第九話 礫 ——君の頬に落ちた影
暗闇に慣れた目には、松明の炎さえ明るく突き刺さった。二人は仲間の青年——ナディルに引き上げられた。息をつく間もなく、テオは顔を上げる。
「カイルのところに連れて行って」
ナディルはテオの言葉に頷きつつも、横目でユーリを見やった。
「テオはいいけど、ユーリは……」
テオの半歩後ろで俯いていたユーリが、抱えた腕をぎゅっと握り締めた。彼の頬にはまだ鱗が残っている。テオはナディルに鋭い視線を向けた。
「ユーリは、ユーリのままだろ」
テオの静かな声が夜の空気を震わせ、ひときわ大きく炎が揺れた。
ナディルは、唇を噛んだ。助けたい気持ちと、村の視線への恐れが胸の中でせめぎ合っているのが、テオにも分かった。
「わかってる。でも、村の連中はそうは思ってない」
ナディルの声は掠れていたが、一歩も譲らぬ気迫を滲ませた。テオが言葉を詰まらせると、ユーリが代わりに口を開いた。
「テオ、いいよ。わかってるから。みんなに迷惑をかけたくない」
「だめだ。君はカイルのそばにいるべきだ」
テオはユーリの肩を掴み、ナディルに向き直った。
「ユーリも一緒に行く。僕が人目を引くから、ナディル、君はユーリをカイルのところへ。……それならいいだろ」
ナディルが何かを言いかけた。だが、テオの真っ直ぐな視線を受け、ナディルは唇を噛み、短く頷いた。迷いを飲み込んだ仕草だった。
「ユーリ、ちょっとごめんね」
そう言って、その手をユーリの頬に伸ばしかけて、ほんの一瞬ためらう。それから、そっと彼の頬に泥を擦りつけた。ユーリは驚いたように小さく肩をすくめる。
「これで、少しは」
泥が頬と腕の鱗を覆い、かすかな光を隠した。ナディルがわずかに目を見開く。だがテオが短く「行こう」と言うと、その声音に押されるように頷いた。
三人は足音を殺しながら、家々の間を抜けた。村は静まり返り、建物の窓からこぼれるわずかな灯が、家々の奥に潜む気配をぼんやりと映している。時折、見回りの灯が道を横切った。
息が弾む。テオは声を潜め、ナディルに尋ねた。
「魔物は? どうなったの?」
「あれから村まで下りてきたのは、数頭だけみたいだ。村の人たちは、家の中か、奥の方に避難してる」
「そう……よかった」
三人はミレットの家へ急いだ。村の静けさが、かえって胸の奥をざわつかせた。
家の周囲には、斧や鍬を武器代わりに手にした村人たちが、見張りに立っていた。彼らは魔物の気配を探るように息を潜めている。
松明の炎が風に揺れ、影が壁を這った。ナディルが低く息を吐く。
「裏口はあそこだ」
彼は見張りの数歩奥にある戸を指さした。テオは一歩前に出る。
「僕が行く。ユーリを頼んだ」
駆け出そうとしたその肩を、ナディルが掴んだ。短い逡巡の後、ナディルは静かに言った。
「いい。俺が行く。お前もカイルに会いに行け」
その眼差しには、覚悟の色が宿っていた。
「ありがとう」
テオはその目をまっすぐに見返し、短く頷いた。
次の瞬間、ナディルは物陰から飛び出した。手近な農具を蹴り倒し、地面に大きな音を響かせる。
「なんだ」
見張りの男たちがざわめき、松明の光が揺れた。
「魔物か……!」
その光に照らされたナディルは、わざと息を荒げて叫んだ。
「北だ! 北にもいる!」
動揺が走り、数人の男たちが武器を掴んで駆け出していく。
「今だ、行こう」
テオは小声で言い、ユーリの手を引いた。二人は物陰を抜け、裏手へと回り込む。軋む木戸の音が夜に溶けた。
「早く! 誰か!」
遠くで、ナディルの声がまだ響いている。テオとユーリは振り返らず、裏口から建物の中へと身を滑り込ませた。——その瞬間、闇の中から伸びた手が、ユーリの手首を掴んだ。
「待て」
低く鋭い声が響く。影の中に、険しい顔の男が立っていた。
「お前たち、何しに来た。なぜ裏口から忍び込もうとした?」
テオは咄嗟に口を開きかけたが、言葉が喉に貼りついた。どう言えばいいのか分からず、ほんの一瞬、迷いが喉を塞いだ。テオは嘘をつくのが得意ではなかった。
二人が口ごもっていると、男の視線がふとユーリの腕に落ちた。その表情がみるみる厳しくなる。泥の下から、剥がれかけた鱗がのぞいていた。
「お前……」
男が顔を歪め、掴んでいた手を放して一歩退いた。その目には、恐れと嫌悪が混じっていた。
「待って。知らせないで。ただ、カイルに会いたいだけなんだ」
それでもユーリは、かすれた声で訴えた。男はすでに振り向きかけていた。仲間を呼ぼうと、口を開く。
「誰か——」
「お願い。カイルに会わせて。……それでもう、ここを出るから」
その言葉に、男の動きが止まった。
「なんでっ」
テオは弾かれたようにユーリの顔を見た。ユーリは、テオの声など耳に入らないほど思いつめた表情で、男を睨みつけている。
男は一瞬ためらった。そして眉を寄せたままユーリの顔をじっと見下ろすと、やがて辺りをたしかめた。
「……今だけは見逃してやる。だが、明日の朝までには、ここからいなくなれ」
低く言い残すと、男は静かに身を引いた。その背中が暗闇の中へ消え、足音が遠ざかる。
テオとユーリは、互いの顔をたしかめる間もなく家の奥へ進んだ。
カイルの眠る寝台は、いくつもの蝋燭の明かりに囲まれていた。扉の軋む音に気づいたミレットが、驚いたように立ち上がる。テオとユーリの姿を見て、目を見開いた。
「ユーリ、テオ! よかった……無事だったんだね!」
テオがカイルの容態を尋ねるよりも先に、ユーリは彼の枕元へ駆け寄った。カイルの姿を認めた瞬間、口元を覆って立ち尽くす。ミレットは潤んだ視線をテオから逸らし、小さく俯いた。テオは恐る恐る寝台へ歩み寄る。
寝台に横たわるカイルは、苦しげに眉を寄せ、固く瞼を閉じていた。額には玉のような汗が浮かび、呼吸は浅く、早い。そしてテオは、その黒く脈打つ腕を見た瞬間、息を呑んだ。
「なんとか血は止めたけど……」
ミレットの声は涙で震えていた。ユーリは言葉を失ったまま、カイルの枕元に膝をつく。そのか細い背中が跳ねるのを見ていられず、テオは目を伏せた。
やがてユーリは、カイルの剥き出しの腕にそっと指を伸ばした。撫でるように傷をなぞり、その指がカイルの手に触れそうになる。
「あのときと同じだ」
ユーリが口の中で呟くように言った。
「この傷、見たことがある」
テオは小さく目を見開く。ユーリは顔を上げ、テオを見た。
「テオ、君、文字は読める?」
「え?」
突然の問いに、テオは戸惑った。ユーリの眼差しは真剣だった。
「わからない。ここでは文字を見てないから」
「……そうだよね」
ユーリは肩を落とし、けれどどこか諦めきれない表情で続けた。
「母さんの本があるんだ。母さんは、その本に書かれた言葉で、これと似た傷を治してた」
「じゃあ、その本を読めば――」
テオの言葉に、ユーリは俯いて首を横に振る。そのとき、ミレットがそっと口を開いた。
「文字なら、私、読めるよ」
「本当に?」
テオとユーリは顔を見合わせた。ユーリの瞳が揺れる。
「その本は今、どこにあるの?」
ユーリは小さく目を伏せ、声を落として答えた。
「……砦だ」
胸が冷たくなった。あの魔物が蠢く砦に、もう一度戻るのか。テオは無意識に唇を噛んでいた。細く差し込んでいた希望の光さえ、遠のいていくように思えた。
そのとき、カイルが苦し気に呻き声を上げた。テオは瞼を閉じ、首を振る。
「……砦へ戻ろう」
テオはもう一度目を開いた。カイルの顔の上に揺れる灯を見つめ、大きく息を吸う。そしてユーリに手を差し伸べた。ユーリはその手を握り返し、自らを奮い立たせるように、ゆっくりと立ち上がった。




