第七話 血の目覚め(2)——炎に晒された真実
風は止み、背後の森の奥で何かが崩れる音がした。
テオは仲間に肩を担がれながら、砂利の坂道を息を切らせて下っていた。
「ははっ……まさか、生きて出られるとはな」
安堵とも虚脱ともつかない笑いに、テオもかすかに笑い返した。怪我といえば、狼の牙を避けるときに足を挫いたくらいで、二人とも掠り傷で済んでいた。
「あの石、下手したら僕に当たってたよ」
テオが見張り台に駆け寄ったとき、彼が狼の群れめがけて石を放ったのだ。使い物にならないと思っていた投石器が、土壇場で役に立った。
「悪いな。なんでもいいから、やるしかないと思ったんだ」
彼は脱力したように頭を垂れた。髪の間から覗く口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
見張り台から放たれた一撃が、群れの動きを一瞬止めた。その隙に、テオが鉄の塊で何頭かの足を叩き折った。身体は剣の呼吸を覚えていたようで――考えるよりも先に、動いていた。
「でも、本当に助けに来てくれるとは思わなかった。……ありがとな」
まっすぐに見つめられ、テオは一瞬、言葉を失った。胸の奥に、あたたかい火が灯ったような気がした。
少し開けた道に出る。空を見上げると、木々の向こうに橙の灯りがぼんやりと滲んで見えた。
「もう少しかな。君の村はこのあたり?」
テオが尋ねたその直後、前方の方角から叫び声が響き渡った。二人は顔を見合わせ、息を詰める。次の瞬間、力を振り絞って足を踏み出した。
「急ごう」
村の入り口では、松明の炎に照らされて巨大な黒い影が揺らめいていた。魔物が木の葉を震わせるほどの低い唸りを放ち、村人たちと対峙している。
「カイルっ」
隣で抑えた悲鳴が上がる。テオは少し遅れて、その視線の先を追った。魔物の足元に、倒れている影——血に濡れたカイルの姿があった。
そして、その魔物と対峙するように、ユーリが立っていた。
炎が風に煽られ、光が彼らの間を行き来する。
揺らめく光に包まれながら、カイルは、薄れゆく意識の中でそれを見た。ユーリが人ならざるものへと変わる瞬間を。音は水の底にいるように遠いのに、背を丸めて低く唸るユーリの手足の皮膚が裂け、硬い鱗が姿を現す――その軋むような音だけが、はっきりと耳に届いた。
「カイ、ル」
苦しげな唸りに紛れて、ユーリは彼の名を呼ぶ。
「ユーリ……やめろ……」
顔を上げたユーリと視線が交わる。カイルは彼に向って手を差し伸べた。ユーリの表情を覆う白い鱗が、松明の炎を受けて閃く。硬い鎧の奥にのぞく瞳が、赤く染まっていくように見えた。
竜は低く沈み、地を蹴る。翼のない体が弧を描き、鋭い鉤爪を持った脚が魔物の脳天を目掛けて振り下ろされた。風を切る音と魔物の悲鳴が耳に届くころには、魔物の顎は地面と衝突し、土埃が舞い上がっていた。
惨状を遠巻きに見ていた村人たちは、松明を掲げて飛び出した。
何人かは倒れたカイルに駆け寄り、何人かは松明を高く掲げる。光の輪の中で、竜が息を荒らげながら身じろぎした。村人たちは竜との間合いをはかる。
その竜は、鱗の間から血を流しながらも、ゆっくりとカイルへ歩み寄り、その上に影を落とした。深い琥珀の瞳が、静かに彼を見下ろす。
ユーリだ、とテオは遅れて理解した。その瞬間、テオは思わず飛び出していた。
「ユーリ!」
視界の端に、背後から追いすがってくる仲間の姿が映った。
カイルのそばに膝をつき、血に濡れた肩へ震える指を伸ばしていたユーリが、テオの声に顔を上げる。そして、松明の火に囲まれていることに今さら気づいたように、ゆっくりと片膝を立てた。
村人たちは、じりじりと彼に詰め寄る。
「竜だ」
誰かの呟きが、夜気を震わせた。次の瞬間、松明を掲げていた一人が後ずさる。
「竜の呪いだ」
ざわめきが波のように広がる。
テオは、咄嗟にユーリの前へ出た。何も言わず、村人たちを睨みつける。見慣れぬ若者に向けられた視線が、一瞬たじろぐ。それでも、炎の向こうから投げかけられる憎悪は止まらなかった。
「お前、ユーリじゃないか? カイルのところで預かってた」
一人が松明を突き出し、光を彼の顔に近づける。炎の熱に思わず顔を背けたユーリの頬を見て、テオはその手を押し戻すように松明を遠ざけた。
「お前が来てからだ。森に魔物が出るようになったのは」
男は息絶えた魔物を一瞥し、血の臭いに顔を歪めた。
「お前が呼んだんじゃないのか」
「違う、僕はそんなことしてない」
ユーリの声は掠れていたが、その響きには確かな拒絶の意思があった。
「よそ者を村に入れるべきじゃなかったんだ」
別の男が吐き捨てるように言った。
松明の明滅の中で、村人たちの顔が次々と浮かび上がる。怒りに顔を歪める者、沈黙する者、そして恐怖に凍ったままの者。ユーリとテオに注がれた村人たちの視線は、二人を捉えて離さなかった。
テオは崩れ落ちそうなユーリの身体を支えた。掌に触れた鱗は冷たく、かすかに震えていた。
村人の一人が二人に歩み寄った、その瞬間――森の奥で木の葉が擦れ合う音がした。風ではない。低い唸りとともに、地面がわずかに震えた。
張り詰めた空気を裂くように、声が響いた。
「魔物の大群が迫ってる! まずは避難だ!」
どよめきが広がり、村人たちは互いに顔を見合わせる。いくつかの足音が、慌ただしく村の奥へと消えていった。
仲間はテオと村人たちを交互に見やり、村人たちを誘導しようと手を挙げる。
「落ち着け! こっちだ!」
だが、松明を手に先頭に立つ男が、後ろの者たちに言い放った。
「得体の知れない奴らに好き勝手させるわけにはいかない。こいつらを古井戸に閉じ込めろ」
村人たちは二人を取り囲み、その腕を乱暴に掴んだ。テオは思わず痛みに顔を歪める。
カイルを抱き起こし、村人たちの後を追おうとしていた仲間が振り返った。口もきけないままカイルに縋るユーリの目を見て、テオは反射的に肘を振り上げる。
「離せ!」
テオが抵抗しようとするほどに、村人たちは腕を掴む力を強めた。
「……ごめん」
項垂れたユーリが呟いた。諦めと悔しさの滲む声が、テオの胸を締め付ける。ユーリの肩を乱暴に押さえる男を睨みつけながら、テオは静かに腕を下ろした。
「カイルを……」
ユーリは力を振り絞るように顔を上げ、震える声で仲間に呼びかけた。
「カイルを頼む」
その言葉を、テオが引き継いだ。
かすかな木の軋みとともに、外の光が細く削がれ、最後のひとかけらが消える。闇が降り積もるように、古井戸の底は静寂に包まれた。




