音
最初に叩かれた日のことを、私はたぶん一生忘れない。
ソファーに脱ぎ捨てられたジャケット
ポケットにレシートが入っていた。
女の子が行くようなおしゃれなカフェ
見なかったことにすればよかった。
でも、どうしても一言だけ聞きたかった。
「昨日、誰といたの?」
できるだけ普通に。
責めない声で。
彼はソファに座ったまま、ゆっくり私を見る。
「は?」
それだけ。
空気が凍る。
「レシート、入ってて…」
最後まで言えなかった。
彼が立ち上がる。
静かに。
怒鳴らない。
それが一番怖い。
「またかよ」
低い声。
「だから何?」
責めてない。
聞いただけ。
でも、言い訳がましくなる。
「責めてないよ。ただ、ちょっと不安で」
不安。
その単語が引き金だった。
「重いって言ってるよな?」
近づいてくる。
一歩。
二歩。
逃げないと。
体が動かない。
「俺のこと信じられないなら別れれば?」
その言葉に、心臓が止まる。
別れる?
そんなの、無理。
「やだ」
即答だった。
自分でも驚くくらい。
その瞬間。
乾いた音。
世界が揺れた。
一瞬、何が起きたかわからない。
視界がずれる。
頬が、遅れて熱くなる。
叩かれた。
理解した瞬間、涙が溢れる。
彼の顔は、怒りと焦りが混ざっていた。
でも次の言葉は、冷静だった。
「お前が悪い」
断定。
迷いがない。
「俺を疑うからだろ」
私は何も言えない。
言えば、また叩かれる気がする。
「泣くなよ」
苛立った声。
「俺だって傷ついてる」
意味がわからない。
でも、考える余裕もない。
彼は私の顎を掴み、顔を上げさせる。
「なあ、俺のこと好きなんだろ?」
頷いてしまう。
条件反射みたいに。
「だったら信じろよ」
涙が止まらない。
「ごめん」
また、私が謝る。
頬がじんじんする。
でも、それより怖いのは。
叩かれたのに。
それでも。
彼に嫌われるほうが、もっと怖いこと。
彼は深く息を吐く。
「ほんと、手がかかる」
そう言って、私を抱き寄せる。
さっき叩いた手で。
優しく。
「愛してるよ」
その言葉で、全部がぐちゃぐちゃになる。
痛みと安心が、同時に来る。
これが。
初めての“音”。
そして私は。
この瞬間から、少しずつ慣れていく。




