私が悪い?
胸が、ざわざわする。
朝からずっと、落ち着かない。
理由はない。
彼は普通に「行ってきます」と言ったし、
特別冷たいわけでもなかった。
なのに。
頭の中で、昨日の背中が何度も再生される。
触れたとき、少しだけ硬かった感触。
あれは疲れ?
それとも、拒絶?
仕事中も集中できない。
パソコンの画面を見ているのに、文字が入ってこない。
──嫌われたかもしれない。
──重いと思われたかもしれない。
──昨日の“ごめん”が多すぎた?
心臓が速くなる。
呼吸が浅い。
手のひらがじっとり汗ばむ。
久しぶりだ。
この感覚。
カウンセリングに通っていた頃、
先生に言われた。
「不安は事実じゃなくて、予測です」
わかってる。
でも身体は聞いてくれない。
トイレに駆け込んで、個室に座る。
スマホを握る。
彼とのトーク画面を開く。
昨日の最後のメッセージは、私。
『おやすみ』
既読はついてる。
それだけ。
何か送りたい。
『今日何時に帰る?』
いや重い。
『会いたい』
重すぎる。
『好きだよ』
それは…試してるみたい?
送れない。
胸がぎゅっとなる。
涙がにじむ。
──こんな私、やっぱり面倒だよね。
帰宅は、今日も遅かった。
「ただいま」
声は普通。
私は無理やり笑う。
「おかえり」
心臓はまだ落ち着かない。
夕食中、私はずっと彼の顔色をうかがう。
楽しそう?
不機嫌?
疲れてる?
彼は気づいたのか、眉をひそめる。
「なに?」
「え?」
「さっきから顔色うかがってるけど」
ドキッとする。
そんなつもりじゃ。
「ううん、別に」
笑う。
ぎこちない。
彼は少し黙ってから言う。
「また不安?」
その一言で、涙がこぼれそうになる。
図星だから。
でも、責められているみたいでもある。
「違うよ」
反射的に否定する。
本当は違わない。
夜。
ベッドに入る。
彼はスマホを触っている。
私は背を向ける。
鼓動がうるさい。
突然、呼吸が浅くなる。
あ、やばい。
胸が締めつけられる。
喉が詰まる。
「……ごめん」
気づいたら、声が出ていた。
彼が振り向く。
「どうした」
私は震える。
「なんか、息が……」
久しぶりの発作。
彼はため息をつかない。
背中をさする。
「落ち着け」
低い声。
安心するはずの声。
でもどこか、作業みたいだと思ってしまう。
「俺いるだろ」
その言葉に、胸が痛む。
いる。
いるのに、苦しい。
私は泣きながら、彼にしがみつく。
「ごめん……また」
謝る。
彼は少し沈黙してから言う。
「いつまでこれ続くの?」
世界が、止まる。
大きな声じゃない。
でも、確実に刺さる。
私は言葉を失う。
「治してやりたい」って言ってくれた人が。
「俺がいるから大丈夫」って言った人が。
今は、終わりを想像してる。
「ごめん」
また、それしか出てこない。
彼は私の手を握る。
「責めてない。ただ、俺も人間だから」
正論。
間違ってない。
だから余計に苦しい。
私は彼の胸に顔を押しつけながら思う。
──やっぱり私が悪い。
不安になるから。
重いから。
治りきらないから。
彼は悪くない。
私は、ちゃんとしなきゃいけない。
そうやって、自分を追い込むことでしか、
今はこの関係を守れない。
でも心の奥で、小さな声が囁く。
本当に?
それ、本当に私だけの問題?
土曜日の昼下がり。
彼はめずらしく在宅で仕事をしていた。
ダイニングテーブルにノートパソコン。
スマホは、その横。
画面は伏せられている。
私はキッチンで洗い物をしながら、何度も視線を送ってしまう。
触らない。
見るつもりもない。
ただ、そこにあるという事実が、落ち着かない。
──信じるって決めた。
昨日の発作のあと、彼は優しかった。
「病院また行くか?」
「一人で抱えんなよ」
少し疲れた顔で、でもちゃんと言ってくれた。
だから私は、疑わないって決めた。
なのに。
彼が立ち上がる。
「コンビニ行ってくる。コーヒー切れた」
スマホを……持たない。
テーブルに置いたまま。
心臓が、どくん、と大きく鳴る。
「すぐ戻る」
ドアが閉まる音。
静寂。
テーブルの上のスマホが、やけに存在感を持つ。
見ない。
見ないって決めた。
でも足が勝手に動く。
テーブルの前に立つ。
指輪がきらりと光る。
『俺がいるから大丈夫』
あの声が、頭の中で響く。
──信じろよ。
昨日の言葉も。
──疑うならちゃんと見てからにしろ。
ちゃんと見るって、どういうこと?
私はそっとスマホに触れる。
冷たい。
ロック画面は暗い。
指を離そうとした、その瞬間。
ぶるっ、と震えた。
心臓が跳ね上がる。
画面が光る。
通知。
ロック画面の上部に、LINEの文字。
名前は、途中までしか見えない。
「さ……」
そのあとに、ハートの絵文字。
♡。
呼吸が止まる。
仕事?
ハート?
いや、今どき仕事でも絵文字使う人いる。
いるよね?
いる。
いるはず。
頭の中で必死に言い訳を探す。
でも指が、画面の上に残っている。
解除すれば見られる。
誕生日。
私の誕生日。
前に、嬉しそうに教えてくれた。
「隠すもんないし」
その言葉がよみがえる。
隠すもん、ない?
胸が苦しい。
見たら終わる気がする。
見なければ、今まで通りでいられる。
どっちが正しい?
手が震える。
こんなことしてる自分が嫌になる。
最低。
でも。
もし本当に何かあったら?
知らないまま笑ってるほうが、惨めじゃない?
足音が聞こえた気がして、私はびくっとする。
まだ帰ってきてない。
時間は、まだある。
私は目を閉じる。
深呼吸。
心臓の音がうるさい。
そして、震える指で、パスコードを打とうとする。
……。
その瞬間、玄関の鍵が回る音がした。
体が固まる。
反射的にスマホを元の位置に戻す。
キッチンへ戻る。
水を出す。
彼が入ってくる。
「ただいま」
私は振り向く。
「おかえり」
声が、少しだけ上ずっている。
彼はテーブルに近づく。
スマホを手に取る。
一瞬、画面を見る。
親指が素早く動く。
そして、何事もなかったようにポケットへ入れる。
「どうした?」
私の顔を見て言う。
「顔、変だぞ」
胸がぎゅっと縮む。
見られてないはず。
触っただけ。
何もしてない。
「なんでもない」
私は笑う。
きっと、下手な笑顔。
彼は少しだけ目を細める。
「また不安?」
優しい声。
でも、その奥が読めない。
私は首を振る。
「ううん」
本当は、さっき見えた“さ”と“♡”が頭から離れない。
でも言えない。
疑ったら、またあの目をされる。
私は夕飯の準備をしながら思う。
見なくてよかった。
本当に?
それとも、怖くて逃げただけ?
胸の奥で、不安が形を持ち始めていた。
まだ、証拠はない。
でももう、完全に無視はできない。




