一度だけ
きっかけは、本当に些細だった。
日曜日の夜。
私は彼のシャツを洗濯機に入れながら、ポケットを確認した。
レシートが一枚。
ホテルの近くのコンビニ。
平日の昼。
彼はその日、出張だと言っていた。
心臓が、ゆっくりと強く打つ。
深呼吸。
問い詰めない。
冷静に。
私はリビングに戻る。
彼はソファでスマホを見ている。
「ねえ」
声が少し乾く。
「この日、出張って言ってたよね?」
レシートを見せる。
一瞬。
本当に一瞬だけ、彼の目が鋭くなる。
でもすぐに、呆れた顔。
「だから?」
「場所、違う」
沈黙。
彼は立ち上がる。
ゆっくり、近づく。
「またそれ?」
低い声。
前より温度が低い。
「ただ聞いただけ」
私の声は震えていない。
それが気に入らなかったのかもしれない。
「お前さ」
一歩、距離が縮まる。
「どこまで疑えば気が済むわけ?」
責める口調。
でも怒鳴らない。
それが余計に怖い。
「疑ってない。ただ──」
言い終わる前に、
バンッ、と壁に何かがぶつかる音。
彼の手。
私の顔の横、壁を叩いた。
耳鳴りがする。
近い。
顔が、近い。
目が、冷たい。
「いい加減にしろよ」
初めて聞く声。
低くて、重い。
空気が変わる。
私は動けない。
怖い。
本気で。
彼はしばらく私を睨む。
呼吸が荒い。
その瞬間。
彼の手が、私の腕を掴む。
強く。
痛い。
「俺がどんだけ我慢してるかわかってんの?」
掴む力が強くなる。
皮膚が引きつる。
「お前の不安、全部受け止めてやってんだよ」
『やってる』
その言い方。
涙が滲む。
怖いのに、泣くともっと怒らせる気がして。
私は必死に堪える。
彼はそれを見て、舌打ちする。
そして、ぱっと手を離す。
私はよろける。
その瞬間。
バランスを崩して、テーブルの角に腰をぶつける。
鈍い痛み。
床に手をつく。
彼は一瞬、固まる。
数秒の沈黙。
それから、急に顔を変える。
「あ……」
しゃがみ込む。
「ごめん、今のは違う」
違う?
何が?
「お前が転んだだけだろ?」
私は彼を見る。
さっきまでの冷たい目は消えている。
心配そうな顔。
手が伸びてくる。
「大丈夫か?」
優しい声。
頭が追いつかない。
怖かった。
確かに怖かった。
でも、殴られてない。
突き飛ばされてない。
私は勝手に転んだ。
……そう?
混乱する。
彼は私を抱き起こす。
強く抱きしめる。
さっき掴まれた腕が痛む。
「ごめん、声荒げて」
荒げて?
それだけ?
「お前失うの怖いんだよ」
耳元で囁く。
怖いのは、私のほうだよ。
言えない。
言ったら、またあの目になる。
「もう疑うな」
静かに言う。
命令じゃない。
お願いみたいに。
でも、拒否できない空気。
私は小さく頷いてしまう。
それを見て、彼は安心したように笑う。
その笑顔が、吐き気がするほど優しい。
⸻
夜。
シャワーを浴びながら、腕を見る。
うっすら赤い。
指の跡。
触ると痛い。
私は鏡の中の自分を見る。
これって、暴力?
大げさ?
私がしつこかったから?
頭の中で、彼の声が再生される。
『俺がどれだけ我慢してるか』
『お前失うの怖い』
怖い。
でも。
今日、はっきりわかったことがある。
彼は、怒ると怖い。
そして。
私が怖がると、少し満足する。
胸の奥で、冷たい何かがはっきり形になる。
これは、事故じゃない。
最初の一歩だ。
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