あなたを愛していた私へ
あの日から、数年が経った。
あの家を出たあと、私はしばらく何もできなかった。
朝起きて、窓を開けて、ぼんやり外を見るだけの日もあった。
体は自由なのに、心だけがまだあの部屋に残っているみたいだった。
大きな声を聞くと、体がびくっとする。
誰かが腕を強く掴む夢を見て、夜中に目が覚める。
それでも。
少しずつ、戻っていった。
友達とご飯を食べて、笑えるようになった。
髪を切って、新しい服を買った。
何でもない日常が、少しずつ帰ってきた。
そしてある日、気づいた。
あの人のことを、一日思い出さなかった日があった。
その瞬間、胸が静かにほどけた。
彼のことは、風の噂で聞いた。
会社では昇進の話が消えたらしい。
あの騒ぎのあと、職場にも少し話が広がった。
浮気相手とは、すぐに別れたと聞いた。
慰謝料の話でも揉めたらしい。
結局、どちらとも終わった。
それから転職を繰り返していると、共通の知人が言っていた。
私は、何も感じなかった。
ただ、そうなんだと思っただけだった。
──
数年後。
私は駅前のカフェにいた。
休日の午後。
窓際の席。
向かいには、今の恋人がいる。
穏やかな人だ。
声を荒げない。
不機嫌で黙り込んだりもしない。
私の言葉を、ちゃんと最後まで聞く。
当たり前のことを、当たり前にしてくれる人。
それだけで、安心できる。
彼がコーヒーを一口飲んで言う。
「緊張してる?」
私は少し笑う。
「ちょっとだけ」
彼は優しく笑う。
「大丈夫だよ」
来月、私たちは結婚する。
その時だった。
視線を感じて、顔を上げた。
少し離れた席に、一人の男が立っていた。
彼だった。
少し痩せている。
スーツは前よりくたびれている。
髪も整っていない。
でも、その目だけはすぐに分かった。
私を見ている。
彼はゆっくり近づいてくる。
足取りは迷っている。
でも、止まらない。
私のテーブルの前で立ち止まる。
数秒、何も言えない。
やっと口を開く。
「……久しぶり」
声が掠れている。
私は軽く会釈する。
「久しぶり」
それだけ。
彼の視線が、私の隣の人に移る。
それから、私の左手。
指輪。
細いリングが光る。
彼の呼吸が止まる。
「……結婚?」
私はうなずく。
隣の彼が穏やかに言う。
「来月です」
落ち着いた声。
それだけで、彼は何も言えなくなる。
彼は笑おうとする。
でも、うまくいかない。
目が赤くなっている。
「そうなんだ」
小さく言う。
「良かったな」
その言葉は、どこか壊れていた。
沈黙。
数秒。
彼は急に言う。
「俺さ」
言葉が詰まる。
「ずっと考えてた」
声が震える。
「なんで、あんなことしたんだろって」
私は何も言わない。
ただ聞く。
彼は続ける。
「お前、本当にいい女だったよな」
目から涙が落ちる。
「俺、全部壊した」
私は静かに答える。
「そうだね」
責める声ではない。
ただ、事実。
それが一番、彼に刺さる。
彼は縋るように言う。
「やり直せない?」
震えた声。
昔と同じ。
でも、立場は逆。
私はゆっくり首を振る。
「無理」
短い言葉。
それだけ。
隣の彼が、そっと私の手を握る。
自然な動き。
守るためじゃない。
ただ、そこにいる。
私はその手を握り返す。
迷いなく。
彼はそれを見る。
完全に理解する。
終わったんだと。
取り返せないんだと。
膝が少し揺れる。
立っているのもやっとみたいだった。
私は最後に言う。
「幸せになってね」
その言葉に、彼の顔が崩れる。
泣きながら笑う。
「無理だよ」
小さく言う。
「お前失ったのに」
私は答えない。
席を立つ。
会計をして、店を出る。
外の空気が気持ちいい。
隣の彼が言う。
「知り合い?」
私は少し考える。
そして答える。
「昔、好きだった人」
それだけ。
もう振り返らない。
彼がどうなったかも、知らない。
知る必要もない。
でも一つだけ、確かなことがある。
あの頃の私は、本当に愛していた。
壊れるくらい。
それでも。
あの愛があったから、今の私がいる。
心の中で、静かに言う。
あなたを愛していた私へ。
もう、大丈夫。
ちゃんと幸せになったよ。
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