挨拶
彼の実家は、静かな住宅街にあった。
整った庭。
白い外壁。
玄関先には手入れされた植木。
きちんとした家だった。
インターホンを押すと、すぐにドアが開く。
彼のお母さん。
柔らかい笑顔。
「いらっしゃい」
私は深く頭を下げる。
「本日はお時間いただいてありがとうございます」
彼の父親もリビングにいた。
背筋の伸びた人。
真面目そうな顔。
きっと、ちゃんとした家庭。
そう思う。
だからこそ。
ここで終わらせる。
⸻
テーブルに座る。
お茶が出される。
少し世間話。
仕事の話。
私の家族の話。
彼はどこか誇らしそうに話している。
「こいつ、料理うまいんだよ」
「支えてくれてて」
笑い声。
穏やかな空気。
結婚の挨拶としては、理想的だった。
彼のお父さんが言う。
「息子を選んでくれてありがとう」
私は頭を下げる。
そして、ゆっくり顔を上げる。
タイミング。
今。
私は静かに言う。
「その前に」
三人の視線が集まる。
「お伝えしなければいけないことがあります」
彼が少し眉をひそめる。
「ん?」
私はバッグを開く。
封筒を取り出す。
テーブルの上に置く。
紙の音が小さく響く。
彼の顔が、わずかに固まる。
私は封筒から数枚の紙を出す。
ゆっくり。
一枚ずつ。
テーブルに並べる。
LINEのスクリーンショット。
日付。
メッセージ。
彼の父親が紙を見る。
眉が寄る。
「これは…?」
私は静かに答える。
「息子さんの浮気の証拠です」
空気が止まる。
彼が椅子を引く音。
「おい、何やってんだよ」
低い声。
焦り。
私は彼を見ない。
視線は父親に向けたまま。
「婚約後のものです」
もう一枚、紙を置く。
ホテルのやり取り。
「昨日も一緒に寝た」
彼の母親が口を押さえる。
「そんな…」
彼が立ち上がる。
「ちょっと待て」
声が荒くなる。
「それ違うから」
私は初めて彼を見る。
静かに。
「違いません」
その声に、彼は言葉を失う。
父親が低く言う。
「……本当か?」
彼は視線を逸らす。
「いや…その…」
沈黙。
それだけで答えだった。
父親の顔が、ゆっくり変わる。
怒り。
「お前」
低い声。
「婚約者がいながら、こんなことを?」
彼は慌てる。
「違うんだよ、ちょっとした…」
その瞬間。
父親の手がテーブルを叩く。
バンッ
強い音。
母親がびくっとする。
「ちょっとした、だと?」
怒りが滲む声。
彼は黙る。
私はその間に、もう一枚紙を出す。
弁護士の名刺。
テーブルに置く。
「すでに弁護士に相談しています」
静かな声。
「浮気相手の女性にも、慰謝料請求を進めています」
彼の顔が、完全に青くなる。
「は?」
掠れた声。
私は続ける。
「その方は、婚約を知っていました」
父親が息を呑む。
「知っていて、関係を続けていました」
彼が叫ぶ。
「お前、何勝手に!」
私はゆっくり彼を見る。
初めて、まっすぐ。
「勝手?」
声は静か。
でも冷たい。
「あなたがしたことです」
彼は言葉を失う。
私は立ち上がる。
深く頭を下げる。
「本日はお時間をいただきありがとうございました」
母親が慌てる。
「待って…」
私は顔を上げる。
そして、彼を見る。
数秒。
目を逸らさない。
「結婚の話は、ここで終わりにします」
静かに言う。
「私には、無理です」
それだけ。
彼が近づく。
「待てよ」
声が震えている。
「話そう」
私は首を振る。
「もう話しました」
父親が言う。
「帰りなさい」
私に向かって。
優しく。
「こんな息子で申し訳ない」
私はもう一度頭を下げる。
玄関へ向かう。
背中で、声が聞こえる。
父親の怒鳴り声。
「お前は何をしているんだ!」
彼の言い訳。
母親の泣き声。
家の中が崩れていく音。
私は振り返らない。
外に出る。
空は晴れている。
深く息を吸う。
胸が軽い。
信じられないくらい。
軽い。
ポケットのスマホが震える。
彼から。
着信。
私は画面を見る。
数秒。
そして。
静かに、拒否した。




