する情報だからな」
ケンジは唇を震えさせながら、さっさと本題に入った。回りくどい話し方ではエミナに潰されてしまう。ついでに、九時まで時間がなかった。
「ふぅん、それ興味あるわ」
携帯から聞こえる無機質な声に、ケンジは喉を鳴らす。首の動脈に刃物を突きつけられたように体が強張った。男性そのものを狙われる恐怖が股の間から、冷たい冷気となって背筋を上がってくる。
「相手は誰で、どうして知ってるのかきちんと報告してね。分かる事は全部ね」
「あ、ああ、当然だろ」
ケンジは壊れた人形のように首を上下に揺すった。一つでも間違えれば容赦ない制裁が加えられる、と直感する。
ケンジは汗で濡れた手をベットのシーツでぬぐいながら、ゆっくり間違いのないように話し始めた。
「相手は、俺の姉なんだ。名前はサチエ、日高サチエ、会社勤めのOL」
携帯越しに何かが折れる音が聞こえた。軽い音質に、ケンジはシャーペンの芯でも折った、とあたりをつける。
ケンジは息を止めてエミナの反応を伺うが、携帯から別段反応はなかった。携帯を捨てて家に殴りこんでくるのか、と顔を青くするが、すぐに首を振って否定する。
携帯から息遣いは聞こえてくる。
エミナが携帯を持ている事は間違いないはずだ。爆発しそうになる自分を抑えているだけなのだろう。
風のざわめきやエンジン音が聞こえてこない事も、ケンジの予想を補強する材料になった。
そこまで分かった時、ケンジの口から安堵と共に息が漏る。いつの間にか体中に力が入っていた。
ケンジは首や肩を回し、体中の強張りを解きほぐして、詳細を話し始める。
「前々から、姉さんにカレシが居る事は知ってた」
電話越しに、エミナの舌打ちと歯軋り音が聞こえた。
「もちろん、相手が誰なのか知らなかったんだ。
ほんとに、コウセツが相手だとは知らなかったんだよ」
コウセツは早口で、サチエの恋人がコウセツだと知らなかった事を強調する。
「今日、さっき、姉さんがカレシと電話で言い争ってて、そこでコウセツ、て言ったんだよ。
それで気になって聞き耳立ててみると、明日のデートやクラスメートとの遊園地とか、どっかで聞いた事のある単語がポロポロ出てきたんだ。
それでさ、こりゃコウセツの事だな、と思ってエミナに電話したんだ」
ケンジは立て板に流れる水の様に理由をごまかした。
嘘は言っていない。
実際、先ほどサチエはコウセツと明日の事で言い争っていた。その時たまたま聞こえた単語を脚色して、話しているだけだ。
ケンジは急場で思いついたにしては上出来な言い訳の出来に驚きながら、エミナの反応を待つ。
「アッハッハッハハハハハハハハハハハ」
そして、エミナの笑い声が聞こえてきた。
「で、何であたしに教えてくれたの、そんな事をさ?
あんた、自分の姉を売ったんだよ。
分かってる?」
ケンジの背骨に氷の針が突き刺された。今まで自分の言った内容と言った相手の危険性に、今更ながら気づく。
コウセツ関係に対するエミナの危険度を、一番近くに居る傍観者、ケンジはよく知っている。
エミナは間違いなくサチエを壊すだろう。
しかし、ケンジに姉をエミナの生贄とする気はなかった。
ケンジは何かいい方法がないか必死に頭を回転せる。
「じゃ、貴重な情報ありがと」
「そんなつもりはないさ。ちょっと取引したいだけだよ」
エミナが電話を切ろうとする気配を感じたケンジは、慌てて口を開いた。ここで引き止めなくては、明日の夕方には三面記事に自分の姉が乗るかもしれない、と言う危機感が全身を支配する。
「あんたさ、自分の立場分かってる?」
エミナがわずらわしそうに言った。
「分かってるよ。だけど、ここでエミナに短気を起こされて、警察の厄介になられたら困る」
ケンジは震えのとまらない歯が音を鳴らさないように、慎重にゆっくりと言葉を紡ぐ。
「エミナにはコウセツとくっついて欲しいんだからさ。出来れば結婚してもらいたいぐらいだよ」
「ふぅん、ケンジって思ってたより、賢かったんだ。
雪村エミナ、今宮コウセツ、どちらかと言うと雪村エミナの方が語感はいいけど、どっちも素敵ね。
まるで運命に導かれてるみたい」
エミナがうっとりと互いの苗字を入れ替えた名前を呟く。
「それに比べて、雪村サチエ、日高コウセツ、どっちも似合いやしない。
語呂が悪いとかそんなレベルじゃない。豚の糞尿にたかる蝿や蛆虫と同レベルの嫌悪感しか感じない。
そう思うでしょ? フフ、フフフフ」
「も、もちろんさ」
不気味な含み笑いにケンジは頬を引きつらせながらも頷いた。この手の人間に理論や常識を言っても意味がない。それどころか、否定的なニュアンスの言葉を用いただけで、敵とみなされてしまう事を、ケンジは知っていた。
「だからこそさ、エミナには警察に捕まる可能性が一パーセントでもある事はして欲しくないんだ。分かるだろ?」
「分かった。じゃあ、あんたが手足となってやりなさい。それでいいでしょ」
エミナの弾むような声に、ケンジは顔を覆った。
「それじゃあ、俺が捕まるじゃないか。俺だって下心があって、この話をしたんだぜ。
その辺りを考えてくれないか」
ケンジは受話器に奥に神経を注ぎ、慎重に辞退の意を表す。
受話器の奥から来た返答は、笑い声だった。エミナは気を悪くしてない様だ。
第一関門突破、ケンジはガッツポーズを作る。。
「つ、ま、り、あたしがコウセツと結婚して、ようやく二人の運命に気づいた馬鹿女にハイエナみたいたかって食いつぶしたいわけね。
こっちも金魚の糞みたいに付きまとわれたら迷惑だし、仕様がないからあんたの下心も上手くいくようにしてあげる」
「ああ、ありがとう。で、コウセツと姉さんを別れさせる作戦があるんだけど、聞かないか?」
ケンジはエミナの口から垂れ流される雑言を適当に聞き流し、話を穏便な方向へ誘導しようと行き当たりばったりに話を繋ぐ。
エミナの答えを待つ間に、脳みそは全力で回転していた。オーバーヒート寸前だ。
「つまんない策だったら抜くけど、覚悟は出来てるわよね」
何を抜くんだよ、と問いただしたくなるエミナの爽やかな台詞に、ケンジは身体を振るわせる。
「つまらないかどうかは分からないけど、損のない作戦だと思う。
コウセツがエミナとスミレさんの二人といちゃついてるシーンを撮ってさ、それを姉さんに送りつけてやるんだよ。
浮気された上に二股だと分かったら、今日の事もあるし、姉さんとコウセツの仲にヒビの一つや二つ入るさ。
後は、そのヒビを広げていってやれば、自然と破局する」
ケンジは自信たっぷりに言い切きり、頬を伝う冷や汗を拭い取った。
「ちょっと、気に入らないけど、悪くはないわね。それ採用してあげる」
受話器から聞こえた応えに、ケンジは小さく安堵のため息を吐く。しかし、すぐに気を引き締め、具体的な内容を考え始めた。
ケンジの脳回路が焼き切れる寸前まで働かされる。
働きすぎて回路線が何本か焼ききれたケンジに、エミナが口を開いた。
「ちょうど、あんたの姉との約束をコウセツがキャンセルしたみたいだし、明日、それやるわよ。
ちょうどスミレから遊園地に誘われてるし、ちょうどいいわ。
本当はキャンセルするつもりだったけど、たまにはスミレにも役に立ってもらわなくちゃね」
今週の水曜日、スミレがコウセツとエミナを遊園地に誘っていた様子をケンジは思い出した。
あの時、コウセツがスミレの誘いを受けていれば、その尻馬に乗ってさりげなく同行する事が出来たはずだ。そうしたら、きっと楽しい日曜日になっていたのだ。
しかし、コウセツが誘いを断った所為で一緒に行く事は出来ず、スミレは一日元気がなく暗かった。
ケンジは悲しそうに顔を伏せたスミレの姿がフラッシュバックする。コウセツに対する怒りが燃え上がった。
同時に一緒に遊園地へ行くチャンスだ、と言う事に気づく。
「コウセツはエミナが誘うんだろうけど、俺はどうするんだ。一人で遊園地に行って、コウセツのストーキングなんて嫌だし、大体目立つぞそんな事したら」
「大丈夫、さりげなく駅に来たら誰もおかしく思わないわよ。
あんた地味にどこにでも居るから、スミレはコウセツが呼んだ、コウセツもあたしかスミレが呼んだんだ、と思うはずね」
「な、なるほど分かった」
ケンジはベッドに突っ伏しながら頷く。
「ん、どうかした。仕事一直線で頑張って来たお父さんが、いきなりリストラされて公園のブランコに座ってるような哀愁漂う声が聞こえたけど」
笑いを噛み殺したエミナの口調に、ケンジは一瞬殺意が湧き出したが、すぐに涸れてしまった。コウセツ関係でない限り、エミナがケンジの話に耳を傾ける事はない。
ケンジはベットから起き上がると、携帯を握りなおす。
時刻は九時三一分、明日のことを話し合うには十分な時間があった。




