六月二九日
六月二九日、水曜日、部室練の四階の片隅で荒々しい音をたててドアが閉まる。
ドアに貼られている赤いテープが小刻みに震えた。赤いテープは、悪魔部の活動場所を示す目印である。
部室には、スピーカーが机の上にあるだけだ。
「ようこそ、名も知らぬ隣人」
スピーカーは目の前に立つエミナを歓迎する。
エミナは乱れきった髪をかき上げ、端が切れた唇を歪めた。
「ここは何でも願いを叶える部活、悪魔部でいいの」
スピーカーに尋ねたエミナは、痛みで眉をしかめる。声が昨日殴られた鼻に響き痛むのだ。ガーゼで保護されている鼻は、青く染まっている。
「ああ、そうだ。
と言っても、私の力は万能ではない。
死者を生き返らせる事も、鉄を金に変える事も出来ない。
もちろん、お前を超能力者にする事も出来ない」
「はっ」
スピーカーの長口上をエミナは一笑した。
「何、下んない事言ってんのよ。そんなキチガイな願いを言うわけないじゃない」
「……いや、居るんだよ、時々、そういう奴。もっと酷いのになると、私の前世はウィフェミリアの農村で育っ」
「興味ない」
スピーカーの愚痴を、エミナは遮る。彼女にとって、スピーカーの愚痴等どうでもいい事だった。
「さっさとあたしの願いをかなえなさい」
「はぁ、まぁ、いい。願いは何だ」
スピーカーは、投げやりな口調で願いを聞く。何処となく疲れが感じられた。
「願いは、コウセツを騙して誑かすスミレを、最高に惨めったらしい泣き顔にさせて、自分が生まれてきた事を後悔させながら死なせろ」
エミナは静かに願いを言う。淡々とした口調で、まるで今日の天気を言うような気楽さだった。
エミナは願いを言い終えると、口を一文字に結ぶ。これから起きる事を一瞬でも見逃さないように、スピーカーを凝視した。
数秒の間をおいてスピーカーから声を流れる。
「それは、どんな犠牲を払ってでも叶えたいものか?」
「当たり前でしょう。あのクソ女が豚にも劣る肉塊になるなら、そうっ! 悪魔に魂を売ってもいい」
エミナは良い事を思いついたと言わんばかりに笑った。
「……願いを受諾する。本来なら禁忌だが、お前の想いに応えよう」
スピーカーは重々しく告げる。
願いが受諾されたにも関わらず、エミナの顔に喜びはなかった。冷静にスピーカーを見下ろしている。
「で、あたしはどうしたらいいの? まさか、代償がないわけじゃないでしょう」
「何もするな。代償も要らない。この事を、誰にも話さなければ、後はこちらで全てやろう」
「ふぅん、リーズナブルなんだ。まぁ、いいわ。それじゃお願いね」
エミナは言うだけ言うと、部室から出て行った。
帰り道、エミナは今後の計画を練り始める。
悪魔部に願った事はおまじないの一種でしかない。やってくれるなら儲けもの、と言う程度だ。
「問題は、あの女一人をどうやって確実に自殺に追い込むか、だけ。
イジメは、無理か。ああ見えて人気あるからな。
輪姦も、難しいか。最近は、何処もかしこも監視カメラがついてる。人目のない場所を探す方が難しい。
だったら……」
確実にスミレを殺す構想を口ずさみながら、エミナは教室に帰ってきた。
エミナは悪魔部で見せた狂気を隠す。少々疲れた一生徒に偽装した。
騙されているとはいえ、恋人のコウセツなら自身の変化に勘付く可能性があると考えての偽装である。
「エミナ、ナイスタイミング。ちょっといいか?」
ケンジが小走りに近寄ってきた。その姿は平凡な昼休みを思い起こさせ、見る者の印象に残らない程地味だ。
エミナは教室の中を軽く一瞥し、コウセツが居ない事を確認すると教室を出る。
「用、外で聞く」
ケンジの姿を見ようともせず、エミナは足早で廊下を歩きだした。ケンジがエミナの隣に行って囁く。
「ここは人目につくから、向こうの。そうだな、社会準備室の辺りで話そう」
エミナは軽く頷くとケンジを置いて、社会準備室の方へ向かった。
ケンジがその隣を歩こうと肩を並べる度に、エミナは歩く速度を上昇させていく。コウセツ以外の男と、仲良く肩を並べて歩きたくなかった。
エミナの気持ちを知ってか知らずか、ケンジもエミナの歩調に合わせて速度を上げる。
次第にあがる歩調は、最後に競歩のレベルまで達した。駆け足と同じ速度に達しながらも走らないのは、妙な意地が働いたからだろう。
すれ違う生徒を振り返らせながら、エミナとケンジは校舎の隅にある社会準備室にたどり着いた。この辺りは視聴覚室等、殆ど使われない教室しかないので人気がない。
「で、何の用」
エミナは社会準備室のドアに寄りかかる。涼しげな顔をしているが、頬は赤く肩で息をしていた。
「そ、それなんだが、ちょっと手伝って欲しいんだ」
ケンジはカッターシャツの襟元を広げながら、袖で額を拭う。
「手伝うって、何を?」
「それは」
ケンジが用件を説明しようとした時、声が聞えた。
ただの声ではない。何かを押し殺した苦しそうな声だ。
エミナとケンジは、声のした方を振り向く。
人影は見えなかった。その代わり、社会準備室と反対側にトイレの入り口がある。
廊下は突き当たりになっており、声は社会準備室かトイレから漏れ出たものだと予測できた。
「イジメ?」
「かもね」
エミナの呟きに、ケンジが応える。二人の視線はトイレの方を向いていた。
防犯システムの一種として、校内のいたる所に監視カメラが設置されている。その為、教師に隠れて喫煙、飲酒、イジメ等は殆ど出来なかった。
無論例外もある。
授業中の使用していない教室や、更衣室等だ。経費削減やプライバシー保護の為である。当然、トイレもその一つに入っていた。
トイレの中から、女の苦しげな声が漏れている。
「聞いたことある声ね」
「そうだね」
二人は顔を見合わせると、足音に気をつけながらトイレの入り口に忍び寄った。
トイレに近づくと、女の声はより鮮明に聞こえてくる。声は苦しげであったがそれだけではない。
媚びた艶のある声だ。
エミナはその声が何の声か気付くと、身体を震えさせる。隣に居るケンジも声の正体に気付いたのだろう、頬を染めながらも、呆然とした様子だ。
「コウ……い……」
「……ミレ、い……」
男の切羽詰った声が、女の声にかかる。それだけでエミナは、トイレの中で何が起きているか理解した。
一際大きな声が上がり、トイレの中が静かになる。何かした後特有の気だるい雰囲気が、トイレの中を充満していた。
「帰る。話は後で聞くから」
エミナは返事を待たずに、その場から立ち去る。
ケンジが声をかけてくる様子はなかった。
「スミレ、すぐに地獄へ落としてやるからね。楽しみに待ってて」
口元から流れ落ちる赤い軌跡を、エミナは手で拭う。前を見つめる瞳は、今まで以上に黒く濁っていた。




