慣れ
最初は、あの日だけだと思った。
壁を叩いたことも。
腕を強く掴んだことも。
たまたま
私がしつこかったから
そう思おうとした。
彼はその後、また優しかったから。
⸻
二週間後。
私は彼の帰りを待っていた。
23時。
連絡は「仕事長引く」。
既読はついている。
帰ってきたのは、0時半。
少しだけ酒の匂い。
「おかえり」
笑顔を作る。
彼は靴を脱ぎながら言う。
「なんで起きてんの?」
声が、冷たい。
「心配で…」
その一言で、空気が変わる。
「は?」
低い声。
「監視?」
違う。
でも言葉が詰まる。
彼はゆっくり近づく。
酔っているのか、目が少し赤い。
「お前さ、俺のこと信用してないよな?」
またその話。
私は首を振る。
「してる」
「嘘つけ」
その瞬間。
肩を強く押される。
よろける。
今度は、はっきり押された。
テーブルにぶつかる。
鈍い痛み。
彼は一瞬、息を荒くする。
でも止まらない。
「重いんだよ」
初めて言われた言葉。
はっきりと。
重い。
胸が、ぐしゃっと潰れる。
「俺がどこで何してようが、お前に関係ある?」
関係あるよ。
婚約者だよ。
でも言えない。
「黙って信じとけよ」
また肩を掴まれる。
今度は両腕。
壁に押し付けられる。
背中が冷たい。
顔が近い。
目が怖い。
あの優しい彼じゃない。
「俺から離れられないくせに」
その言葉が、刃みたいに刺さる。
否定できない。
本当に、離れられる自信がない。
彼は数秒睨みつけて、ぱっと手を離す。
私は崩れ落ちる。
息がうまくできない。
彼は頭をかく。
「……くそ」
それから、急にしゃがむ。
「ごめん」
また。
同じ流れ。
でも、今回は痛みがはっきり残っている。
「俺、最近余裕なくてさ」
言い訳。
仕事。
ストレス。
私。
全部混ざる。
「でもお前もさ、ちょっと俺追い詰めすぎ」
追い詰めた?
私が?
混乱する。
彼は私の顔を覗き込む。
「泣くなよ」
優しい声に戻る。
「俺だって辛い」
私の涙が止まる。
辛い?
あなたが?
頭がぐちゃぐちゃになる。
⸻
その夜。
ベッドの中。
腕が痛む。
背中も。
でも彼は優しく抱きしめてくる。
「愛してる」
その言葉に、胸が震える。
怖いのに。
まだ、好き。
これが一番、恐ろしい。
⸻
数日後。
私は化粧で痣を隠す。
友達からのLINEを未読のまま消す。
彼は外では完璧だ。
優しい。
気が利く。
私を大事にしているように見える。
誰も信じない。
もし言っても。
「そんな人に見えない」
そう言われるのが、わかる。
⸻
ある夜。
彼がふと笑って言う。
「最近さ、俺怒るとお前静かになるよな」
冗談みたいに。
でも目が楽しそう。
その瞬間。
ぞくっとする。
ああ。
慣れてきてる。
私が。
彼の怒りに。
痛みに。
恐怖に。
慣れてきている。
それが一番、怖い。




