崩壊
後ろから、足音が聞こえる。
荒い。
焦った足音。
「待て!」
彼の声。
私は止まらない。
門を出て、歩き出す。
「おい!」
腕を掴まれる。
強く。
昔と同じ掴み方。
でも、もう怖くない。
私はゆっくり振り返る。
彼の顔は、さっきまでとは別人だった。
余裕はない。
焦りと恐怖。
「なんなんだよ、あれ」
声が震えている。
「親の前で…」
私は静かに答える。
「事実だから」
彼は言葉に詰まる。
視線が揺れる。
怒りたいのに、怒れない顔。
「……なんで、そこまで」
かすれた声。
私は彼の手を見る。
私の腕を掴んでいる手。
昔はこの手に縋っていた。
安心していた。
でも今は、何も感じない。
「離して」
小さく言う。
彼は一瞬ためらう。
それでも、手を離す。
その動きだけでわかる。
立場が変わった。
彼は一歩近づく。
「やりすぎだろ」
弱い声。
さっきまでの強さはどこにもない。
「慰謝料とか…」
言葉を探している。
「そこまでしなくても」
私は少しだけ笑う。
皮肉でもなく。
ただ、不思議そうに。
「そこまで?」
彼は黙る。
私はゆっくり言う。
「浮気して」
「嘘ついて」
「暴力振るって」
言葉を重ねる。
彼の顔が歪む。
「それでも、そこまで?」
沈黙。
風が吹く。
庭の木が揺れる音。
彼は突然、私の肩を掴もうとする。
でも途中で止まる。
掴めない。
掴む資格がないと、やっとわかった顔。
「違うんだよ」
必死な声。
「俺、あいつとは本気じゃない」
出た。
その言葉。
私は首を傾ける。
「知ってる」
彼が驚く。
「え?」
私は続ける。
「あなたが本気だったのは」
少しだけ間を置く。
「自分だけ」
彼の目が揺れる。
深く。
彼は急に声を荒げる。
「でもお前だって!」
焦り。
怒り。
「離れなかっただろ!」
胸が少しだけ痛む。
それでも私は答える。
「離れられなかった」
正直に。
彼は言葉を詰まらせる。
「好きだったから」
静かに言う。
「本当に」
その一言で、彼の顔が崩れる。
今さら理解する顔。
彼は一歩下がる。
「……ごめん」
小さい声。
初めて聞く、本当の謝罪。
でも、遅い。
遅すぎる。
彼は続ける。
「俺、間違えた」
声が震える。
「お前みたいな女、いない」
涙が浮かんでいる。
「やり直せない?」
私は答えない。
ただ、見つめる。
その沈黙が、彼をさらに追い詰める。
「頼む」
声が崩れる。
「もう浮気しない」
「怒らない」
「なんでもする」
必死。
今まで見たことのない姿。
でも。
胸は動かない。
私は静かに言う。
「あなた覚えてる?」
彼は顔を上げる。
「私が泣いてた時」
彼の目が揺れる。
「あなた、言ったよね」
ゆっくり。
一言ずつ。
『俺から離れられないくせに』
彼の顔が固まる。
思い出した。
完全に。
私は少しだけ微笑む。
悲しい笑顔。
「離れられたよ」
彼の目から涙が落ちる。
ぽつり、と。
でも私はもう、手を伸ばさない。
私は最後に言う。
静かに。
はっきりと。
「あなたの優しさは」
彼が息を止める。
「暴力でした」
その言葉は、刃みたいに落ちる。
彼の体が揺れる。
崩れるみたいに。
膝が少し折れる。
私は背を向ける。
歩き出す。
彼の声が後ろから聞こえる。
「待って」
弱い声。
「行くな」
もう、振り返らない。
道路に出る。
風が吹く。
空が広い。
後ろで、彼が崩れ落ちる音がした。
私は歩き続ける。
止まらない。
もう二度と。




