七月八日
七月八日、コウセツの意識は闇から再び現世へと舞い戻る。
「おはよ、コウセツ。これからあたしが治療してあげるね」
そして、また意識がなくなりかけた。
辺りは夕闇に飲まれたように薄暗かったが、それでも目の前にあるものが見えないほどではない。
コウセツは、エミナの浮かべる醜悪な笑みを、眼前に突きつけられた。
本当にこのまま意識がなくなればいいのに、と願いながらも、コウセツの意識は次第に明瞭になっていく。恐怖で失神する事もあれば、恐怖で意識が覚醒する事もある、とコウセツはこの時始めて実感した。
エミナの微笑みから逃れようと身をよじるが、身体を椅子に縛り付けられていて動けない。その上、エミナがコウセツの膝の上に乗っている所為で、椅子を揺らす事すら出来なかった。
激しさを増す動悸、血管を流れる血液の脈動を感じながら、コウセツは口を開く。
「エミナ、ここは現実?」
口から出てきたものは、自分でも驚くほど、平坦な声で平凡な内容だった。
「もちろん、現実だよコウセツ」
エミナは三日月の形で固まった口から唾を垂れ流しながら、優しくコウセツの頭を撫でる。流れ出た唾液がエミナの顎から垂れ、コウセツの胸元を汚した。
「エミナ、唾垂れてるよ。それと、目が充血してるけど、寝不足?」
「あ、ごめん。向こうに居る蛆虫を黙らせたら、口元がにやけてどうしようもないんだ」
エミナは服の袖で口元を拭う。顔中を汚していた涎がふき取られるが、口の形は三日月の形のままだ。
「蛆虫?」
聞きなれない単語に、コウセツは首を傾げた。
「うん、蛆虫」
エミナは後ろに居る人物を指差す。指された人物は全身をガムテープとロープで巻かれ、芋虫の様な格好をしている。
黒く艶やかな髪と暗がりで顔は隠れているが、コウセツはそれが誰であるかすぐに分かった。
「スミレ」
コウセツは芋虫の正体を呟く。その声には何の想いも込められていなかった。
目の前にあった物体の名称を反射的に言っただけだ。
エミナはスミレに近づくと足で転がす。うつ伏せだったスミレの体が仰向けになり、黒髪ベールからスミレの顔が現れた。
晒されたスミレの顔は酷い状態だった。左頬に紫色の腫瘍を作り、右瞼も同じぐらい膨らんでいる。唇から血を流し、口紅が顎周辺ににじみ出ていた。
それでもスミレの面影を残して居る事が、コウセツにリアルと嫌悪を与える。
醜くなったスミレの顔が、夢や幻覚と思い込もうとしてたコウセツに、現実を突きつけた。
「あああぁぁぁぁぁぁっ!」
コウセツは唐突に叫んだ。何故叫んでいるのか本人にも理解できない。
胸に湧き上がる衝動が、コウセツを叫ばせていた。
縛られた身体が前後左右に激しく暴れまわり、バランスを崩し椅子ごと倒れてしまう。
盛大な音をたてて、コウセツは頬骨を床に打ち付けた。それでもコウセツの叫びは終らない。
「コウセツ! 大丈夫だからね。もう怖い蛆虫は居ないから」
駆け寄って来たエミナがコウセツの頭を両手で抱きしめる。
コウセツの顔がエミナの薄い胸にこすり付けられた。
エミナは子供をあやすように、優しくコウセツの頭を撫でる。
「蛆虫はエミナが駆除したよ。
ちゃんと駆除したから、もうコウセツが騙される事も怪我される事もないからね」
エミナの行為にコウセツは落ち着くどころか、さらに暴れる。
数分間暴れ周り、コウセツの体力と声帯に限界が来た。先程までの狂態が嘘の様に、大人しくなる。
「よかった落ち着いてくれて、これから二人で幸せになろう。
あたしとコウセツが居れば、後の世界なんて何の意味もないんだ。
二人でゆっくり愛を育もう。
そうだね、子供は二人がいいかな。それと白い家、庭には犬を飼おうね」
「人、殺し」
エミナの未来予想図を遮り、コウセツは掠れた声で言った。
「へ、何言ってるの?」
エミナが目を丸くする。言われた意味がまったく理解できていないようだった。
「あたし、あの嫌な害虫を処理しただけだよ。
人なんて殺してないよ。
大体、世界で本当に必要な人は、コウセツとあたしだけなんだから。
二人の為に何億人が処理されても、それは当然じゃないの」
エミナはあっさりと、常識を語るように言い切る。本気で自分の言った事を常識として捕らえている事が伝わってきた。
コウセツは目の前に居る生物が壊れている事に気付く。同時に、自分がこの生物に捕食される状態である事にも気付かされてしまった。
「触るなよ、気持ち悪い。お前なんか嫌いだ」
逃げる事もあがらう事も出来ない絶望的な状態で、コウセツは唯一自由になる口を動かす。
この生物に捕食されない為には、自身の口を使うしかなかった。その口は淡々とした口調で、捕食者の逆鱗を叩く。
「え?」
理解できないと言った様子で、エミナは首を傾げた。
「ほんと、大嫌いだ。最悪だ。何でお前なんか生きてるんだ? さっさと死んでくれ、俺のた」
最後までコウセツが言い切ることは出来なかった。横から飛んできた拳に頭を打たれ、椅子ごと倒れる。
「コウセツ、ハハ、あたしが嫌い?、酷い嘘吐くよね。
これはお仕置きだからね。
もう、そんな事言っちゃ駄目だよ」
エミナはコウセツを殴り倒した格好のまま笑った。
コウセツはエミナの姿が醜いものにしか見えなかった。
今までずっと一緒に居た幼馴染、誰よりも相手の事を知っている。だから、今のエミナにコウセツは欠片も魅力を感じなかった。
そして、そんな生物に自分の髪の毛一本も差し出したくない。
それがコウセツの偽らざる心根だった。
「嫌いだし、汚すぎて触りたくもなっぶへ」
エミナの爪先がコウセツの腹に食い込む。
コウセツの咽を熱い液体が逆流するが、意地で押し留めた。
「そうか、コウセツまだ騙されてるんだね。蛆虫の呪いが解けてないんだ。大丈夫だよ、コウセツ、あたしが直してあげるから」
エミナは身体をくの字に曲げ、弱々しく身体を震わせる。まるで視界を遮るように、両手で顔を覆った。
コウセツは腹の痛みも忘れて、一言、自分の正直な気持ちを口にする。
「お前の玩具になんてなりたくないよ。お前のものになるくらいなら、死んだほうがましだ」
コウセツの目の前で、エミナの体が崩れ落ちた。瞳は虚空を移し、肩は力なく垂れ下がっている。まるで糸の切れたマリオネットだ。
「コウセツ、嘘だよね?」
エミナが首を動かし、縋る様な眼差しをコウセツに向ける。
コウセツは最後の一言を言った。それが自身を殺す引き金になると分かっていて、それが今のエミナを壊す決定打だと予感していながら、コウセツは躊躇わなかった。
「大嫌いだ」
「そんなの嘘だって言って」
エミナが四つんばいになって、コウセツに近づいていく。
「そうじゃないとあたし、コウセツも駆除しちゃうよ」
泣きそうな顔で、媚びた声をだして、エミナは脅迫する。
それでも、コウセツの心根は変わらない。
コウセツはもう一度呟いた。
「大嫌いだ」
「あああああああああああああああああああ」
コウセツが言い終えると同時に、エミナは叫びながらコウセツの顔を殴る。駄々をこねる子供の様に拳を振り回し、コウセツの顔にぶつけてきた。
止め処なく流れる涙が、コウセツの顔に降り落ちる。
「悪い子!
悪い子!
こんなに好きなのに、これだけ尽くしてるのに、この悪い子!
悪い子!
コウセツの悪い子!」
次第に拳の色が紫色へ変わり、小指があらぬ方向に曲がろうとも、エミナの拳はとまらない。
コウセツの顔もそれに合わせて変形し、顔中が腫上がり鬱血していく。鼻血が顔半分を朱に染めていた。舌先が痺れ、鼻腔は鉄錆の匂いが充満する。
「ああ、どこで間違えたんだろうな」
何を間違えたのか、どうしてこうなってしまったのか、コウセツには何も分からない。
身動きの取れない身体で椅子と一緒に暴力を受け入れるだけだ。
後悔や恨みはあったが、それと同じくらいコウセツは安堵していた。
どんな結果になろうとも、もう二度とエミナと会う事はない。その確信が生んだ安らぎだ。
コウセツは頭蓋骨に響く衝撃に耐えながら、笑みを浮かべる。
そのまま意識は、次第に闇の中へと消えていった。




