飼い慣らす
最初の一度が境界線だった。
それからは、不思議なくらい早かった。
叩かれる理由は、どんどん小さくなる。
食器を割った。
返事が遅れた。
目を逸らした。
それだけで、音が鳴る。
乾いた音。
もう驚かない自分がいる。
あ、来る。
そう思う余裕さえできていた。
彼は怒鳴らない。
低い声で、淡々と責める。
「俺をイライラさせるな」
「なんで学習しないの」
「普通の女はこんなことしない」
普通。
その言葉が刺さる。
私は普通じゃない。
不安症で、重くて、依存体質。
だから怒らせる。
だから叩かれる。
原因は、私。
そう思えば、まだ彼を嫌いにならなくて済む。
叩いたあと、彼は必ず抱きしめる。
強く。
壊れ物みたいに。
「ごめん。でもお前が可愛いからだよ」
意味が分からない。
でも、その言葉に救われる。
可愛い。
必要とされている。
それだけで、全部帳消しになる気がする。
叩かれる頻度が増えるほど、私は彼の機嫌を読むようになった。
足音。
ドアの閉め方。
ため息の回数。
空気の重さ。
今日は安全か、危険か。
身体が先に察知する。
そして夜。
彼は別の顔になる。
怒っていたはずなのに、急に甘くなる。
「ほら、こっち」
腕を引かれる。
拒否する選択肢は、ない。
拒否したら、また怒る。
また叩かれる。
それが怖い。
だから従う。
彼は私の顎を上げる。
「俺のこと好き?」
確認。
毎回。
頷くと満足そうに笑う。
「じゃあ、ちゃんと応えろよ」
優しく触れる。
でも、その優しさは命令だ。
私は彼の機嫌を取るように笑う。
好きだと言う。
大丈夫だと言う。
本当は怖いのに。
痛みが残っているのに。
でも、彼に触れられると安心してしまう。
怒りのあとに与えられる優しさは、麻薬みたいだった。
強く叩かれた日の夜ほど、彼は甘い。
「俺から離れるなよ」
耳元で囁く。
「お前は俺のもんなんだから」
その言葉に、ぞくっとする。
支配されているのに。
縛られているのに。
それでも嬉しい。
誰かの『もの』でいられることが。
見捨てられない証拠みたいで。
ある日、鏡に映る自分を見た。
頬の薄い痣。
どこか怯えた目。
でも、その奥に。
彼を失うことを恐れている自分がいる。
逃げれば楽になれるかもしれない。
でも、離れた瞬間、私は空っぽになる。
彼の怒りも、優しさも、全部が私の世界だった。
彼は私を壊している。
でも同時に、私を必要としている。
そう思いたかった。
だから私は今日も笑う。
叩かれても。
抱かれても。
「好きだよ」と言う。
依存は、愛の顔をして。
静かに、加速していく。




