六月一四日
六月一四日、火曜日、体操服を着たエミナは教室に戻ってきた。授業中の為、教室には誰もいない。隣の教室から教師の声が聞こえた。
エミナは所用があったので、生理と偽り授業を抜け出してきたのだ。
窓の外に視線を向けると、照りつける太陽の下、クラスメート達が準備体操をしてる姿が見える。
念の為、エミナは教室を一通り回ってみた。エミナは足音を立てないよう、慎重に歩を進めた。床と靴底が奏でる僅かな摩擦音さえも、エミナの耳を過敏に刺激する。
掃除ロッカーの中や、教壇の後ろ、カーテンの陰等、物陰に誰かが隠れていないか慎重に確認した。
「よし、誰もいない」
ガランとした教室の様子に、エミナの頬が緩む。
体育授業で男子はハードル、女子は短距離走をやるはずだ。
クラスメート全員がグランドに居る事は確認している。それでも心に残る微かな不安と警戒心が、エミナに教室を一回りさせた。
知らず知らず荒くなる呼吸を整えながら、エミナは自身の席に座る。机の脇にかけた鞄を取り出し、中に手を入れた。
「確かこの辺りに、置いたんだけど……あった」
鞄の中から封筒を抜き出す。何か角ばったものが入っていた。
エミナは封筒を逆さにし、中の物を取り出す。
封筒から出てきたものは、携帯のバッテリーだった。メーカー正規品ではない。本来のバッテリーにはないギミックを追加した特別仕様のものである。
大きな都市の一画で商いをしている男から買ったものだ。男の商品は既に何回か購入しており、その性能、耐久性は信頼できた。
バッテリーを手にエミナはコウセツの机に向かう。その足取りは先ほどより慎重で、抜き足差し足と言う言葉がしっくりする様子だった。
時折、教室のドアを振り返り、誰も来ていない事を確認する。時折聞こえる足音に肩を竦ませつつ、ゆっくり歩いた。
数分後、ようやくコウセツの机に到着する。
エミナは身をかがめて、机の中を覗きこむ。机の中には教科書とノートが綺麗に詰め込まれていた。
エミナは机の中に手を伸ばし、ノートと教科書の上に置かれた携帯電話を掴む。
「コウセツが悪いんだからね。コウセツは私のものなんだから、他の奴になんて渡さないんだから」
エミナは渡さない、渡さない、と繰り返し呟きながら、携帯の電源を落とし、素早くバッテリーを交換する。再起動させた時、携帯からメロディが流れた。
エミナは慌てて携帯を抱きしめ、息を殺す。
全神経を廊下に向けるが、誰かが来る気配はない。
「はぁ、ビックリした」
エミナは胸を撫で下ろすと、手に持った携帯を素早く机の中に戻した。
額ににじんだ汗を拭うと、軽い足取りで教室を後にする。
六月一四日、火曜日、パジャマ姿のエミナが勉強机に座り、ノートを開いていた。手にはシャーペンをもち、荒々しい文字をノートに書きなぐっている。
エミナはヘッドフォンから聞えてくる会話を聞きながら、爪を噛む。
一組の男女の会話だ。
「ハハ、サチエさん、それは酷すぎじゃないかな」
「酷くなんかないわ。あんなセクハラ親父、さっさとクビなればいいのよ。あの脂ぎった手で、こっちの手をつかまれたかと思うと、それだけで鳥肌が出てくるんだから」
「サチエさん、すっごくセクシーだからね。同じ会社に居たら、僕もセクハラしたいよ」
「なに、コウセツはあんな奴の味方ぁ?」
「違う、違う、いつだって僕はサチエさんの味方だよ」
聞えてくる甘ったるい会話に、エミナは歯軋りを抑える事が出来ない。
昼間、体育の時間に仕掛けたバッテリー型盗聴器の調子は良いらしく、声のニュアンスまで正確に伝えてきた。
「コウセツの嘘つき。あたしだけ、て言ったじゃない」
エミナは今すぐ隣の家に殴りこみコウセツの携帯を叩き割りたい衝動を必死に抑える。深く息を吐くと少しだけ眉間の険がとれるが、すぐに悪化してしまう。
サチエと呼ばれる女の媚びた声と楽しそうに受け応えるコウセツの口調が、エミナの神経をささくれ立たせていた。
右手のシャーペンは、規則正しく芯を出して折っている。
ポキ、ポキ、ポキ、ポキ、ポキ、ポキ
時計の針の様に正確に、シャーペンの芯を折る音が鳴る。
「それじゃ、今度の日曜日楽しみしてるから」
「僕も楽しみにしてるよ。おやすみ」
「おやすみー」
スピーカーのジャックを強引に引き抜いた時の音を喚き立てて、二人の電話は終った。
エミナはゆっくりと左腕を振り上げ、振り下ろす。鉄球でも落とした様な音が響き、机の上に乗っている小物が振るえた。
手の下で折れた芯の山が粉々に潰され、朱色に染まる。
「させない」
エミナは芯の山から手を持ち上げると、手に刺さった芯を一本、一本、丁寧に唇ではさんで抜いた。抜くたびに唇に緋色の化粧がされる。
「コウセツと二人きりで遊ぶなんて、絶対にさせない」
エミナは自らの胸のうちを表すように、醜く顔を歪めた。
「させない、させない、させない」
一言、一言、自らを戒めるように呟く。呟くたびに、エミナの顔から険が取れていった。顔から力が抜けていき、最後には能面の様に完璧な無表情になる。緋色の唇が艶やかに栄えていた。
エミナはマネキンの様な瞳でノートを見下ろす。ノートは折れた芯により黒い線がいくつも走り、その中心には赤い斑点が出来ていた。
ノートを覗き込む。そこには、幾つかの単語が書き連ねている。
「女、サチエ、会社員、日曜日……」
読み終えたエミナは、そのページを破った。粉雪の様に引き裂かれたノートの切れ端が、ゴミ箱に落ちていく。最後の一片まで千切り終えたエミナは、ちいさく笑った。
「コウセツを寝取る毒婦なんて、死んじゃっていいよね」
舌が自身の唇を淫らに這い、血化粧を舐めとる。唾液でぬらぬらと輝く唇の隙間から、熱い吐息が漏れた。




