縋る
叩かれる前に、私は謝るようになった。
彼がため息をついた瞬間。
眉を寄せた瞬間。
空気が重くなった瞬間。
「ごめんね」
まだ何も起きていないのに、先に頭を下げる。
彼は最初、驚いていた。
でもすぐに慣れた。
「分かってるなら最初からやるなよ」
その通りだと思う。
私は彼の顔色で動く。
声の高さで感情を読む。
帰宅時間で機嫌を予測する。
うまくできた日は、叩かれない。
それが嬉しい。
今日は成功だ、と胸を撫で下ろす。
基準がおかしいことに、気づかないふりをする。
ある夜、彼がぽつりと聞いた。
「俺いなくなったらどうすんの?」
冗談みたいな口調。
でも目は真剣だった。
私は考える間もなく答える。
「無理」
本音だった。
彼がいない生活なんて、想像できない。
彼は少し笑う。
「だよな」
満足そうに。
その顔を見て、安心する自分がいる。
情けない。
でも、嬉しい。
私はもう、逃げる側じゃない。
縋る側だ。
彼の腕にしがみついて、置いていかれないように必死になる。
叩かれても。
突き放されても。
最後に抱きしめてくれるなら、それでいいと思ってしまう。
⸻
外で、小さな異変が起きたのは、その頃だった。
久しぶりに会った友達が、私の顔をじっと見る。
「痩せた?」
笑ってごまかす。
「ちょっとね」
カフェのガラスに映る自分は、確かに少しやつれている。
でもそれより。
目が、違う。
友達がふと腕に触れる。
「ここ、どうしたの?」
一瞬、息が止まる。
袖を引き下げる。
「ぶつけただけ」
嘘が、自然に出る。
そのとき、スマホが震えた。
彼からだ。
『どこ?』
たった二文字。
心臓が跳ねる。
すぐ返信する。
『友達とカフェだよ』
既読。
間があく。
その数秒が、怖い。
『早く帰ってこい』
命令。
理由はない。
でも従う。
「ごめん、そろそろ帰るね」
友達が少し不思議そうな顔をする。
「大丈夫?」
その一言に、なぜか涙が出そうになる。
大丈夫。
その言葉が、喉につかえる。
私は、笑う。
「うん」
⸻
帰宅すると、彼は無言だった。
テレビを見ながら、視線だけ寄越す。
「楽しかった?」
穏やかな声。
でも試されている。
「うん。でもすぐ帰ってきたよ」
彼は立ち上がり、私の顎を掴む。
「俺より楽しいの?」
違う。
そんなわけない。
「違うよ」
即答。
それで満足したのか、手を離す。
その瞬間。
胸の奥に、何かが落ちた。
小さな、硬いもの。
このままじゃいけない。
ほんの一瞬だけ、冷静な自分が顔を出す。
彼のスマホ。
あのやり取り。
暴力。
命令。
全部、証拠になる。
私は彼を失うのが怖い。
でも。
このまま壊れていくのも、怖い。
その夜。
彼が眠ったあと。
私は静かにスマホを手に取った。
自分の。
録音アプリを開く。
指が震える。
怖い。
でも、震えながら思う。
もし。
もしも全部終わるなら。
せめて、私が悪者にならないように。
小さな芽。
それは復讐というより。
生存本能だった。




