六月二八日
六月二八日、火曜日、エミナは正門に寄りかかり、生徒玄関を鋭く睨みつける。目の下にできた濃い隈と乱れきった髪、張りや艶を失った肌が、異常な空気をかもし出していた。
普段なら帰宅部の一団で混み合うはずの正門で、エミナの半径一メートルだけ人が寄り付こうとしない。誰もが、エミナから視線を逸らし、足早に去って行く。
時折、冷やかし半分にエミナの様子を伺う生徒も居たが、エミナが睨みつけると足早に去って行った。
周囲の様子にエミナは舌打ちを打つ。一週間近く荒らされ続けた神経が、更にささくれだった。
「さっさと来なさいよ」
エミナは吐き捨てる様に呟く。自身が思っていたより剣呑な声色に、気持ちを落ち着ける様と深呼吸を始めた。
待ち人が来た時、今の精神状態ではまともに話せないと自覚しての行動だ。
「来た」
エミナは殺気の入り混じった視線を、生徒玄関から出てきたカップルにぶつける。
カップルは清潔感溢れる男子と和風美人な女子の組み合わせ、コウセツとスミレだ。二人は肩を寄せ合い仲むつまじく歩いている。
六日前、スミレがコウセツに告白をした。そして、二人は付き合う事になったらしい。
エミナが知っている事はそれだけだ。告白の翌日に、スミレ本人から聞かされた。
コウセツに付きまとう毒婦サチエの正体を知り、地獄に落とす計画を練っている最中に起きたサプラズ。混乱したエミナは、事実関係の把握に、五日間も使ってしまった。
その五日間はエミナにとって地獄であった。
目の前で、手に触れる事の出来る位の距離に、愛しいコウセツに付きまとう売女が居るのに、指一本触れる事は許されない。スミレに何かあれば、騙されているコウセツが自分を疑う可能性がある。
腹立たしくもエミナは、細心の注意を払ってスミレを陰から守らなければならなかった。
憎いから八つ裂きにしたくて、許せないから殺したくて、愛しているから守る。
その矛盾が、エミナを日々やつれさせていた。
「あ、もう限界」
何処となく清清しくエミナが宣言する。
「今すぐコウセツを更正しなきゃ、あたし我慢できない」
コウセツとスミレが互いに指を絡めている姿に、張り詰めていたものが千切れた。
エミナは二人の前に立ち塞がる。
コウセツとスミレが驚いた顔を見せた。
「「エミナ」」
二人の呼び声に、エミナは歓喜と憎悪を掻きたてられる。歓喜はコウセツが名前を呼んだ事、憎悪はスミレが名前を呼んだ事で生まれた。
エミナはスミレを視界から外し、コウセツに近づく。
コウセツの顔が強張った。
恐怖に彩られた表情にエミナの胸が痛む。同時にコウセツを騙し、ここまで洗脳した罪人、スミレに対する怒り増した。
コウセツを悪夢から覚ましてあげる、と心の中で呟き、エミナはコウセツの手を掴む。
「コウセツちょっと来て」
エミナはコウセツの手を引いて校舎に戻ろうとした。
「お、おい、ちょっと待てよエミナ」
歯医者を嫌がる子供の様に、コウセツは抵抗する。
「あなたの為に場所を変えてあげるの。大人しくついて来て」
「そ、そんな勝手な。話なら家で聞くよ」
「今! 今必要なの。お願いあたしを困らせないで」
エミナは手を握る力を強くしながら、懇願するように頼んだ。
エミナを愛しているコウセツを騙し誑かしたスミレへの憎悪が、自制出来ないレベルに達しようとしている。このままでは、この場でスミレを殴り倒してしまいそうだった。
「わ、分かったよ」
エミナは、コウセツが素直に頷いてくれた事で、少しばかりの優越感と安堵を手に入れる。
エミナは、コウセツの手を掴んだまま校舎に入った。
エミナは無言で歩き続ける。すぐにでも叫んでしまいたい感情を、残り少ない理性が必死に押し止めていた。。
たとえ騙されたとしても、たとえ洗脳されたのだとしても、自分以外の女と一緒に居るコウセツの姿に何も感じない程、エミナはコウセツに狂っていなかった。
だからこそ、コウセツに対する深い愛と共に、別の想いも胸に溜めていた。コウセツを騙したスミレに対してだけではない。
エミナは教室の前に来ると、荒々しくドアを開けた。
教室の中では、地味に一人で掃除をしている男子生徒がいた。男子生徒は驚いたような顔をエミナ達に向けた。
「ケンジ、地味に何やってるか知らないけど、帰れ」
エミナの突き放した物言いに、何か反論しかけたケンジだが、エミナの後ろ見て口を紡ぐ。
何かに気付いたのだろう、大きくため息を吐くと、ケンジは鞄を持って教室から出て行いった。
二人とすれ違う時、ケンジは咽を鳴らすように囁く。
「まぁ、がんばれよ」
エミナとコウセツどちらにかけられた言葉かは分からない。
エミナは忌々しそうに舌打ちした。
「地味根暗が」
エミナがそう呟く。
ケンジの姿が見えなくなると、コウセツの手を握っていた手が振り払われた。
「あー、痛てぇ」
コウセツはわざとらしく腕を摩る。教室のドアを閉め、ゆっくり自分の席に向かった。先ほどまでの清潔感や、線の細さが消え、代わりに何処かふてぶてしさが現れる。
「はぁ、やっぱりコウセツは、そっちの方がカッコいいよ」
コウセツの豹変を、エミナは恍惚とした様子で見つめた。
コウセツは自分の椅子に座ると、侮蔑に満ちた顔でエミナを睨む。
「で、何の用だよ? 後、僕の名前を呼ぶな。気持ち悪い」
「何の用? そんなの決まってるじゃない。スミレとサチエ、あの二人は何なの?」
エミナは蕩けるほど熱い視線から一転、凍りつくほど冷たい視線を突き刺した。
「何、てそりゃあ、カノジョと恋人じゃないかな?」
コウセツは気軽に応える。サチエの事を知られていると言うのに、驚いた様子はなかった。
「浮気したって認めるんだ」
冷え冷えとした声がエミナの口から漏れる。
そして、コウセツがやはり騙されている、と確信した。
コウセツを本当に好きなのはエミナだけなのだ。そうである以上、大して好きでもない雌がコウセツを騙して、自身の性欲を満足させているに違いなかった。
少なくとも、エミナにとってそれ以外の答えはない。あってはいけなかった。
「浮気? ああ、確かに二股だね。でも、それ、お前には関係ないだろ」
コウセツの言葉に、エミナは絶句する。信じられないものを見るように、コウセツを凝視した。
お前には関係ない。
たった一言が、エミナの世界を壊す。エミナは、自分の全てを否定された様に感じた。
何も考えられなくなる。
気管を通る空気が嫌に粘ついているように感じた。
「か、関係あるよ。だって、あたし、コウセツの恋人だもん」
エミナはスカートを握りしめ、咽から搾り出すように呻く。
それと同時に、頭の何処かで冷静な分析をしていた。
コウセツは、やはり洗脳されている。だから、あたしの事をこんなに避けるんだ、とエミナの頭脳は彼女の知る世界でもっとも常識的な結論出す。その世界が、先ほどコウセツに否定された事は無視していた。
「やめろよ。はっきり言うけどな。お前のその狂った想いは迷惑なんだよ!」
コウセツは激情を叩きつける様に、エミナを拒絶する。
「……狂ってなんかない。あたしは、あたしは、いつものコウセツが好きなだけだよ。コウセツは騙されてるんだよ。気付いて」
例え騙されているとは言え、愛する人からの強烈な拒絶にエミナは泣きたくなった。
「ふざけんな!」
はじける様にコウセツは立ち上がる。
「ふざけてなんか言いないわよ。コウセツは騙されてるの」
エミナはコウセツを宥める為に抱きしめようと、手を伸ばした。
しかし、コウセツは後ろに下がり、エミナの手は空を切る。
「何で逃げるの?」
エミナはコウセツに手を伸ばしながら尋ねた。エミナの指はコウセツを求め、伸ばされる。
「何で、当たり前だろ! ここ二週間お前がやってた事を考えれば当然の反応だよ」
コウセツの手が、エミナの手を打ち払った。
エミナは打ち払われた手を胸に抱く。目尻から一滴涙が、頬を伝って床に落ちた。
「酷い、愛してるから、ちゃんとして欲しいだけじゃない」
愛しているから浮気をして欲しくない。
愛しているから自分を見て欲しい。
愛しているから愛をください。
エミナは胸の内にある欲求を言葉にしよとするが、うまく言葉を紡げない。
「別に、付き合ってるわけじゃない。どうしようと俺の勝手だろ」
エミナは自身の世界が壊れた音を聞いた。
「そんなことない、絶対そんなことないよ」
「事実だろうが! いい加減認めろよ。このキチガイ!」
コウセツが苛立ちを隠そうともせず、睨みつける。
エミナは呆然とした様子で立ち尽くすだけだ。
頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。OSをウイルスに犯されたパソコンの様に、彼女の基盤が狂わされていた。正常な判断どころか、簡単なプログラムを走らせる事もできない。
エミナの脳は神経網の全てにパルスを送り、自身の基盤の再構築と防衛だけ行う。
壊れた基盤を取り除き、その部分にふさわしく、前回とは違う基盤を埋め込む。
新たな基盤を埋め込んだ所為で出来る矛盾を、既存の基盤を塗り替える事で終始一貫したものにする。
その工程は、誕生といっても差し支えないものだ。
自身の根幹までエミナの人格はコウセツとの愛で形成されていた。
特別な理由などない。生まれた時から一緒に居て、物心ついた時から恋をした。
エミナの人生のほぼ全てが、コウセツへの愛で埋め尽くされていただけだ。
だから、その基盤を壊す、エミナの人生を殺そうとするものを、エミナは許さなかった。
「何よそれ!」
エミナは今までにないほど醜悪に顔を歪ませる。まるで肉食獣の様にエミナは、コウセツをにらみつけた。
コウセツは恐れおののいたように、一歩後ろに下がる。
「逃げるなんて許さない」
エミナの殺気に満ちた一言で、コウセツの体が遠目からでも分かるほど強張った。
「私の処女奪ったくせに!」
エミナは胸のうちを吐き出すように叫ぶ。
中学二年の夏、エミナはコウセツに襲われた。
まだ夏の熱気が残るお盆の事だ。
お互いの両親が旅行に行き、エミナとコウセツは二人きりの夜を過ごした。
初めて過ごす両親のいない夜に、コウセツのテンションは高かった。中学に入る頃には使わなくなった粗雑な口調で、学校の馬鹿話に興じる。少なくとも、エミナの目にはそう見えた。
エミナもコウセツに合わせて、馬鹿みたいに笑った。
夜も深まり、コウセツのテンションが臨界まで高まった所で、エミナはビールを取り出す。
一つはコウセツの分、もう一つは自分の分だ。
お互いちょっとした好奇心のつもりでビールを飲んだ。
そして、苦い、まずい、と言って笑いあった。それでも二人は飲み続け、気付いたときには何本もの空き缶が出来ていた。
それから先をエミナはよく覚えていない。
覚えているのは、コウセツに自分の胸を触らせたくだりだ。
きっかけは色気がないとかそんな話だと思う。
そして、事後、裸のコウセツと抱き合った所は覚えている。
それだけだ。その間は殆ど覚えていない。
しかし、翌日の朝、スカートの裏側や内股に付いた血痕や、腹部の痛み、そして裸で抱き合っていたコウセツ、そこまで条件が揃っているならば、もう答えは出ていた。
エミナにとってそれは絆だった。どちらが誘ったのか、どちらが受け入れたのかはわからない。
だが、二人が愛し合った結果だと、エミナは信じている。
「それなのに、全部なしにするなんて」
許さない、と続けようとしたところで、教室のドアが開いた。
エミナは開いたドアを見て、満面の笑みを浮かべる。
開いたドアの先には、スミレが居た。
コウセツは顔を真っ白にしている。
「あは、あははははは」
エミナは笑った。自分の敵が、あまりにも良いタイミングで、馬鹿の様にやってきたのだ。これが笑わずしていられようか。
エミナは嫌らしく笑いながら言う。
「ごめぇ~ん、コウセツぅ、ばれちゃったね、えへ」
未だ動かないコウセツに抱きついた。エミナは出来るだけ身体を密着させ、自分と本当のコウセツの親密度を見せつける。
「スミレもごめんね。
本当はもっと早く言わなくちゃいけない事だったんだけど、スミレがあんまりにも幸せそうで、哀れだったからさ、言えなかったんだ。
本当に、ごめんね」
心では嘲りながらも、エミナは言葉だけの謝罪をする。
愉快だった。
さっきまで自分を苦しめていたクソ女が、今では呆然と立っているのだ。これが面白くないわけがない。
エミナは、哀れなスミレが次に行う行動、すなわち逃走を待つ。その負け犬じみた背中を嘲笑う為だ。
しかし、エミナの夢想が叶う事はなかった。
スミレは無表情のまま、エミナに近づいてくる。
エミナの笑い声が少しづつ静まっていく。
スミレの瞳は真っ直ぐエミナを貫いている。その瞳に、怒りや憎しみの色は感じ取れない。澄んでいるわけでも濁っているわけでもない。
ただの瞳だ。平均的な人間の瞳だ。特別なものはない。異常なものもない。ただの瞳だ。
エミナは知らず知らず、歯を食いしばる。動く事は出来ない。腕にある温もりを離したくなかった。
好きな人の温もりを味わい続けたい。そんな当たり前の欲望が、当たり前でないこの場で作用する。
スミレがエミナの前で止まった。
スミレの瞳にエミナの顔が映る。酷い顔だった。眉間にシワを寄せ、眉をつり上げ、口は笑い、目は濁り、頬は落ちている。人の作れる表情とは思えない。
そして、スミレの拳がエミナの顔面に直撃した。
一瞬エミナの意識が飛ぶ、エミナは二、三歩よろけて仰向けに倒れた。
巻き込まれた机や椅子が盛大な音を奏でる。
体中が痛みを訴える中、エミナは虚空を見つめる。少しづつ意識の焦点が合い、鼻から血を流している事に気づいた時、エミナは起き上がる。
エミナの視界の先では、スミレがコウセツの手を引いて、教室から出ようとしていた。
「スミレェ」
エミナは鼻を抑えながら叫ぶ。
「あんたコウセツを何処に連れてく気! コウセツはあたしのだ! 髪も目も爪先も全部、全部、あたしんだっ。あんたなんか、お呼びじゃないんだよ!」
エミナは濁りきった声で訴える。自分の全てを奪うな、と瞳に力を込め、スミレを睨みつけた。
対するスミレの反応は、冷笑だった。まるで阿呆を見るように鼻で笑い告げる。
「今更過去を引き合いに出すなんて、どうしようもなく醜いね。今、コウセツが好きなのは私だよ。お古はさっさと消えて、ま・け・い・ぬ・さん」
スミレはエミナの姿を舐める様に眺め、去っていった。
「殺してやる」
エミナは、スミレの去ったドアを睨む。
「殺してやる。絶対殺してやる」
呪詛に満ちた言葉をエミナは呟き続ける。この場に居る全ての人間を呪う、差別のない無邪気な呪詛が教室に漏れ響いた。




