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太陽のレガリア  作者: 志乃さつき
第一部 忘却の砦

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第八話 二人の過去 ——孤独が触れ合った夜

 湿った空気が肌にまとわりつき、石の壁は濡れて冷たい。どこかで水滴が落ちる音がする。膝のあたりまで水が溜まり、地面はぬかるんでいた。冷気が靴底からじわりと伝わってくる。


「……ユーリ?」


呼びかけると、すぐ近くでかすかに水が揺れた。


「ここに、いるよ」


声は弱く、掠れていた。


「怪我は?」


「……身体が、熱い。けど、大丈夫」


大丈夫ではない声だった。


「ここから出よう」


テオは壁から背を離し、石に手を這わせる。湿った苔の感触が指先にまとわりついた。石の隙間に足先をねじ込み、力を込めたが、すぐに滑って水音が跳ねた。


「無理しないで。……ここ、深いし」


「でも、村も心配だし……ここは寒すぎる」


テオの声が井戸の底に反響する。


「外より、ここの方が安全だよ。水は……冷たいけど、落ち着く」


落ち着く、という言葉と裏腹に、ユーリの息は浅かった。二人の間に、波紋のような沈黙が広がる。


「カイルは、きっと大丈夫だよね?」


ふと、吐息にも似た、すがるようなユーリの声が、冷たい空気に滲んだ。テオは答えを探し、見つからないまま唇を噛んだ。


「うん。きっと、大丈夫」


言いながら、自分の声が震えているのがわかった。ユーリの浅い呼吸の音が、井戸の暗闇でやけに大きく聞こえる。うまく彼を安心させてやることもできない自分が、ひどく歯がゆかった。

対岸で、石の擦れる音がした。


「ユーリ?」


返事はなく、呼吸が乱れる音だけが聞こえた。テオは水を蹴って駆け寄り、肩を抱きとめた。湿った髪が腕に触れた。


「もし、カイルが死んだら、僕は……」


細い肩が、小さく震えた。


「カイルが魔物に襲われたとき、血が……沸くみたいで。気がついたら……」


縋る指先が、テオの肩を掴んだ。テオはためらいがちにその手を包んだ。冷たい鱗が、掌に触れた。人の肌ではない質感。それでも、確かな体温があった。

沈黙が、井戸の底に満ちた。


「テオ、隠しててごめん」


やがて、彼は少し落ち着いたのか、静かに言った。その声は、もはや震えてはいなかった。テオは口を開きかけたが、言葉は出なかった。


「見張り台で、君が“何かが見える”って言ったとき、同じかもしれないって思ったんだ。……でも言えなかった」


水滴の音が、やけに遠く感じられた。テオは言葉を探すのをやめ、ただその気配に耳を澄ませた。


「僕はこの村の人間じゃないんだ。僕は幼い頃に、カイルの家に拾われた」


ユーリはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸い込んだ。足元の泥を踏みしめ、再び石の壁に背を預けると、幼い日のことを語り始めた。


 彼は母と二人きりだった。物心ついた頃には、二人に決まった家はなく、いくつもの村を渡り歩くように暮らしていた。なぜ父がいないのか、なぜ家がないのか、その理由を彼は知らなかった。ただ、村を渡り歩かなければならないのは自分のせいなのだと気付くのに、さして時間はかからなかった。


「僕には、ほかの人には視えないもの、聞こえない音が聞こえた」


煙のような影、知らない言葉の囁き——。


「それが視えたあとには、決まって魔物が出た。彼らにはね、人を襲わないやつもいるんだよ」


ユーリは小さく笑い、それから、村人たちが彼を“厄災”と呼んだことを打ち明けた。


「でも、母は僕を咎めなかった。母さんにも、特別な力があったから。言葉で魔物を追い払える力」


その響きが魔物たちの声にどこか似ていたと、彼は躊躇うように口にした。

ユーリはそこで言葉を止めた。水面の揺れが、ふたりの間を照らす。


「だから……母の声を思い出すのが、怖いんだ。痛い記憶ばかりだから」


小さな吐息が零れた。


「君が羨ましかった。……僕も全部忘れられたら、って」


その言葉は、静かに胸に沈んだ。忘れてしまった痛みと、忘れられない痛み。どちらが残酷か、すぐには答えられなかった。テオは返事をせず、ただ彼のそばにいた。


「今のは忘れて」


ユーリがかすれた声で呟く。

テオは頷かなかった。忘れてほしいと言われたことさえ、忘れずにいようと思った。


「……誰も、傷つけたくなんかないのに」


声は少しくぐもっていて、手で顔を覆っているのだとわかった。


「……カイルは、知ってたの?」


問いかけると、微かな頷きが肩越しに伝わった。ユーリは訥々と続けた。


「母さんが病気で動けなくなったとき、僕はこの村でカイルに出会ったんだ」


ユーリは、自分の視えるものや聞こえる音を、もはや不用意に他人に話すことはなかった。

それでも、病を抱え、どこからともなく流れ着いた得体の知れぬ親子は、容易には受け入れられなかった。村のはずれ、森に近い小屋で息を潜めて暮らしても、近隣の村から届いた悪い噂はすぐに広まった。二人が外にいると、通りすがりに石を投げられたり、冷たい視線を浴びたりするようになった。


村に馴染むことのないまま、幾月も経たずに、母はユーリを遺して死んだ。


「秋が終わるころだった。食べ物もなくて、暖を取る方法も知らない僕に、カイルが初めて手を差し伸べてくれたんだ」


カイルはこっそり家から食べ物を持ち出し、それを分けてくれた。二人で焚き火の前に座り、湯気の立つそれを口に運ぶ時間が、ユーリにとってはじめての安らぎだった。


 けれど、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。村ではすでに、カイルが流れ者の子と親しくしているという噂が広まっていた。ユーリを引き離そうとした大人たちを止めようとして、カイルは倒れ、額から血を流した。その瞬間だった。ユーリの腕に、鱗のようなものが浮かび上がった。


「たしかに――あのとき、カイルはそれを見てた」


二人の視線が交わったとき、カイルは咄嗟に、ユーリの腕の鱗を隠すようにその手を伸ばした。


「カイルってお兄ちゃんぽいでしょ。でも、本当はカイルは三人兄姉の末っ子なんだよ」


ユーリは少し笑う。

カイルの家族を説得して、二人はまもなく村を離れ、丘の砦に身を寄せることになったのだった。


「カイルがいなかったら、今の僕はいないよ。……カイルは、僕の唯一の家族だ」


家族。その言葉に、テオの胸が鈍く痛んだ。思い出せないけれど、自分を大切に思ってくれていた人たち、自分が大切に思っていた人たちがどこかにいるのだろうか。その人たちは、テオが生きていることを、喜んでくれるだろうか。胸の奥に、何かが引っかかったまま、消えなかった。


テオは小さく頭を振り、ユーリの腕を掴んだ。


「それなら……家族なら、ここを出てカイルに会いに行こう!」


 こだまするテオの声に重なるように、古井戸の蓋が突然、軋んだ音を立てた。揺らめく光が、石壁の上部を白く照らす。


「おーい! ユーリ! テオ! 無事か?」


仲間の声だった。松明の明かりに照らされて、逆光に浮かぶ人影が見える。


「うん! なんとか!」


テオは喉の奥から声を張り上げた。


「カイルが大変なんだ!」


「カイルが?」


ユーリの声が掠れる。


「魔物にやられた傷から毒が……腕が、黒く……!」


テオとユーリは同時に息を呑んだ。恐れと焦りが、胸の奥で重なった。

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