第35話 漆黒乱舞
硝子の割れる音と男の怒鳴り声が響き、ミーファは裸足のまま慌てて休憩室を出た。
レゼルは簡単にはミスをしない人間だが、もしかしたら彼の正体がバレてしまったのかもしれない、と思ったからだ。
しかし、その心配はすぐ杞憂に終わる。彼は布巾でテーブルを拭きながら(何と動きを止めていない)、状況を判断しかねている瞳で店の割れた窓から大通りを見ていた。だが、状況が分かっていないのは彼だけでなく店内にいる者全員のようだ。
何があったの、とレジに立つ女子のクラスメイトに問い掛けるも、彼女は口籠もるだけだったので、ミーファは仕方無くレゼルの元に寄っていった。
「ミーファ? ってお前、裸足じゃ……」
「それはいいから。何があったの?」
それに答えたのはレゼルではなかった。何時の間にか隣に来ていた着物姿のセレンが、大通りを無言で指差した。
因みに、厨房仕事の生徒は制服にエプロンを付けるだけだが、セレンは我らがA組担任の希望というか趣向により無理矢理和服を着せられている。ミーファは少し彼女に同情してしまった。
指差された大通りを素直に見てみれば、
「え?」
ぱちくり、とミーファは瞼をしばたかせた。
いつ何時も混雑して止まない大通りは、和風喫茶の前だけ過疎化していた。そこにいるのは男が二人だけ。よく見れば、他の人間は彼らから遠ざかるように後退しながら、様子を窺っているように見える。
一瞬驚いたミーファだが、理由はすぐに分かった。人混みの捌けた場所にいる二人の男が殴り合いの喧嘩をしているのだ。
「ちょっ……何でよりによってA組の出し物の前でやるのよ!?」
怒りを通り越して唖然としてしまう。
と、そのとき、公の場で揉み合っている内の一人が大声を上げた。もう一人の男よりも顔色が悪く頬は痩けている。
「堕天使が短期間に二回も堕ちるたぁ、どういうことだよ! ちゃんと対策してんのか創造術師は!? こんな祭なんかやってねぇで脅威に備えろよ、創造術師っつーのは揃いも揃って馬鹿ばっかなのかよ!?」
どうやら、その痩せた男は創造術師の全員に文句を言いたいらしい。もう一人は肩幅の広い屈強な男で、創造術師を貶すな、とか叫びながら痩せた男に殴り掛かっている。
先週、堕天使が殆ど連続して堕ちてきたことは一般人も知っている。ちゃんと迎撃出来たとはいえ、それに不安を感じている人は多い。実際に、創造祭初日の前日、各学年の代表・副代表で構成された創天会のメンバーは、その不安を何とか創造祭で取り除きたいという学院長の意思を聞いている。
「と、とにかく、止めないと……」
不安になる気持ちも確かに分かるが、今は祭の最中で、そんな不安など訴えられても気分が沈むだけである。それに、何故A組の前で暴れ出すのだ。迷惑で仕方無いではないか。
だが、ミーファが一歩を踏み出した途端、レゼルが彼女の腕を掴んだ。
「ちょ、レゼル君? 放して、早く喧嘩止めないと――」
「裸足で、か?」
その言葉にハッとして下を見る。当たり前だが、勿論裸足のままだ。しかも、軽いとはいえ怪我もしている。
「全く……」
少し低い声に慌てて顔を上げると、レゼルは困ったように苦笑していた。
「ここは俺が行く」
「レゼル、私が行きましょうか?」
すかさずセレンが言う。だがレゼルは首を横に振った。
「いや、駄目だ。確か、正規の資格を持っていない学生創造術師は一般人に対して創造術を使ってはいけない、んじゃなかったか?」
それを聞いてミーファが目を丸くした。
「そ、そうだった。生徒手帳に記されている学生創造術師心得第21条にそんなのが……」
「いや、何条とかは覚えてねぇけど。だから、ミーファは怪我抜きにしても、二人が出るのは駄目だ。女の細腕じゃ、創造術使わないと男は投げ飛ばせないだろ、体格的にキツい」
それに、セレンは常に創造術で身体を維持しているので、彼女が一発殴ろうものなら思いっきり校則違反になってしまう。彼女は厳密にいえば学生ではないが、学院に滞在するにあたって、学生と同じ規則を守ることを義務付けられている。
二人が納得したのを確認すると、最初は煩わしかったが今となってはもう慣れてしまった長い黒髪の鬘を揺らし、レゼルは店の外に出た。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
突然の美少女(男だけど)の登場に、喧嘩していた男二人の動きが止まってこちらを見た。
周りの人々も、状況が変わったことに一層ざわつく。
一歩を踏み出す度、カツンカツン、と石畳の路面と下駄が軽やかな音を鳴らした。レゼルは内心で、足音を殺しにくい履き物だなと苛々していたが。サーシャに色々と仕込まれている彼は、自分の足音が聞こえると落ち着かない、根っからの武術家という人種なのである。
「申し訳ありませんが……」
レゼルは二人の男に近付くと、膝に両手を付いて少し腰を折った。痩せた男と、彼の肩を押さえ付けてその身体の上に乗る屈強な男は、ぎょっとした顔で突然現れた美少女を振り仰ぐ。
そしてレゼルは、湖の底を覗き込むような格好のまま、にっこりと爽やかに微笑み掛けた。横の髪がさらりと頬を滑り、彼はそれをうざったいと思いながら、しかし笑顔は崩さずに耳の後ろに引っ掛ける。
その美しい仕草に、男二人は暫しの間見惚れていた。周りからも感嘆の溜め息が漏れる。
しかし、
「かなり邪魔で迷惑なんで、喧嘩は他所でやってくれませんかね?」
という、お前が喧嘩売ってんじゃねーかみたいな台詞をレゼルが発したことで、慎ましやかというか桃色の空気は脆く崩れ去った。
「は?」
屈強な方の男が間抜けな声を上げる。
「いや、だから喧嘩は他所でやって下さい。(特に一年A組に)迷惑ですから」
少女でも通じる高さの声で、レゼルはもう一度同じことを言った。
「なっ……お前、そこの喫茶店から出てきて和服着てるってことは学院の生徒だろう!? 私は、創造術師を貶したコイツの口を塞ごうとしただけで――」
言いながら、痩せた男の肩を押さえる手に、屈強男は力を込めた。ボキ、と嫌な音が響く。
「ぐぁっ」
組み伏せられた方の口からは悲鳴が溢れた。
「テメ、何しやがっ……」
やられたのは左肩なのだろう、右腕で下から殴ろうとする。しかし、痩せた男の行動はレゼルによって止められた。
レゼルが振り上げられた腕を素早く掴んだのだ。更に、上に乗っている男の腹を膝で蹴り上げる。勿論、創造術は使っていない。
「がぁッ……!?」
鳩尾に入らなかっただけまだマシだが、相当な衝撃はあったのだろう。無様に地面を転がった男は腹を押さえて呻く。
「うぁ……この、クソアマッ……何でだ、お前は学生……創造術師だろッ……!?」
「まぁ、そうですけど。――そういう貴方は、どうやら創教団の団員みたいですね?」
創教団――創造術宗教団体。創造術を崇拝して止まない者達の組織だ。創造術師は全体の約七割が創教団に属するとされているが、それよりも一般人の団員の方が遥かに多い。堕天使という脅威に常に侵され続ける世界の希望、それが創造術とそれを行使する創造術師であり、それらは一般人の希望ともなっている。少しでも創造術師の為になることをしたいと、創教団に入る一般人は少なくないのだ。屈強な男もそういう中の一人なのだろう。
勿論、レゼルのように《雲》でなければ、一般人が創教団に入ることは創造術師にとってとても有難いことだ。創造学院だって、創教団団員の一般人の募金を少なからず得て運営されている。
男は創造術師を崇拝するあまり、堕天使への不安から創造術師に対しキツく当たってしまう痩せた男に腹を立て、しまいには喧嘩に発展したのだろう。一見すると創造術師を庇ったように見えるが、レゼルの意見からすれば、今、創造術師だとか何だとかは全く関係ないと思うのだ。
「おい女、いい加減手を放せッ……!」
路面から上半身を起こした痩せた男が騒ぐのを、腕を掴んだ手にギリギリと力を込めることで静める。そのままレゼルは蹴り飛ばした男を鼻で笑った。
「確かに、お前は創造術師を庇ったのかもしれない。だがな、まずは創造術師がどうとか創教団がどうとかより常識を考えろよ」
「……何を……」
「分からないのか? 周りを見てみろよ」
年下の華麗な美少女からひしひしと感じる威圧感に、男は腹の傷みを堪えながら素直に周りを見回した。
そこには、路上での喧嘩に怯える者や困惑する者、眉を顰める者。更には泣き出す子供や、急いでいるのを邪魔され怒っている者まで。当然、喧嘩を快く思っている人間など一人もいない。
周りからの非難する視線と割れた喫茶店の硝子に、屈強な男は我に返ったようだった。
「……分かったか? まずは周りを考えろ、ここは公の場だ。迷惑を掛けるな」
「……ッ、すまない……悪かった。つい、カッとなって……」
男は顔を歪めると頭を下げた。
それにより、幾らかだが場の空気が弛緩する。
「……ひゃ、ははっ! 年下のガキに説教されてやんの!」
しかし、その弛緩は痩せている男によってすぐに元に戻ってしまう。
「お前もだ馬鹿野郎」
「ぎゃッ」
空気を読めない男に苛立ち、レゼルは下駄の踵で奴の足首を踏みつけた。再び、ボギン、という嫌な音が鳴ったが無視する。
割れた窓から様子を窺うミーファやセレンも含め、周りの人々は地味な痛みを与えるその踏みつけにゾッとした。
そして、レゼルは頬を引き攣らせる創教団の男に顔を向け直す。
「まぁ、創造術師に協力的なのは良いけどさ。あっ、腹大丈夫か?」
「……思い切り膝を叩き込んでおいて、よく言うよ。しかし、ありがとう。まさか若者にマナーを習うなんてな……」
屈強な男は眉尻を下げて、今度はレゼルに感謝の意を伝える為、頭を下げた。
レゼルはそれに、礼なんか要らない、とだけ返すと、未だに腕を拘束したままの男に視線を移した。
「で? 全ての元凶はお前だ。堕天使が連続で堕ちてきたことに不安なのは分かるが、テメェも周りをよく見ろ。しかも大通りで暴れられちゃあ、他の奴らは迷惑で仕方無ないんだ」
「く、創造術師が悪いんだろ! 呑気に祭なんかしやがって!」
下駄に踏まれたままの足首が痛いのだろう(レゼルのSっ気が発動している)、骨が浮き出るほど痩せた男は涙目で喚いた。
レゼルは溜め息をついた。それにまた顔を紅潮させる男に手を突き出すと、呆れたように言った。
「あのな、この祭――創造祭は、創造術に関心を持って貰って適性を有する者に創造術師を目指して貰おうっていう、立派な堕天使対策の行事なんだよ。堕天使に対抗するには創造術師の数を増やすのが一番手っ取り早いからな」
「え……」
「さっきも言ったように、不安なのは分かる。だがその不安を広げるな。創造術師に対していい迷惑だ。堕天使対策で出来るものも出来ないんだよ」
レゼルは男の反論を封じて軽々とその言い分を切り捨てた。
痩せた男の身体から力が抜けたので、足首から下駄を退かし、腕の拘束も解いてやる。ぱた、と石畳の上に力無く腕が落ちた。
「それに、言いたいことがあるなら創造術師協会に言ってくれ」
だめ押しにレゼルが一言追加して、乱闘騒ぎはこれで終了――誰もが皆、そう思った。
「……最近、学院に《雲》が編入したらしいじゃないか」
「は?」
男がポツリと溢した言葉に、レゼルは眉を寄せた。
最近《雲》が学院に編入した――それは事実である。現に、その《雲》はレゼルなのだから。
「その《雲》は一年A組にいるんだろ? 堕天使が連続で堕ちてきたのはソイツが入ってからじゃないか。ソイツの、汚らわしい《雲》の所為で堕天使が堕ちてきてんじゃねぇのか……?」
一般人の中で、《雲》は堕天使と同じような『人間でないモノ』として扱われていることは知っていた。が、まさか今、それを口にされるとは流石のレゼルでも予測出来ない。
男が言う推測に対し、証拠がない、とそれを捩じ伏せることは簡単だ。しかし、ここで《雲》を庇うような発言をしてしまえば、レゼルの正体がバレてしまう可能性がある。
「……だからお前は、A組の出し物の前で乱闘騒ぎを起こしたのか?」
レゼルは慎重に言葉を紡いだ。
「……最初は文句を言ってやろうとしただけだ。乱闘になったのはアイツが怒って殴り掛かってきたからだよ」
男は、屈強な男の方を顎でしゃくって言う。
どうやら、その文句を言う場所を、《雲》云々の理由でA組の前にしたことは間違いないらしい。しかし、A組の生徒にとっては迷惑なだけだった。
とにもかくにも、こんな騒ぎは終わりにして、早く和風喫茶を再開せねばならない。騒ぎを起こした男二人は騎士団に預けるとして、後は割れた窓を新しい物に交換しよう。
――そんなことを、考えていたときだった。
「……教えろよ」
「――は?」
「《雲》は何処にいるのか教えろっつってんだよ!! ソイツを殺せばっ……!!」
突然、叫んだ男は立ち上がると、骨の浮かぶ細い腕を振り上げた。左腕はやはり屈強な男に肩を外されて動かないのか、右腕だ。
一般人相手に創造術は使えない。だが、創造術を使うなどという選択肢が無くともレゼルの対応は冷静だった。
カッ、カッ、と、下駄が二度だけ鳴った。
レゼルは右足を後ろに下げて半身になり、男の拳を流れるように避けた。剛に対しての、柔だ。
振袖がはためき、長い黒髪が舞い、漆黒の瞳が黒い光の軌跡を描く。
頬より二センチほど横を過ぎていった腕を両の腕でがっちりとホールド。振り返るように身体を回転させ、左足を横に大きく踏み出す。
「ぅ、らぁッ」
レゼルの背中に乗る形になった男は、軽々と彼に投げられ、次の瞬間には路面に叩き付けられていた。背中を打ち付けた男は、小さく呻くと気絶した。
華麗な一本背負投げが、決まった。
あまりの技の綺麗さに、周りの人々がわぁっと歓声を上げる。
振袖を着た美少女が、痩せているとはいえ一人の成人男性をいとも簡単に投げたというのだから、その美少女が本当は男だと知らない者から見れば驚きだろう。学生創造術師が一般人に対して創造術を使ってはいけない、ということは、リレイズが地元の人間か、創造祭目当てにやって来るような人間なら誰でも知っていることだ。
しかし、本当は男で《雲》でもあるレゼルには、周りの感嘆の視線や歓声は擽ったいを通り越して居心地の悪いものだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
乱闘騒ぎの後は、騒ぎを聞き付けてやって来た騎士団の団長に元凶の二人――痩せた男の方は気絶している――を預け、割れた窓硝子の処理をすると、レゼルは出し物の仕事へと戻った。
二人を引き渡す際、騎士団団長だという男ガラド・メイルに、
『聞いたよ、君、この男に背負投げをしたんだってね。全く剛健なお嬢さんだガッハッハッハ!』
お嬢さん、と呼ばれたことに対して彼に殺意を覚えたが、ナンパ目当てで和風喫茶に来る野郎共よりはマシだと思い直し、レゼルは必死でその殺意を押し留めた。
ガラド・メイルはそこそこ歳のいった、筋肉質で厳つい顔の男だった。リレイズ生まれのミーファとは、どうやら彼女が生まれたときからの知り合いらしいので、事情説明等は全てミーファに任せてしまった。
痩せた男が喚き散らした、堕天使や《雲》の件は、和風喫茶の売上にも影響してしまうのではないかと思われたが、そんなことはなかった。
どうやら、レゼルの一本背負投げが良いパフォーマンスになったらしく、客が減るどころか増えたのだ。レゼルが喫茶店の仕事に戻るまでの間に、一年A組にはかなり強い美少女がいる、などといった噂が大通りを駆け巡ったらしい。
仕事が増えると思うと、女装していることも含めて気が滅入るが、ミーファが満面の笑顔で喜んでいるので、まぁ、良しとしよう。
一本背負投げをしたことについては、
『よくやったわレゼル君! 乱闘騒ぎをパフォーマンスにしちゃうなんて、たとえ紛れでも凄いわ!』
と誉めちぎられたし、セレンからも、
『レゼルって運が良いのか悪いのか分からない人ですよね。でもまぁ、グッジョブです』
と、誉められた(のか?)。
そんなこんなで、売上競争の激化する創造祭の三日目は終わり、四日目も何もなく日が暮れていった。
堕天使と戦った後もピンピンしているのに、二日間働いただけでヘトヘトになったレゼルへ、吉報が届いたのは創造祭五日目の朝だった。
それは、一年A組の出し物『和風喫茶「星月夜」』の売上が、他クラスの追随を許さない域にまでなっているというものだった。
読んで下さりありがとうございました!
タイトルのことなのですが、前回「誰か考えて」と情けないことを言ったところ、何とタイトルを考えてくれた方がいまして、色々と意見を貰ったので、もうちょっと考えてみようと思います。不安定な作品ですみません……(汗
ここからは完全自己満足になります。何が起こっても大丈夫だという方だけ先に進んで下さい(↓)。
※レゼルとルチアで現パロ(というより学パロ?)。本編とはゴマ一粒ほども関係ありません。
放課後の教室。
自分の机に頬を押し当て、寝ぼけ眼でいるレゼルの眼前に、水色ツインテールの少女はトッポとプリッツを摘まんだ手を突き出した。
「ねぇレー君、ポッキーゲームしない?」
「……ポッキー何処いった?」
終わり。えええええ。
かなりこじ付けな突発短文でした。ポッキーゲームネタを本編に組み込むのは流石に無理でした。本編の世界にポッキーないですし(笑)
そしてポッキーの日はもうとっくに過ぎてるよっていう、何処をとっても救えない文章。でも、ポッキーゲームって、チョコのない柄の方を二人いる内どっちが食べるかで多少揉めそう。
……うん、果てしなくどうでもいい話ですね。