六月一六日
六月一六日、木曜、東の空に太陽が昇り始めた頃、エミナは家を出る。
辺りは静まり返っており、遠くからカラスの鳴き声が聞こえた。
普段の登校時刻までたっぷり三時間はある。何時も遅刻ギリギリに起きるエミナにとって、おきている事があり得ない時間である。
当然、エミナの身体もついてこれない。目には薄らとクマつき、肌がかさついていた。
エミナは眠た気に目をこすると、隣の家の塀に背を預けて携帯電話をいじる。規則正しいリズムでプッシュフォンが鳴っていった。
六月とはいえ、まだ朝方は冷え込む。
エミナはかじかむ指に、時折息を吹きかけた。冬には大雪が降るこの地域では、今の時期でも早朝の気温は十度をきる。
一時間ほど携帯で遊んでいると、油のはじける音やテレビの音が聞こえてきた。背広を着た男性がかばん片手に背中を丸めて歩いていく。
普段見る事のない朝の風景だが、エミナは携帯から顔を上げなかった。まだ眠いのだろう、時折、大きな欠伸をかいている。
携帯のバッテリー残量が三分の一まで減ったところで、エミナの背後からドアノブの回される音が鳴った。
意識を集中しなければ聞こえない音量だが、エミナの耳にはしっかりと聞こえていた。
ドアは小さな軋み音を立てながら、控えめにゆっくりと開かれ、同じように閉められる。
かすかに土がこすれる音が、塀の中から近づいてきた。土のこすれる音が横から聞こえるまで待って、エミナは顔を上げた。
「おはよ、コウセツ。今日は早いけど、どうしたの? あんたがこんなに早いんじゃ、明日は雪でも降るんじゃない」
笑顔を浮かべるエミナの先では、身を小さく縮めたコウセツが片足を上げた状態で固まっていた。
「なぁに、固まってるの。血圧がちょーと低いエミナちゃんが、朝早く準備してたからって、その態度はおかしいでしょ」
エミナは腰に手を当てて、頬を膨らます。
「わあぁぁぁぁぁぁぁぁ」
コウセツは一度瞬きをすると、すぐに背を向けて走り出した。たった数秒で小指の先ほどの大きさになる。
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ。折角、昨日の事、許してあげようと待ってたのに! その態度はないでしょうがっ!」
エミナは地団駄を踏むと、携帯電話をかばんに放り込み走り出した。ずっと外にいた為冷え切った間接がぎこちなく動く。
懸命にコウセツの後を追うが、手足がうまく動かなかった。更に睡眠不足が祟ったのか、すぐにエミナの息が上がる。
血流が次第に早まり、心音が耳元で爆発音を鳴らしていた。
あごを上げて走るエミナの視界からは、小指の先ほどの大きさのコウセツが見えた。大きさは走り始めた頃と変わらない。
影法師を追いかけているように、まるで縮まらない距離に歯軋りする。
「ふざけないでよ! コウセツはあたしの隣が一番似合ってるんだからっ!」
エミナは気合一発、足の指に力を入れた。ばねの様に跳ね上がる太ももを地面に押し込んで、一気にトップスピードをたたき出す。間接が悲鳴を上げるが、気にしている余裕はなかった。
その甲斐あって、少しづつコウセツの姿が大きくなっていく。
手を伸ばせば捕まえられる所まで距離を縮めた所で、コースは狭く曲がりくねった裏道に入った。
T字路の突き当たりをコウセツは綺麗な弧を描いて曲がる。
その直後、同じ角をエミナが体を横滑りさせながら直角に曲がって追いかけた。
二度、三度、角を曲がった時、エミナはコウセツとの距離が離れてきている事に気づく。
「だああっ! 本気で逃げんじゃないわよ。絶対追いついて、教育してやるっ!」
すでに当初の目的を忘れたエミナは天に向かって吼えると、走る速度を少し落とした。ちょうど、前を走るコウセツと同じ位の速さだ。
速度を落とし、コーナーで距離を縮める作戦である。コウセツより小柄な身体が功を奏し、エミナはコーナーの度に少しづつ距離を縮めていった。
いつしか二人の周りから家並みが途絶え、五、六階建ての小さなテナントビルが建ち並ぶ。
エミナは舌打ちをした。後二、三〇〇メートルで学校に到着する。もう、猶予はない。先回りしようにも、コウセツの走るコースが最短コースだ。
現状を把握したエミナは、一か八かの賭けに出る。
筋肉がパンパンに張った両足に活を入れ、速度を限界まで上げた。短距離走でもするように、まっすぐ速く走る事だけに集中する。
エミナは本日最高速をたたき出した。
逃げるコウセツの後姿がどんどん近づいてくる。
エミナは指先を伸ばして、コウセツの背中を捕らえ様とした。指先がコウセツの襟に触れた時、コウセツが右に曲がる。
コンクリート製の電柱が、エミナの視界いっぱいに広がった。壁の隣には階段があり、天井から喫茶店の看板が吊り下げられている。
このままでは電柱に体をぶつけるか、階段に突っ込むしかなかった。
「こンっのぉ」
とっさにエミナは足を高く上げる。高々と上げられた足の裏が電柱と体の間に挟まった。上半身がつんのめり、前髪が柱にかする。後一センチ、頭が前に出ていれば、電柱で額を割ったであろう。
エミナはコウセツの後姿を確認し、またも百メートル走の要領で走り出した。
学校の正門をくぐった所で、ついにエミナの手がコウセツを捕らえる。コウセツの腕を掴んだエミナは、引き抜くように引張った。
突然、予想外の力を加えられたコウセツはバランスを崩し、たたら踏む。その隙にエミナはコウセツの正面に躍り出た。
両手を腰に当てたエミナが、コウセツを睨みつける。まだ朝も早い所為か、辺りに生徒の姿はない。
尋問するには最適の環境だ。
「コウセツゥ、いきなり逃げるとは、とんだ朝の挨拶ね。どういう事か、しっかり説明してもらうわよ」
コウセツの顔から血の気が引き、紙の様に白くなった。
腰に手を当てたままエミナは体を曲げ、仏頂面をコウセツの顔に近づける。
コウセツは顔をうつむけ、エミナの視線から逃げた。
エミナがその後を追い、コウセツは更に顔を背ける。
「何か言わなくちゃ、分かんないわよ。ちゃんと説明してよね」
エミナは意地の悪い声で、コウセツを威圧した。
コウセツは一言も言葉を発しない。無言のまま、エミナの脇をすり抜けようとした。
「ちょ、待ちなさいよ」
慌ててエミナがコウセツの手を掴むが、コウセツが腕を振り回して抵抗する。
「離せっ!」
コウセツが出した悲鳴のような声に、エミナの体から力が抜け落ちる。
拘束から逃れたコウセツは、逃げるように校門をくぐった。アスファルトで舗装された地面を、生徒玄関に向かい一直線に走っていく。
「何なのよ。ちょっとふざけただけじゃないの」
エミナは次第に小さくなるコウセツの背中を呆然と見詰めた。コウセツの姿が校舎の影に消える。
「逃げることないじゃない」
エミナがすねた様に呟いた。校舎の中から運動部の威勢の良い掛け声が聞こえる。目の前には校舎がそびえ立つが、この向こう側で運動部が掛け声を出しているに違いない。
「コウセツの、バカ」
自身の苛立ちをぶつける様にエミナは思いっきり石を蹴り飛ばした。勢いよく蹴り出された石は、甲高い音を立てて校舎に当たる。
校舎を付きぬけ運動部に当たる事のなかった石をエミナは口をへの字にして睨み付けた。




